きぐるみの中の私

小学生の頃(たぶん4年生くらい)、
学校帰りにエレクトーンを習っていた時があり、
日が短い季節になると、帰り道は真っ暗で、懐中電灯を照らしながら帰っていました。
今思うと、女の子にあの真っ暗な道(片側が林で、片側にぽつぽつと家があった)を歩かせるなど考えられないと思うのですが、
当時は今みたいに物騒ではなかったし、
車で親が迎えに行ける家庭はほとんどなく、普通なことでした。

家に着くまで時間がたっぷりあったのと、
おばけとか、怖さをまぎらわそうとしたのもあってか、
楽しいことを考える妄想タイムでした。
次第に、楽しいことから、暗闇を歩く神秘さからか、
私って何なんだろう、と妄想するようになりました。

例えば、自分が今見えているものは、本当のことなのかなあとか。
自分がこんな風にいろいろ考えていることを知っているのは、
他にも誰かいるんだろうか。とか...

特に、自分の顔って自分で見ることができないですよね(鏡に映さない限り)。
なんとかして、見たくて目をぐるぐるしたり、
口を尖らせてくちびるがちょっと見えると嬉しかったり。
鏡に映っている顔、みんなが見ている顔って本当に自分なのか?
疑いが半端なかったんです(アホのような話ですが)。

そして、心だけは見えないけど、みんなはまるで見えているようなことを言う。
自分はこういう人だと決められていくような不安と違和感。
本当の心って、自分だけが知っている。
みんなが見ているのは、本物とは違うやつだよー

子どもの私にとって、宇宙最大級の疑問でした。
まるで、自分という着ぐるみを着て(当時、着ぐるみという言葉は知らなかったかもしれなませんが、後ろにジッパーが付いているみたいなイメージ)、
本当の私がその中にいて、私以外の人はその着ぐるみの顔を見て、
着ぐるみから発せられる言葉を聞き、勝手に私だと思っている。

私は着ぐるみの中からいつも外の様子を伺っている。
みんなが見ている着ぐるみと、中身の私は違うんだけどなあ、
って思っていた。

そしてもう一つの疑問と妄想は、
死んだらどうなっちゃうんだろう。

死んだらこれを脱いで(死ぬと、着ぐるみは脱げるということはなぜか前提...)、
中身の私はいったいどこに行くんだろう。

両親にも、誰にも聞かなかったと思うし、
聞いても人間には分からないんじゃないかと思っていたところがありました。
(じゃあ、誰なら分かるか?とあの頃の自分に聞きたいが)

そして、時は過ぎ...
「魂の道場」に出会います。
妄想に妄想をし続けたことが、再び浮上したのでした。

【卵の上の私】を学び、
捉え方の違う(間違っている)箇所はたくさんありましたが、
2つの自分がいる感覚は、
【きぐるみの中の私】という感覚ととても似ていて、自分の原点にあります。
着ぐるみも、中身もどっちも私。どっちも大事。
あの暗い夜道の中ひとり歩きながら、たくさん妄想し疑問に思ってくれてありがとう。
今、私はあなたのおかげでたくさん学びができること、楽しんでいるよ。









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