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8月, 2020の投稿を表示しています

完璧にできる人になりたい

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自分のミスで怒られるということがありました。 自分が悪かったので、怒られてしまって当然で、言われた内容は本当にその通り、怒った相手の言うことに間違いはありません。 ひたすら謝罪するわたし・・・次は本当に注意していかなくては 。 ●完璧に仕事ができる人になりたい パターンになぜそう思うのかと聞くと、 だって、完璧にやれれば怒られることもないし、責められることもないし、自分が楽でいられるし、苦労しないですむから。 他人からとやかく言われることがいやだと、 言われたら、自分はとても傷つくんだとも言っています。 だから、完璧にやることができれば、自分は傷つく確率が減る。 つまりは傷つくことに恐れを抱いているから、パターンはどうやったら傷つかないかと考え、仕事ができる人を求めていったのだと思う。 もっと 深く掘り下げていくと、 傷ついたらもう自分は生きていけない、誰からも相手にされない ・・・ 人から見放され、何の魅力も持たない自分を妄想しているのです(なんと、極端なことか)。 完璧を目指せば目指すほどに、何をもってこれでよしとするかがとても曖昧です。 その曖昧さを求めるのですから終わりがないし、それはむしろ苦しくて努力ばっかりで、 自分が楽でいられると思っている世界とは真逆の方向へ行ってしまう。 完璧さを求めてがんばるのは、 傷つきたくないという恐れが発端になっているので、向かう先は休まることのない世界です。 〇自分のできるところでやっていこう 自分が今もっている力で精一杯、周囲の助けや見えないものの力を借りながら、今やれることを誠実にやる。 それが自分の仕事の仕方なんだ、それで大丈夫なんだというところを選ぶと、 肩の荷がおりて、ほっとして仕事を楽しめる余裕、失敗から学べる意欲が生まれます。

本当の「私」とパターンの区別

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いつも何かしらの不安があって、いつも何かにおびえていて、 ちょっとしたことで心臓がばくばくして、胸がしめつけられて、やっぱり自分ってダメだ・・・ 人前ではどんなに平気を装っていても、 本当の「私」は、こんなに弱く情けなく無力な人間なんだと思っていた。 この弱く情けないほどに無力だと感じているのは、本当の「私」ではなく、パターンと呼ばれているものなのだけれど、 どうしても、そんな自分との付き合いが長いばっかりに、 これは本当の「私」ではないのです、と言われても~ ・・・パターンとの区別がつかない時期がありました。 先日、ある方が、とても人の目が気になってしかたないと言っていました。 人の目やどう思われているかも気になるけれど、そうやって気にせずにはいられない自分はもっといや。 「このままじゃいや。でも変われない」と言う。 この、気になるということも変わりたいけど変われないと思う気持ちも、どちらも本当の「私」だと捉えているととても苦しいです。 本当なんだから、これはどうしようもないというさらなる絶望感(よく言う、性格は変えられないというのと一緒?)。 「本当の」という言葉には、「裏の顔」みたいな意味をイメージしてしまって、 優しいけれど本当は意地悪とか、 落ち着いて見えるけど本当は怒り狂っているとか、 余裕をみせておいて本当は死ぬほど怖いとか。 後者の表現のような悪いこととされるものが本当の「私」だと思った方がしっくりきていたかもしれません。 もちろん、パターンも自分の一部であるのでそれも自分ということで間違いではありませんが、 自分のケアをしていくうちに、 優しかろうが意地悪かろうが、 それさえも問題視しない全てを包みこむ神のような大きな存在が自分の中にあることを、 少しずつ実感として感じられるようになっていきます。 このプロセスは、3歩歩いて2歩下がるくらいの本当にかすかな実感から始まりますが、 不思議なほどに、体験したことは忘れられません。 そしてまた、本当の「私」とパターンという2つの存在を理解するというのは、 論理的に考える癖があると難しいのかもしれないとも感じます。 なぜかというと、頭での理解で完結してしまうことがあり、 体感の部分が省略されても(行動を起こさなくても)頭での理解を「経験できた」「わかった」とみなしてしまうことがあるからです。 どうやらそんな...

意識を高くもたない

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休日はゆっくり過ごしたいと思うのですが、 そのために何をして過ごしたらゆっくりできるかなって考えるのが自分は苦手です。 ゆっくり過ごしたいというのは、それだけ休日という時間でないとゆっくりできない性分ということかもしれません。 これでも大分ましになったとは思うのですが、以前は手の抜き方がよくわからなくて、 好きなことに対して過集中になってしまい(これは、気になっていることに対しても同様)、 本当にふらふらになるまでエネルギーを注ぎがんばってしまう性格でした(倒れるまでやる、みたいな)。 家に帰ればスイッチが切り替わるのですが、 そのスイッチの効きが微妙に切り替わっていかないときがあり、 身体こそ動いていないけれど、だらだらと頭をずーっと使っているということもあります。 何かわかるまで考えぬきたいと思ってしまうパターンがあるようです。 そんな日々が続くと例外なく、疲労がたまり、睡眠の質が低下し、目の下にくまが出没し、頭痛がしたり、首のヘルニアが再発したり・・・ といったわかりやすい身体の症状が表れてくる。 そして、もっとわるいことは、 今日の休日は本気でゆっくりしないとやばいと感じてしまうと(疲れがピークを感じると)、 『ちゃんと休むこと』に意識が向いてしまうこと。 何をしたら、どんな時間の使い方をしたら、最高に自分はゆっくりできるのかを考える。 午前中はこんな感じで、昼は何を食べて、あそこに今日こそ行ったらいいか、それともこっちに行った方がいいか、 夕方は何時には家に戻ってゆっくりした方がいいか、頭を使わない本なら読んでもいいか等々。 いい一日にしたい意識がハンパない・・・。 何をしたらベストかをいちいち考えて頭を使い過ぎて、また忙しくなっていたり。 これは自分にとってあまりいい兆候ではないです。 もっと、意識を低~くもつ方がいい(休日に関しては)。 朝ご飯を食べたら何となくまた布団に入ってごろごろして、 お風呂に入ったりしてもまたパジャマを着る。 何もしないうちに夕方になって、 ぶらっと目的もなくドライブをしたり、 やらなきゃならないことはできる限りやらずに、 本当に無駄だと思えるどうでもいいことをして何時間も過ぎていた〜 こんな休日を無意識に送っていた時の方が、明日への活力へとなっていくという事もあります。 これをやりたいとか、ここに出かけたいとかいう楽しみや、...

続けること

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昨夜、テレビをつけたら、志村けんさんのドラマが放送されていました。 いまだに亡くなられたことが信じられなくて、『8時だよ全員集合』時代から『志村動物園』、朝ドラ『エール』、まだまだテレビで会えるんじゃないかと思ってしまうほど、 その大きな存在感とユーモアと温かい人柄が大好きでした。 わたしは志村さんが共演する方たちに言った「続けていれば・・・」という言葉がとても胸に響きました。 続けることって、自分も含め現代の人たちにとってとても難しさを感じる言葉ではないのかなと思うのです。 続けるためには、もっともな理由、モチベーション、続けられる時代背景と環境、その先に到達できるものがあるのかどうか等々、 いくつかの条件のもとに成り立つものだと考えてしまうから。 続けるのかやめるのか、誰にでも迷う時ってあると思う。 やめたとき、じゃあどうなる。 続けることへのメリットって何?と、いろいろなことを天秤にかけながら考えます。 その先にある自分の姿が想像できないために、何の確約も保障もないまま未来に進んでいっていいものなのかどうか。 戻るなら、やめるなら、変わるなら、少しでも早い方が若い時の方がいいのではないのか、とも思ってしまう。 何か一つのことを一度しかない人生において、選択するのは自分であって、その自分が下す判断は間違っていないのだろうかと、 自分自身に自信を持てないから迷うのだと思う。 でも、自分に自信を持って生きている人などいないし(物事によっては自信をもっていることはあるかもしれないが)、 そういう自分でいるからこそ、悩むことができて、迷いの本質をみようとする機会が与えてもらえるのだと思う。 「続けていれば・・・」の先に言っていたのは「いいことがある」です。 いいことというのは、自分が得をしたり、誰かに認められたり、ハッピーで飛び跳ねて喜ぶこととは少し違って、 もっと静かでじわーっと、ふとした瞬間に感じられる自分が生かされて生きていることへの感謝の気持ち、なのではないかと思うのです。 また、見たことがない自分自身への発見かもしれません。 それは執着することや、意地や惰性ではないところで、 続ける自分をきわめてみようという、カウンセリングへの探求心にも似ていると思いました。 知ってしまったらつまらないし、簡単にわかったと思ってしまえば成長はそこで終わる。 自分も他人もまだま...

相手のためか、自分のためか

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働くことってあたり前ではない。 特に、コロナ時代になってから、就職までの平坦ではない道のりを経てがんばってきた人たちが、そこを辞めなければならない事態になるのは、 本当にやるせない思いがしています。 その一方で、その道のさなかにいる大変な人たちと、その人生の一部にかかわれる自分は、 疑似体験としてもう一つの人生を体験させてもらっているような、かかわらせてもらえることへの感謝の気持ちがあります。 どうやったら今のその人の状況を変えていけるのか(無職という状況だけではなく)、 働くと一言でいっても、障害や病気を持ちながら、またその人のこれまで目を背けてきた部分までもが見えてくる中で、 まさしく、模索する・・・のです。 その苦しさを体験しているのは本人でしかないのだけれど、 その苦しみを生み出しているものはどこからやってくるのか観察をしていく、それ事態が、 本当の「私」が自分の心の中のパターンを観察しているように、わたしがその人を観察していると思うことがあります。 自分のことではないので、100%の理解はもちろんできませんが、理解できてなくてもいいという前提でかかわりははじまる。 謎解きをしていくかのように、自分の心にひっかかったところ(わからない点)をひとつひとつ解いていきながら、 相手を知りたい、その一心でわたしはいるのだと思う。 単に情報を集める、調べる、制度を使う、という現実的な部分よりも(そこも大事だが)、 日々ゆれ動く人の感情、そう思った感じた表れた部分の元となっているものって何だろうってその人や、関わる人たちの心に注目していく。 そこから見えたことで、自分がサポートして変えられるものがあれば行動に移していく作業。 この一連の作業が自分は好きなんだ、とも思う。 でも、この作業は、自分のパターンでやってしまうと全く別のものになってしまうので、 パターンのケアが常に必要・・・ 人とかかわっていく中での自分の感情をキャッチしていくことが、結局のところ、 その人の問題が解決していくことへとつながっていく。 これは、一見関係ないことに見えるがゆえにすごいことだと思います。 相手、相手、と相手のためにと進んでいるときは何だかうまく進まず、 その人とかかわっていくさなかでの自分をケアすることに徹していくと、 いい感じで必要なものが与えられ、背中を押され、運も味方につけ、スム...

愛でできているわたしたち

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お盆に帰省できなかった兄が、母のためにオンラインで話そうということになり、早速スタンバイしてサプライズ。 パソコンに映る息子を見てびっくり仰天、母はうれしさと驚きで興奮状態です。「すごいねー!こんなことができるなんて」「お兄ちゃんが映っているわ〜」「長生きして良かった」と、その日はたぶんそれぞれ10回くらい感動して言っていたと思う。 わたしも兄とおしゃべりするのが久しぶりだったので、ついついいつものようにべらべらとおしゃべりしてしまい、気づいたら母がまだろくに話していなかったことに気づきました。それでも母は、わたしたちの会話を聞きながら、わかっているようないないような相づちを打ち、楽しそうでした。 兄の仕事が新型コロナウィルスの影響を受けていないのかどうか、普段とても心配していたのですが、いざとなるとそのことをケロッと忘れてしまい、兄の髪が伸びたとか、一緒に映っている犬に似てきたとか、こういうときの話って内容がほぼ無いに等しい・・・。時間はあっという間に過ぎていきました。 そしてこれは、娘とは違う息子ゆえの反応なのかなと思います。いくつになっても、息子って母親にとっては気がかりな存在のよう。何度かあくびをする兄を見て、疲れていないかと気遣うのです。大丈夫だよー、疲れてないってばー(そうだとしても、いいのいいの)。 わたしも兄が元気でいるかなとか、仕事はどうなのかなとか、飼っている犬2匹のことも含めてみんな幸せにやっているかなと思うことはあります。でも、母はもっと思うのだろうな。みんなお互いに離れて暮らす家族のことを、元気で幸せにいてほしいと願いながら、自分の生活を大事にしていくのでしょうね。 自分にとっての大切な人がいるように、他の人にだってそういう人はいると思う。どんなに嫌な相手であっても、腹が立つ憎い相手であってもです。大切な人たちの前では、きっとその人も幸せそうな顔をしたり、心配する優しさがあったり、その人のために何かを一生懸命してあげているのかもしれません。 どんな人であっても、ささやかであっても、愛を誰かに届けながら、また誰かから受け取りながら生きている。そんなことをちゃんと想像できるような人でありたい。 今日一日、自分の持っている愛をどれだけの人にわたしは届けることができたかなあ

読書のタイプ

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去年くらいから、自分の中で読書を解禁しました。 ということは、それまで読むことを止めていた、ということなんですが、きっかけはカウンセリングの先生から「本は読まなくていいよ」と言われた衝撃の一言(先生は忘れているかもしれないが)。そのとき理由は聞かなかったのですが、頭でっかちだった自分へ、知識より実践が数倍大事だよという意味だったのでは・・・と解釈し、それっきりぱたりとやめました。自分以外のものから(それが本)すべて答えを導き出そうとしていたわたし。家にある本を古本屋に出し、これからは自分の中から答えを探していくんだ、という気持ちだったと思う。 これも勝手な解釈ですが、そろそろ、いい読書の仕方が自分にもできるようになってきたのではないかと思い、最近やっと、本当に読みたい本を読むようになりました。わたしは俄然、電子よりは紙派なのですが、紙のページをめくりながら、印刷された文字に目をやると自分に必要な部分は目にとまりやすく、そうではない部分はさらさらと進んでいく感じがします。 以前は、一冊の本を頭だけで読んでいたように思う。きちんと理解しながら読まないと気がすまないというか・・・。でも今は、一度に2~3冊の本を同時進行で読み進むこともあり、感性と感覚を使えるようになった気がします。わからない部分はとばすこともあるし、知りたい部分はページをもどり、心に入ってくる部分を感じ取りながら読む。そうすると、この本はまだ手放せないと思うこともあって、一冊の本を何度も時間をかけながらずーっと読んでいる、ということもある。読書の仕方がまったく変わりました。 今、本当に本を読むことがたのしいです。 そして肩こりにはタイガーバームがお勧めです。

通じ合い

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 昨夜は、迎え盆でしたので仏壇の前で手を合わせながら、しばし日頃の感謝の気持ちをご先祖様に伝えていました。すると向こうから、温かな気持ちうれしい気持ちが伝わってくるようでした。何だか通じあっているような感じがする・・・。普段とは違う特別な日だと自分が思うからなのかもしれませんが、思いを伝えるというのは見えない相手であっても、いいものだなあと思います。 今朝のTVで流れていた歌♪ご先祖様がいるからぼくがいて、ぼくが子どもを持ったら今度はいつか自分がご先祖様になるんだ♪・・・というような歌詞。会ったことのない先祖の方が多いけれど、いつかはその方々と一緒の側になる自分。そうなったときに、子孫にはとにかく元気で楽しんで生きてほしい、何でも思いきり挑戦してほしい、と自分があっちの世界に行ったら願うだろうなと思います。だから、お願いごとをするとそれが叶えるにふさわしいものであれば、叶えてくれるというのは、そういう気持ちでいつも見守ってくれているからなのでしょうね。 小さい頃、母の実家に行ったときに、仏壇の前でおじいさんがろうそくにマッチで火をつけ、鐘を豪快に鳴らし手を合わせている姿が子どもの頃とても好きでした。次は自分の番だと、ろうそくからお線香に火をつけ、倒れないように灰に立てるのも好きでした。マッチを擦った時の火薬のにおいと、お線香の香り、どっちもいい。 自分もおじいさんの真似をして座布団に座り、手を合わせると、「よく来たなあ。大っきくなったなあ」と、さも先祖が言っているかのようにおじいさんが言います(代弁している感じで)。ご先祖様とは日頃から親しくしていて、あの世の世界も知っているかのようで何かすごいなあと思ったものです。 そのおじいさんも、今はご先祖様になっていつもわたしたちを見守ってくれています。

勉強会の意味

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先日、岩手クラスの勉強会がありました。 『勉強会』であって『女子会』ではなくって~、魂の成長をめざしたい仲間が集まり、自分のパターンを考察する中での気づきを話しながら、またそこからのヒントを得て(又は、課題を見つけて)日常に戻っていく。普段自分が関わる人との間では、ほぼできないような話が主ですので(パターンとか何?ってことになるから)、言ってみれば心おきなく自分の成長のために突き進む姿勢を見せられる場所ということになるのかもしれません。 自分が勉強会に参加する理由の一つに、相手を鏡と見立てて自分の姿を確認したいということがあります。つまりは、勉強会のさなかに自分のパターンを見つけるということ。 今回の胸のざわざわは(パターン出現の合図)●自分でやるべき、 というパターン (もしかしたら、人に頼ってはいけない、というパターンかもしれないが)。 自分で決めるよりも、自分以外の信頼している人が言うことの方が正解だと判断することに対しての反応(自分にもあるある、ですが)。一体、自分のこれまでの葛藤や自分に向き合ってきた時間は何だったのか、自分のためにならないよ、自分がやってこそ身になるんだからとパターンは言っています。背中を押してもらったり、自分への自信につながることはもちろんあるけれど・・・。 そして、ここが勉強会で見つけたパターンらしいと思ったのですが、ここに集まる仲間だから、というところ。もしも、普段自分が関わっている人が、同じような話しをしていたとしても、たぶん何も感じないと思うのです(とても客観的に見れる)。 たとえば、語りかけというセルフカウンセリングの中で自分を理解するというワークがありますが、それをやってあたりまえという感覚(悩みの大元を知るために)。また、これまで学んできたことを深めていくこと、活かしていくことで自分を成長させていきたいと思う、そこをやるのが当然で、やらないことはだめなことという決めつけが自分にあったのかもしれない。 前回の日記 で起きたことのように、この目的で集まっているのだから、同じ方向を向いていなければダメ・・・みたいな感じです。いろいろな勉強会と称するたぐいのものは、そこに真剣に向き合えば向き合っている人ほど、この思いの不一致性に違和感を感じる人はいるかもしれません。 でも、このパターンのケアは自分がやるとしても・・・これでは勉強会...

シンプルではない暮らし

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シンプルライフの会が再開しました。 身も心もすっきりと軽やかに、シンプルな生活を送っていきたい、という集まりなのですが、ヒントとなる本がありまして、はじめて参加する方はその本の感想をお話しするところから始まります。 今回参加された方は、「この本に書かれていることを要約すると、物をためこまないような小さな家で質素に暮らすこと、そこで得られる一人の時間を楽しむことを勧めているようだが、自分はそれがいいとは思ってはいないのです・・・」と言っていました。 部屋数もあって無駄なものもたくさん捨てられずに置いてあるような昔ながらの大きな家が、自分には落ち着く、という人もいるし、身の回りをコンパクトにしなくても、暮らしを豊かに楽しむことはできる。 おお、なるほど・・・。 シンプルな暮らしを良いこととして話が始まること、 シンプルライフが好きだー、という人たちが集まるんだと、どこか 自分たちは(少なくとも自分は)あたり前に思っていて、 シンプルでなくてもいいと言う人はこの会には参加しないと思っていたかもしれません。 それゆえに、ちょっと衝撃が走りました。 そうか、共感だけから学ぶのではなく、反対意見(シンプルではない暮らしが好き)を聞いて参考にしていくことも良いなあと思いました。 自分の望む暮らしは、今の暮らしに満足していないために望むのでもある。 今与えられている暮らしを楽しみ、自分を取り巻くものと調和しながら作り上げるのもよし、そのままでも(すっきりしていない生活空間であっても)それはそれでよし、ということなのだと思う。 この考え方はちょっとわかるような気がします。 実家の部屋の壁塗り&片付けをしていたとき、この家がいかに年をとってからのことを考えていない造りなのかとか、 北国なのになぜこんなに風通しがよい家(寒い家)にしたんだとか 、それはまるで自分の家族の個々の不器用さに似ているなと思い、それがとてもおもしろいなと感じたのです。 ぶつぶつ文句を言いながらも暮らしてきた、そのこと自体が愛おしいというか、そこに住む家族を鍛えさせ、家が人を育ててくれた一面もあると思う。 今の自分がしたいと思うことは、 物質的にも精神的にも シンプルに暮らすことではありますが、その方のように、周りの考えにのまれることなく「どちらの暮らしもいいんだよ」と、自分の今のあり方をはっきりと言える大人って素...

もっと近くで話したい

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最近、とても意識している、 本当はそうしてみたいけど~・・・をやる、ということ。 ある集まりがあって、もしそういう場面があったら迷わずやってみようと思い参加しました(いつもと違う目的で)。 本当はそうしてみたいけど~・・・という場面ありました。 それは、話しをするときの自分の位置でした。 ソーシャルディスタンスということで、 座る間隔はいつもよりかなりあいていて、一番遠くに座っている方などは、表情が見えにくかったり、声も聞き取りづらかったりしました。 この環境が、どこか落ち着かなくて、 話すことを半分あきらめてしまう自分がいました(その場にいるのに、まるでリモートのような距離感)。 結局、会が終わってから席を立ち、話したい人のそばへ駆け寄り、 「もっと近くで話がしたかったんですが、大丈夫ですか?」と言うと、相手の方もにっこり笑い、そこからしばらく気になっていたことをお互いに話すことができました。 離れたところでよく聞こえないままでいるよりも、近くで相手を感じて耳を傾け、話したい・・・ それが、本当はしたいこと。 そのために きちんと相手の気持ちを聞くことができて良かったです。 これからのご時世を考えても、 今日のように、相手に聞いてみることって増えていくかもしれないなと思いました。 パターンで相手の考えや感じ方を決めつけてしまわないように、 また自分の行動も制限しないように、ゆるやかにのびやかにやっていきたいです。

まあいっかー

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あなたはどうしたいですか? という自分自身への問いが一日の中で何度となく出てきます。 この問いに答えるときに(パターンに答えさせてはいけないので、慎重に)、 基準となるものが、自分にとって(もっと厳密に言えば、魂にとって)後悔しないものであるかどうか。 本当はそうしてみたかった、という今までの自分がやれそうでやってこなかったものを選びたいと思うのです。 元々、そうなれなかったから苦しかったりするのであり、それを選択するにはまだ自分のパターンへの理解がほど遠かったのですから、 やれそうでも、怖くてやれなかったという現実がずーっと続いていることも受け入れなければならない。 だから、今度は理想を思い続けるだけでなく、 実際に小さな変化を起こしてみるということが、どんなに自分の世界を広めてくれるものであるか、 インプットだけでは何も変わらないんだ・・・ということを実感しています。 自分が理解できたと思っていることを、人に話したり、書いたり、整理したり、ということも大事なことですが、 『自分が行動する』にはかなわないと思う。 「まあいっかー」という、やってみたけどうまくいかなかった物事を深刻に考えない軽さと、 「まあいっかー、いつか自分に向き合えばいいさ」という自分のパターンをずーっと無視し続けることとは違います。 このあたりは、楽観主義、ポジティブ志向などとも混同しがちかもしれませんが、 そこを見分けるには、とった行動の後のすがすがしさとか、心が波打たない感じとか、落ち着きとか、 日常的に感じていけるようになると、違いはわかります。 本当はそうしたいけどね~、そうしたほうがいいのだけれど~ なんていうことを見つけた時には、肩の力を抜いて、自分がまずはやってみよう。

胸につかえていたもの

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ずーっと悔いていることがありました。 その日わたしは明らかに失礼を承知の上で、 とてもひどいことを言ってしまいました(ちょっと内容は言えませんが)。 口にした瞬間、 ああ、言ってしまった・・・最低だ。 その直後、相手の方の少し驚いたような、寂しそうな表情が忘れられません。 それなのに、ものすごく動揺した自分自身さえも偽り、わたしはずっと平気なふりをしていました。 あれから、約半年。 謝りたいのに、謝ることができないまま、 何度もチャンスはあったのにもかかわらず、勇気がなくて、言えなかった。 このまま自分は、ひどいことなんてしていないと、ごまかし続けることもできる。 もしかしたら、相手はもう気にしていないかもしれないし、傷ついていたわけではないかもしれない・・・。 でも、やはり限界でした。 それはわたしの魂が望んでいることではない。 もう魂レベルの話になるくらい、自分にとって大きな胸のつかえとなっていた。 そして、やっとのこと、 謝ることができました。 言い訳は一切なしで、ただただ謝りました。 相手の方は、全然気にしないでと、あの時のわたしに共感すらしてくれました。 はあ、なんて大人なんだろう。 なんてあったかい人なんだろう。 ここからまた、新しい関係性を築いていけたらいいな。 もうこんなことがないようにしたいけれど、 次にまた間違いをしたときは、 時間をかけずに、ちゃんと謝れるような大人になっていきたいと心から思いました。 胸につかえていたものがやっと取れ、 『謝る』という体験をわたしにさせてくれたことにも、その方へ、感謝したいです。

きらい、の行く末

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この人大嫌い・・・と思うのは、 本当の「私」ではなくて、自分の心の中にいるパターンが思っているだけです。 だから、本当の「私」がパターンの言いたいこと、どこがどう嫌なのかをよく聞いてあげて、 理解していることをきちんとパターンへ伝えることが大事(ここは声に出して言う)。 そうしてケアを続けていると、 「私」が本当にしたいことは何なのか、 これからもずっと変わらず「きらい」と言っている自分でいたいのか、 心はゆれ動いてきます。 「私」はとても正直で、何の策略も持たず、ただ真っ直ぐに事実を受け止めるので、 次第にパターン(黒)で生きることが苦しくなり、 違うパターン(白)の方がいいと感じるようになります。 それが本来の今の時点での、「私」の選択であり、それに伴う行動があって、 ケアをするとは、そういう積極的な手当てを自分にしてあげるということです。 自分が変わると相手も変わるという経験は、 相手を変えさせようと思っているうちは全く叶わないものですが、 相手はそのままでいていいし、自分もそのままでいいと思えるようになると、何かが動き出しはじめます。 この何かというのは、本来の「私」が選びたいものです。 何を本当は選びたいのかと胸に手をあてて聞き続けること(このとき、頭を抱えるのではなく、みぞおちあたりを~)。 毎日、相手の言動にふりまわされていたパターンが、 相手の言動が変わらなくてもちょっと落ち着いていられるようになり、 それでもまだ不十分で、 自分の言動を変えていくという覚悟を持ちながら、少しずつ自分が今までとは違った動きをしてみてはじめて、 今までかけていたメガネを変えたくらい、ものの見え方(相手への感じ方)が変わってくることがあります。 結果的に、相手は何ひとつ変わっていないのかもしれませんが、 自分が変わることで、相手も自分への感じ方は変化している部分もあると思う。 自分から発する声の感じ、目の感じ、話す内容、ふるまい等々、以前と同じはずがないからです。 自分にとっての相手の存在が大きく変わっていくと、 そのことがもうずいぶん前からそうだったかのように、 あるがままでお互いにいられることがごく自然になっていく。 本当にこれはいまだに、人生に起こる不思議体験の一つです。 科学的に証明するものはないけれど、 自分の心だけに起きる特別なしくみでもなく、 全ての人にあて...

昭和のつっぱり

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TVを付けたら、青春時代に戻りました。 中学生の頃大好きだった横浜銀蝿が『横浜銀蝿40th』となって歌っていたんです。 まさか、今、あの横浜銀蝿に会えるとは思ってもみなかったので、 興奮して、感激して、思わず涙が出そうなほどじーんとして聞いてしまいました。 あの頃よりも、何倍もかっこいい。 みんな歳相応のおじさんになっていましたが、とても元気をもらいました。 この胸にじーんとくる感じって、ただ単に懐かしさだけなのでしょうか? 還暦前後のメンバーの顔に刻まれたシワとか、 染めた髪の毛に、伸びた部分の白髪とか、 動きに、あの頃のキレはないかもしれないけれど、 共に同じ時代を生き、それぞれに紆余曲折の人生を送ってきたのだろうなあって、 勝手に想像しては、今目の前で歌っている姿に、ねぎらいと感謝と尊敬の思いがこみあげてきます。 そして、ああ、この感じ、この明るいノリが好きだったなあと思い出しました。 つっぱりなのにアイドルのような感じもあって(よく考えるとこれ、つっぱりって言うのか?)、 この独特の世界、好き嫌いはかなりはっきりしていたと思う。 当時、強面な外見から、ちょっと力が抜けるような、笑える歌詞が横浜銀蝿の魅力だったと思う。 現代風にカバーされた『つっぱりHigh School Rock'n Roll~在宅自粛編~』 も、 コロナウィルスの深刻さが変換されて、この人たちみたいに、どんな事態でもユーモアを忘れないところ、変わらずいいです。 人間って、悪いこと、幼稚なこと、いろいろ矛盾したことをやっているし、 今だって世間的に間違ったことをしていることもあるかもしれない。 でも、人間はそういうものだと思うし、強かったり弱かったり、心のもろさがあることもよくわかっている。 いつだって誰かに支えられ、生かされている自分がいることを、今こそ忘れてはいけない。 TVドラマ『今日から俺は!』(福田雄一監督)を見ていた方はわかるかもしれませんが、 時を経てまた少し違った捉え方で、ドライと言われる若い人たちに、昭和のつっぱり精神が共感されているようです。 人とのつながりを求めて、あの頃ヤンキーにあこがれていた人って多分にいた。 今の時代も、本当にしたいことは、心を傷つけ合うことなんかじゃなく、 心と心のつながり、支え...