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9月, 2019の投稿を表示しています

忘れていたこと

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就職相談会に、利用者さんたちと参加してきました。 年に一度、市内近郊の障害者雇用を検討している企業(約50社)が集まるので、 就職を目指す障害者の方たちは、自由にブースをまわり説明を聞くことができます。 会場には、以前関わったことのある企業や関係機関の方など知っている方たちがたくさんいました。 その場にいて、そうした方々を見て感じたこと。 ●自分の仕事を認められたい、というパターンがあります( 前回の日記 で書いたこと)。 ですが、そのパターンをいつも主役にしてやってきたわけではないんだ。 っていうことを思いました(あたり前かもしれないが)。 自分が認められたいから、そのための言葉がでてきて、そのためだけに動いてきたわけではなく、 本当の「私」ならばどうしたい? って自問自答しながら発言し、行動する。 そんな風に仕事を積み重ねてきた自分も、まだまだ小さな時間だけど確かにいた。 「私」でやることができた時(正確には、パターンのケアをしながらした仕事)は、 結果的にうまくいかなかったとしても(利用者さんの就職に繋げられないとか、仕事を辞めることになってしまったとか)、 その思い通りに行かなかったことに、大事なことがたくさんつまっていた... 身にしみて感じさせられるのです。 就職相談会の会場で、自分に声をかけて下さる方々。 これまでにあったいろんな山あり谷ありのことが思い出されました。 たくさんの人が自分に関わってくれたおかげで、今の自分があるんだと。 それは、衝撃に近いほど...私は忘れていました。 「私」を育てていくために、 いろんな立場の人と出会えるこの仕事に、本当に感謝しかないです。 ●認められたいパターンも居つつ(他のパターンもどうぞ居てください)、 これからもこの環境を与えられていることに感謝しながら、 今まで通りやることをやっていこう。 みなさん、ありがとうございます。

認められたい

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おかげ様で少しずつですが、体調が戻ってきました。 秋晴れのお天気が続き、岩手山もくっきりで、 朝、少し冷えた感じの空気が気持ちいいです。 でもまだまだ、夜は早めに休んだり、食べ過ぎたりしないようにして、 時間をゆっくり使ったり、体を休めながら生活しています。 ●完璧にやりたい というパターンに語りかけをしていましたが、 先日、思いがけず自分へ向けられた言葉に教えられました。 それは、私にとってのすごい褒め言葉の会話。 この瞬間、もしかして、私、こんなふうにずっと認められたかった? ●自分の仕事を認められたい パターンが助けを求めているのは、こっちだったんだ・・・ と気づきました。 完璧にやりたいのではなく、 パターンは誰かに気づいてほしくて、認めてもらいたくて、 だから完璧を目指そうと思った。 その自分へ向けられた言葉に、肩の力が抜け、 「そうだよね、あなたは自分の仕事を認められたいって思っているんだね」 そう語り始めた瞬間に、涙がどっとでました。 どれだけ、自分のしていることを他人から評価され、認められたいと思っていたのか。 そういう自分がそこにいたんだね、って、 分かってあげられたことで、とてもほっとしました。 ●認められたいというパターン・・・ このパターン、まさかないよね~あなた。 と、黒パターンが脅すように耳元でささやいていたような感じがします。 ちゃんと、そこにあるものを見ようとせず、 すり替えていました。 新たな選択(白パターン)として、 「自分の成長のために仕事をしていこう」を選びました。 誰かに評価してもらうためではなく、認められる言葉があってもなくてもいい。 この仕事を、自分の魂の成長のためにどんどん使っていこう。 神様がヘルプを出してくれたように思いました。 度々出てきて教えてくれる、認められたいパターン。 次出てきたときも、見逃さないように(ごまかさないように)あなたをお守りします。

完璧にやりたい

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体がとても疲れています。 このところずっとお腹が痛かったり、頭が痛かったり、だるかったり。 そうしているうちに、昨夜はとうとう熱が出ました。 仕事を休みたいけど、今日はどうしても行かなければならない所があり、 「できる限り、体をいたわりながらやり過ごそう」 という選択をして今朝は出勤しました。 精いっぱい余計なことをしないように、明日に延ばせることはすべて延ばし、 必要最低限のエネルギー(顔も最低限)で、 なんとか1日を追えることができました。 お風呂に入りながら、体をなで、 大変なことさせてごめんなさい。 頑張ってくれてありがとう。 本当にごめんなさい。 と謝りました。 ●仕事を完璧にやりたい というパターン。 これがあるからといって、完璧な仕事をしているわけではありません(むしろ、逆)。 どうしてあなたは、そんなに完璧にしたいの?と聞くと、 完璧じゃないと、ミスがあるってことだし、 自分のせいで何か失敗するかもしれないし、 相手に迷惑がかかったり、責められるかもしれない。 そういう、あらゆるマイナスのことに遭遇したくないって、 出来るだけスムーズにうまくいきたいんです、と言っている。 いつも利用者さんたちに、 「失敗していいんだよ」 と言っているのに、自分は失敗したくなかったんですね。 うまくいきたい気持ちがすごくあった。 そうやって、何事もなくスムーズにいくと、 「自分ってすごいなあ」 ってパターンは思いたかったんでしょうね。 私はこのように自分で自分を忙しくしてしまうことがよくあります。 家事ができなくなるくらい、全力で仕事をして、ソファーで倒れるように寝てしまったり。 自分の体の状態(体力)と仕事の許容量が、 この年齢になってもよくわかっていない・・・ 夏の疲れ、旅の疲れ、 それに慣れない日記を書きはじめたり(これは自分の人生に、これまでなかった習慣)。 頑張りすぎないように。 完璧にやりたいパターンへの語りかけも引き続きしよう。 今夜はゆっくり休もうと思います。

きぐるみの中の私

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小学生の頃(たぶん4年生くらい)、 学校帰りにエレクトーンを習っていた時があり、 日が短い季節になると、帰り道は真っ暗で、懐中電灯を照らしながら帰っていました。 今思うと、女の子にあの真っ暗な道(片側が林で、片側にぽつぽつと家があった)を歩かせるなど考えられないと思うのですが、 当時は今みたいに物騒ではなかったし、 車で親が迎えに行ける家庭はほとんどなく、普通なことでした。 家に着くまで時間がたっぷりあったのと、 おばけとか、怖さをまぎらわそうとしたのもあってか、 楽しいことを考える妄想タイムでした。 次第に、楽しいことから、暗闇を歩く神秘さからか、 私って何なんだろう、と妄想するようになりました。 例えば、自分が今見えているものは、本当のことなのかなあとか。 自分がこんな風にいろいろ考えていることを知っているのは、 他にも誰かいるんだろうか。とか... 特に、自分の顔って自分で見ることができないですよね(鏡に映さない限り)。 なんとかして、見たくて目をぐるぐるしたり、 口を尖らせてくちびるがちょっと見えると嬉しかったり。 鏡に映っている顔、みんなが見ている顔って本当に自分なのか? 疑いが半端なかったんです(アホのような話ですが)。 そして、心だけは見えないけど、みんなはまるで見えているようなことを言う。 自分はこういう人だと決められていくような不安と違和感。 本当の心って、自分だけが知っている。 みんなが見ているのは、本物とは違うやつだよー 子どもの私にとって、宇宙最大級の疑問でした。 まるで、自分という着ぐるみを着て(当時、着ぐるみという言葉は知らなかったかもしれなませんが、後ろにジッパーが付いているみたいなイメージ)、 本当の私がその中にいて、私以外の人はその着ぐるみの顔を見て、 着ぐるみから発せられる言葉を聞き、勝手に私だと思っている。 私は着ぐるみの中からいつも外の様子を伺っている。 みんなが見ている着ぐるみと、中身の私は違うんだけどなあ、 って思っていた。 そしてもう一つの疑問と妄想は、 死んだらどうなっちゃうんだろう。 死んだらこれを脱いで(死ぬと、着ぐるみは脱げるということはなぜか前提...)、 中身の私はいったいどこに行くんだろう。 両親にも、誰にも聞かなかったと...

子どもって...

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●子どもが苦手 というパターンがあります。 わがままな子どもを見ると、ざわざわします。 子どもは弱くて、守られるべき者で、 未来の宝なんだから大事にしないとね、と言われる。 大人だって弱くて、守られたいし、大事にされたいのに... 子どもっていうだけで、そうしなきゃならないのが、ズルい。 だから本当は特別扱いとか、優しくしたくはない。 パターンはかなりやきもちを焼いている感じだったのです。 そしてまた、子どもはその純粋な目で、 こちらのウソ(本当は可愛いと思ってないのに、可愛いねと言う)を見破り、 何か面倒くささがある、とも思っていました。 子ども好きな方が聞いたら、なんて最低な発言... 日常的に小さな子どもと接していないので、長い年月スルーしていましたが、 今日は丸一日遊ぶ機会があり、 パターンがまた教えてくれたのでした。 昨日から、このパターンに語りかけをしていました。 「苦手なままで一緒にいてみよう」 を選び、無理に遊ばず、嫌なことは嫌だと理由を話し、 距離も少しおいてみました。 子どもに対する苦手意識は、本当に黒パターンが言っているだけなんですね。 子どもはズルくもないし、面倒くさい相手でも何でもない。 付き合い方もいろいろありで、ちゃんと向き合えることが分かりました。 力がまだ弱く、経済力も当然なく、 知恵も知識も経験もこれからの子どもたち。 だから、可能性無限大の子どもたちを、 守り育てていくのは私たち大人の役割なんですね。 苦手意識はまだまだありますが、 あっても大丈夫かも、と感じることができました。 私がこのパターンのケアをするきっかけを作ってくれた子に、感謝です。

自分が創った現実 その2

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自分が(パターンが)現実を創ってきた。 ということを今日も、実感することがありました。 今、目の前にいるこの方との関係性は、 お互いのパターンによって創られてきた。 あー、たったそれだけだ、と。 相手が私がとった言動に対して、 相手の方の中にあるパターンが引っかかり、不快になり怒っている。 その怒っていることに対して、 ●怒られたくない ●嫌われたくない など、今度は自分の中にあるパターンが引っかかる。 そのパターンを主役にしたまま突き進むと、当然ぎくしゃくしてしまう。 また、あの人はいい人だから、お互いの関係性もいいんだよね。 という場合、相手が何か優れた人格の人みたいに感じますが (または、自分が優れているからかと思ったり)、 ただ単に、自分の中に引っかかるパターンが今のところはない。 だけなんだと思います。 自分のパターンを満たしてくれるものが相手にあると思うと、 パターンが喜び、関係性がうまくいっている。 ということもあります。 ●認められたい というパターンが例えばあるとすると、 相手がいつも自分を褒めてくれるから、 すごいねって言ってくれるから、居心地いい(パターンにとっての居心地)。 みたいな感じです。 本当の「私」じゃないところで この人とは上手くいっているとか、 この人とはなかなか合わないとか、 この人ではなく、パターンなのに... パターンが創りだした現実を、 これが現実と錯覚しないように。 昨日感じた、「まぼろし〜」と感じるほどの 軽く広がる世界のあの感覚を思い出しながら、 これからの現実を、 今ある人間関係を、 また少しずつ創りあげていきたいなあと思いました。

自分が創った現実

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旅が終わると、いつも思うことは、 「現実に戻る」という憂鬱な感覚。 旅の最中は現実(日常)を考えずに済み、 終わると考えなければならなくなる(考えたくないから旅行に行く、訳ではないのだけれど)。 現実とは何なのでしょうか。 この言葉を使うとき、非日常にはまるで現実がないかのように感じられます。 でも、実際はそうではないかもしれない。 旅(非日常)で見た光景(自然、人々、建物、風景、歴史、出来事など)の中に、 今の仕事や、家族としての役割をはたす自分を考え、 どう実行するかも考えました。 あれ、これってすごく現実的だ・・・ そして、今日から日常に戻りそれを行動に移すと、 「自分が創ってきた現実」とは違う世界の現実 と言ったらいいのでしょうか、 極端にいうと、 まぼろしの中で行動しているかのような、なんとも不思議な感覚がありました。 まぼろし~ですから、いつもより楽に行動できている感じがします。 ただ、やってみました。という感じで。 ●現実は、辛いもの。 というパターンがあります。 そこには、マイナスの意味付け (現実ってうまくいかなくて、辛くて、厳しいもの) があり、いつも突きつけられる(胸に刺さる)ような感じがありました。 今回そこへ、プラスの意味付け (現実って、いろんなことが起き、たくさん試すことができて、変化を楽しむもの) が新たに加わり、やわらかさと軽さがでた感じがします。 本来は、「現実」そのものには意味などなくて、 ただ自分が勝手に今の自分に都合よく意味をつけているだけなのですね。 ここのところを頭ではなく、 体験として感じさせてもらったような・・・ 今の自分には、この新しい「現実」の哲学がとても柔軟性があって、 希望があって、力強いものとして感じています。

非日常 その2

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旅も後半、新潟に着きました。 新潟と言えば日本酒。 駅に隣接している 【ぽんしゅ館】 では、 なんと、県内全ての蔵元90種類の地酒が利き酒できるんです。 心が踊るとか、目がハートになるとはこのことか... お酒だけでなく、お土産やクラフト関係も充実。 興奮しすぎて、夫の存在を忘れてしまうほど店内を歩きました。 お土産を全く買っていなかったので、 ここでならワクワクするものが選べそうです(明日の朝また来ようっと)。 旅の途中で興味がわくことのひとつに、 その土地に建てられている「家」があります。 家を見ると、特にどんな環境で暮らしているかが分かるのが面白いです。 ここは豪雪地帯だけあって、 基礎部分がほぼ1階のように高くなっている家が多くありました。 雪があの高さまで積もるとは、雪かきというより、 除雪車出動、必須です。 地下水(消雪パイプというらしい)を噴水して雪を溶かすため、 家の前が鉄分で茶色くなっているお宅も。 自分たちの住んでいるところがいいとか悪いとか、 単純には比べようがないですね。 もうその土地に縁あって来たからには、 どんな環境でも受け入れながら工夫しながら生きていく。 盛岡の雪くらいで、騒いではいけない... 今回の旅では、体の変化も感じました。 いつもは宿泊するときは必ず和室にしていたのですが、 たまたま取れず。 畳でゴロゴロしたい、布団で寝たい、と無性に思いました。 歳だからでしょうか。 素足で畳をふむ感触が恋しいです。 明日は我が家に帰りますが、 「えーもう帰るんだあ」ではなく、 「あー帰ったらゆっくりしよう」ですね。 非日常から日常に戻って、ゆっくりしよう。

非日常

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只今、夫と車中泊の旅をしています。 後部座席を大人2人が寝れるように日曜大工して、 水タンクとガスコンロとミニ冷蔵庫を積み、 車中泊に疲れたらホテルや旅館に泊まる、という旅。 今夜は、伊豆の海近くに泊まります。 風が強くて車がゆれています。 あちらこちらに台風の爪跡が残っていて、 砂浜には、打ち上げられたゴミを片付ける方たちもいました。 数日前まで伊豆でも停電していたようです。 普通にご飯が食べれて、水が使えて... ありがたみを感じながらの旅となっています。 ご当地のもの以外は極力食べない。 いつのまにかそういうルールが... ちょっとコンビニに、ということもなく、 飲食店でも地元食材のメニューを選ぶようにして楽しんでいます。 昨夜は定食、金目鯛の煮付けを食べました。 もしかしたら生まれて初めて食べた? と思うほど、美味しくって感動でした。 伊豆は海底火山が隆起してできた土地なんだそうです。 山もとんがった形をしていて、島も周りにたくさんあるんですね。 温泉もあちこちにありました。 ペリーの黒船来航があった下田港。 まだちょんまげの時代に、見たこともない巨大な船に外国人。 腰を抜かしてしまうような驚きだっただろうなあ。 初めて口にした美味しいもの、 知らないことを知ったり、 歴史に地球の神秘にと、非日常の時間いいですね。

チラシ作り その2

先日見つけたパターン ●自分のしていることを否定されたくない そのケアをしていて・・・ もう一つ向き合いたいことがありました。 この前の日記 に書いた、「カウンセラーを名乗る人に対する否定と軽蔑」の部分です。 ある人の顔が、ちらちら浮ぶ。 まだその方がカウンセラーになる前、自分はその方より上だと思っていました。 家庭も、子育ても、うまくいっていて、その方はうまくいっていない(ようにパターンは見ていた)。 それなのに、カウンセラーをやっているなんて。 もしかしたら、本当に家庭も子育てもうまくいっていなかったかもしれないけれど、 だからこそその経験がその方の魂を成長させ、自分のやりたい道を見つけ切り開いていった。 そこに、どれほどの勇気があったのか。 私はその生き方がうらやましく、そして妬んだのです。 その方を思い浮かべ、心から謝りました。 ずっとこんな気持ちであなたを見ていたこと、 本当にごめんなさい。 涙がでました。 そしてその方が道(やり方)は違っても、 やりたい道を懸命に歩いていることに、 尊敬の念を感じました。 私も自分のできることを、自分を信じて堂々とやっていこう。 私にこの経験を与えてくれたことに感謝したいです。 今の自分に足りないことを教えてもらった気がします。

チラシ作り

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Rowing (カウンセリングの名称です)のチラシを作っています。 完成しては、またやり直し~を繰り返し、なかなか進みません。 どんなことをチラシに書けばいいのか、 なんか怪しい感じになっていないかどうか。 また、どんなデザイン、色、文章であれば悩んでいる方の目にとまるのだろうか。 それだけではありません(本題はこちら)。 チラシを作ったら、当然チラシまきをするのですが、 この小さな田舎街で、自分の名前を載せることに、抵抗があります。 私を知っている人たちが見るかもしれない。 えー、カウンセラーなんてやってるの? あの人に相談して大丈夫? 私がかつて、カウンセラーを名乗る人に対して抱いていた否定と軽蔑。 どんだけ、カウンセラーの印象悪かったのか・・・ だから、怖いのだと思います。 ●自分のしていることを否定されたくない 否定されると自分が傷つくかもしれないし、自信がなくなるかもしれない。 否定されても、どう思われても大丈夫でいられるのかどうなのか、 パターンはゆらいでいました。 ここにちゃんと向き合わずに、チラシを作っていたので、 それは進まないですよね(作ればいいってもんじゃない)。 これは、クライアントさんにも失礼なことだと、反省しました。 なぜ私はカウンセラーになろうと思ったのか。 純粋に、本当の「私」で生きたいから。 そして、誰もが楽に自由に生きられることをここでやっていきたい。 そこへ、行くために、急がず、頭で納得させず。 大事に丁寧にこのパターンをケアしてから、作っていきたいです。

ホットヨガ

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大人になってほとんどスポーツというものをしていません。 普段は車ばかりで、たまに東京へ行くと、都会の人ってすごいなあと思います。 歩く速さが違うし、駅は階段が多いし、歩く距離にも脱帽。 いい加減、私も体を動かしたい、汗もかきたいと思い、 1年半ほど前からホットヨガに行っています。 このホットヨガ、ちょっと神秘的な音楽がかかっていて、 ヨガをするスイッチが入ります。 いろいろなクラスがあって、一番軽いリラックス系でも汗をかくことができます。 少しハードなクラスに参加すると、 頭からとめどなく汗が流れ落ち、息はあがり、 確実に体重1キロ減ったよね、と思うほどきつかったりします(実際は減ってない)。 筋力がないので、あちこちがぷるぷる震えますが、 でもこの震えがいいとのこと。 体がバランスをとりながら体幹を探し、鍛えているのだそう。 私は、この数年であっという間に体重が増え、 ただでさえ固い体が、もっと動きがにぶくなってしまいました。 腹の肉と背中の肉がじゃまで、昔できたポーズが今できない。 インストラクターの先生と同じポーズをとっているはずが、 鏡を見ると、もはや何のポーズなのかわからない・・・ 私にとってのヨガは、今の自分の現実を見る時間。 そして今のこの自分の姿を見て、 少しでも姿勢を伸ばし、体をほぐし、鍛え、 呼吸に意識を向け、動ける体に感謝する時間です。 特に、頭を使いすぎた日は、 くたくたになって思考ゼロになって帰るのがいいです。 疲れることに不安を感じていたパターン。 (すぐ疲れてしまう自分はだめだ、と思っている) 疲れても、だるい日があっても大丈夫かもしれない を「私」が選択する。 選択したのだから、安心して疲れそうなこともやってみる。 たまにこうして体を動かして、 体の調子、心の動きを見るということもいいなあと思っています。

堂々と生きていい

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8年前の自分の写真を見ました。 職場での集合写真だったのですが、え、誰この人!と一緒に見ていた人たちと爆笑するくらい変わっていました(誰かはわかりますよ)。 ひと昔前の私は、まずかなり痩せていました。 そして、あたり前ですが若い。おさない(と表現するような年齢ではないが)。 そして、服装が今ならば選ばないもの(仕事だからこんな感じの方がいいのかなと思って)着ている。なんか変。 外見的にはこんな感じですが、内面もそこに映っています。 とてもとても頼りなく、自信がなく・・・ 顔は一応笑顔ですが、カラ元気。 このときの自分はちょっとかわいそうな感じがしました。 誰にでもいい顔をしたい 誰からも好かれたい 私のこと嫌わないでくれー という空気を放っています。 8年前の自分に言ってあげたいですね。 「大丈夫、堂々と生きていいんだよ」

障害のある方と働く

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私は平日、NPOで勤務しています。 一般企業へ就職を希望する障害のある方たちをサポートする仕事です。 就職するために必要なこと(PCスキルやマナーなど)を学んだり、実際に職場実習という形で企業で体験していただいたり、相手企業やご家族、医療機関ともかかわりながら就職後のサポートもしています。 「障害者」というと、身近にいる方にとっては自分たちと何も変わらない存在であることがわかると思うのですが、関わりが全くない人にとっては、自分たちとは何か違う存在のように感じられるのかもしれません(私もそう思っていた一人)。 私が関わっている方は、主に精神障害の方ですが、中でも発達障害の疑いや就職をきっかけに、又社会人になってから診断されたという方が多いです。 障害を個性と表現することがありますが、発達障害の方はまさに個性が強くはっきりしている方のように感じます。 障害(精神疾患や発達障害)があると、一般企業の中で働くことは難しいと一般的には思われているかもしれませんが、仕事の難しさや辛さは障害があるなしに関係なく誰でもありますよね。 その難しさや辛さを、訴えやすいのは、確かに障害がある方なのかもしれません。 でも、そこの困難さを伝えられた相手(職場の人、企業側)の捉え方は、想像力の深さとか理解力とかその方の人生経験で大きく違ってきます。 会社の都合で、対応したくてもできないということも多くありますが、 その方の捉え方によっては、その方自身にこれまでにない価値観や発想、ある意味障害者の社員を育てて学べること、そこから生み出す感動まで、実に多くの産物を与えられるということがあります。 どこの企業も即戦力がほしく、手がかからない人(育てるのに時間がかからない人)がほしく、体力・精神力がある人がよくて、協調性があってコミュニケーションに問題がない人で、言われたことをミスなく確実に仕事をしてくれる人がほしい・・・ でもそんな人、滅多にいない。 結果的に生産性を高めようと思えばこそ、その生産性が一見低いと思われがちな障害のある方にとって、その方たちが働きやすくなる環境(物理的な面だけではなくて)を考えたときに、会社の弱点(実際はわかっているけどやっていない)が明らかになってくる場合があります。 そこから少しずつ変わっていくのか、変えなくても何も言ってこない人...

読書から

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好きな本を持ち寄ってその本の感想を自由に話す、という会がありました。 私は、【禅マインド ビギナーズ・マインド 鈴木俊隆著 松本太郎訳 サンガ新書】という本を持参。 参加者は年上の方が多かったということもあって、 皆さん、禅 のこと、鈴木俊隆さんのことなど、知っている方が多かったです。 聞くだけの参加もOKだというので参加したのですが、結局は感想を聞かれ・・・ 1 度しか読んでいない本について、 さも知ってます風に話している自分。 ーーー禅は、なにか興奮するようなことではありません。多くの人が好奇心から禅を始めますが、それでは自分自身を忙しくしてしまいます。(中略)夢中にならない、という私たちの修行は、非常に否定的に見えるかもしれません。しかし、そうではありません。実際は、これがもっとも早い道なのです。なぜならば、平静で、日常的な心で修行していれば、毎日の生活自身が悟りそのものだからです。(本文より)ーーー この、夢中にならない、という部分。 好奇心で始めてはならず、夢中で取り組むことも違うのか・・・ そればかりになってはいけないということなのか。 楽しむものではない、忙しくなってはならない、もっと期待のない感じ? それとも、禅への動機をちゃんと見なさい、ということでしょうか。 この本は、文章が翻訳されている分、少しわかりずらく、もうちょっと説明があったらなあ、という分かりかけそうな感じのところで終わっている部分もあります(十分な説明だと思う方もいると思いますが)。 皆さんの 感想は、想像以上におもしろかったです。 本そのものの内容よりもその方の話し方、声、表情、人生観が垣間見える話の捉え方など、その方の個性がわーっと伝わってきました。 本の話をしているはずなのに、自分という人間がこんなにくっきり表れるんですね。 ―――意図的な、かっこうのいいやり方で、自分を適応させるのではなく、自分をありのままに自由に表現することは、あなた自身を、そして他の人々を幸福にするうえで最も大事なことです。(本文より)――― うーん、そのとおり 先輩方のありのままの表現で、その後自由な発言が飛び交う贅沢な時間となりました。 最近、時間があいた時にはスマホより、読書していることが増えて楽しいです。 しかし、私の読書の仕方って薄かったなあと気づき、 も...