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顔のシミ

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鼻の横のあたりに小豆3個分くらいのシミがあったのですが、 突然痒くなったと思ったらあっという間に赤く腫れあがってしまいました。 その後、悪性なものではないらしく、薬で一旦は治ったのですが、 以前よりもシミが濃くなって目立つようになってしまいました。 顔のほぼ真ん中にあるシミ・・・ 鏡を見るたびに、気になって気になって仕方がありません。 このシミを何とか薄くしたいと皮膚科に行って相談。 「レーザー治療で消えますよ」と言われ、 「えーーーー!これ消えるんですか!それでお願いします!」 と自分でも少し意外だったけど、その場で即答してしまいました。 レーザー治療は、思ったほど痛くはありませんでした。 パチンパチンとはじかれるような感じが何発かあって終了。 その後は大きな絆創膏を貼られ、 そうか、今日から絆創膏生活になるんだ・・・ と今ごろ気づくと同時に、マスクがなかったら大変なことになっていたなと思いました。 今日でレーザー治療から5日が経過。 「色が濃くなっても、びっくりしないでくださいね」と先生から言われた通り、 びっくりするくらい赤黒くなっています。 ここから2週間くらいでかさぶたになって剥がれ落ちるらしいのですが、 本当にそうなるんだろうか? ちょっと信じがたいほど、不安な見た目になっています。 それにしても絆創膏がデカい。 治療後はやけどのような感じになっているので、触らないようにしておかなければなりません。 何かのひょうしにマスクを外すと、 ん??? このまぬけな顔を見てしまった相手と、 見てはいけないものを見てしまったかのような空気が漂うのを感じてしまいます。 さらにこのタイミングで、来週受講する研修に必要な顔写真を撮らなければならず、 なんで治療する前に写真を撮っておかなかったのか・・・ 普段の行い(動くまで遅い)がこういう時に出るのでしょうね。 むかしむかし、祖母から、 「面疔(顔の真ん中に手をあてて手で隠れる範囲のところ)はいじってはいけないよ。跡が残るからね」 と言われたことを思い出します。 その言い伝えを、子どもの頃からちゃんと守ってきて、 どんなにニキビをつぶしたくなっても我慢し続けた10代。 面疔なんだからさわってはいけない、 そんなことをしては大変なことになると信じて疑わなかったのに、 なのに、さわるどころかレーザービームをかけてしまった・・・...

純粋な心

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毎日お寒い日が続いていますが、 皆さまいかがお過ごしでしょうか。 久しぶりによく晴れた休日の朝、 窓から見える真っ白い山々を見ていたら「遠野に行きたい!」 思い立ったが吉日。 盛岡から車で約一時間半くらいのところにあります 『こども本の森 遠野』 に行ってきました。 まあなんと、この図書館は見るにも読むにも過ごすにも素晴らしい場所です。 元は老舗呉服三田屋さんだった建物を改築し、 町家風情をそのまま生かした空間は、宿場町だった遠野の街並みにもしっくりきます。 当時の梁(はり)や柱も使われ、電気配線の白いがいしも残されてありました。 靴を脱いであがるので、 はじめて田舎のおばあちゃんちに行った子どものように、 こっちに行くと何があるのかなって、家の中を探検するような感じもあります。 あの安藤忠雄さんが手掛けたというだけあって、 民話が多くある遠野にふさわしいまさに創造力と想像力がかきたてられる空間でした。 天井まで高く並んだカラフルな本たち。 どんな本に出会えるのか、どきどきしながら森の中を見渡しながら歩く感じです。 子どもの頃大好きだった本、読んでみたかった本、装丁がきれいな本、タイトルに興味が注がれる本・・・ もう、わくわくがとまりません。 おとなと子どもの境界線って、好きなものの前では消えてしまうようです。 目をきらきらさせながら読みたい本を探し、 ページをめくる指の感触、紙のやさしい匂い、読み終えたときのぱたんと閉じた本の音、 そして新しい知識と、発見。 五感すべてでその『好き』を捉えているんですね。 そういうアナログな空間がなんとも気持ちよく・・・ たくさん本があって、何を手にしたらいいか迷ってしまうのですが、 ちゃんとわかりやすくテーマごとに本が分けてありますので、 視覚で捉えてもいいし、興味のあるテーマから探してもいいし、 気になる表紙を見つけては手に取り、気に入った場所で読むことができます。 自分を大事に、そして今より少しだけ楽に生きていくための、 やすらぎと気づきをあたえてくれる体験。 本能に根差したもの。 複雑さのない、わかりやすくシンプルなもの。 子どもが喜ぶものには、誰しも昔は子どもだったその純粋な部分が反応してしまうのかなと思いました。 子どものため・・・は、 実は子どもの純真さを思い出すことが下手になったおとなのためでもあるかもしれません。...

安心と不安

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先日、知人がサプリメントがやめられないと言っていました。 どうして飲んでいるかといえば、飲むとなんだかとても安心するそうです。 安心できるのなら、それはその方に合っている、良いものなんだと思います。 ただ、続けてみて良かったというものには次の段階として、 じゃあ、それを飲まないとどうなるの? もうそれが無いと私だめなんだろうか、という壁にぶつかってしまうこともあります。 自分も体調不良のときに、サプリメントに助けられたことがあったので、 これさえ飲んでいれば大丈夫という安心感に包まれる感覚は、よくわかります。 これをしていれば大丈夫、というものって人それぞれ何かしらあるかもしれません。 今の自分にとっての安心は何だろう。 これは「もの」ではなかなか思いあたらないのですが・・・ やはり、自分自身をじっくりみていくということが、 なんだかんだ言って自分を一番安らかに穏やかに、安心させることにつながっているのかもしれないなー と思いました(やっぱりここにたどり着く)。 安心と不安は、真逆な意味を持つもののはずですが、 この違いが昔のようにはっきりと分かれたもの、差があるもの、いいこと悪いこと、幸せと不幸せ、 という感じではなくなってきたように感じます。 安心と不安というつながっている一つの輪を、実はぐるぐる回っているだけの感じもあります。 もちろん不安でいるよりは安心できた方がいいのだけれど、安心ばかり求めていくと、 安心したいはずなのに、その安心を失うことに大きな不安を感じ、 その不安が無い状態を保とうと意識していくように思うのです。 だから不安になっていないかという自分を意識することで、 心は緊張し警戒しかえって休まることがない状態だったりします。 ほっとした~という感覚は、不安だったからこそ味わえる感覚でもあるから、 いつも不安がある人は、何か自分をほっとさせてくれることはないかと、 日常の中にいつも求めたくなってしまう・・・ということはあるのかもしれません。 そうなってくると・・・ 安心でも不安でも、もうどちらでも、今ある「それ」と共にいられるようになったら、 これはもう一番楽なことなのだと思います。 そこに至るまでの自分のケアとして、自分自身をみる・・・ということなのだ。 不安でたまらないとき、不安を感じているパターン(自分自身)を観察します。 じーっと包みこむ...

記録の中のパターン

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先日、仕事で過去の記録を取り出すことがありました。 自分がどんなことを書いていたのかさかのぼって読んでみると、 気づいたことがありました。 自分で書いたものは、自分が感じた内容になっているということ。 あたり前なんだけどー でもそれがちょっとあんまりな文章で笑えてしまいました。 事実を時系列に簡潔にわかりやすく記録する。 それはわかっていたつもりでしたが、 自分が書いたものって、後から読むと何だか視点がずれているようなものもあったり、 結構余計な情報が多いんじゃないかと思うものもありました。 事実も確かに書かれてはいますが、 そこに互いの感情の記録が必ず書かれてあり、 これは自分が物事のどこに注目してしまいがちなのか、ということが記録を読んでいくとよくわかります。 自分の中で感じるだけに終わらず、書き留めてしまう・・・ というのは~、 書かずにはいられない、自分のパターンがこの時あったんだなと思いました。 例えば、こういう発言やこういう表情、この後のこれこれこういう言動などから、 「このように○○さんは感じていた様子」というようなことが書かれてあるものがありました。 コミュニケーションが苦手な方もいるので、 気持ちを聞いて、的確に表現できるかといえばそうではない場合もあり、 あくまでこれまで自分が見聞きしてきたことをふまえて、今の印象、ということになります。 相手に対しての印象も同じように、細かいしぐさなど描写している箇所もありました。 どうしても自分の目がいって仕方ない・・・という自分のこだわりポイントがあるんだなあ。 記録一つで、 自分がどこの部分に注目していて、どこの部分がさほど重要ではないと思っているかがわかります。 誰が書くかによって、事実は一つであるかのように思いますが、 自分が感じる事実と他の人が見ている事実は違うことがあります。 いろんな捉え方があるので、いろんな人が読む記録ってむずかしいです。 出てきたパターンを都度、ケアできていたとしたら、 もう少したんたんとした内容になるような気がするし、 感情のところを書くというのは、自分のパターンの視点になって書いているため、 気をつけていかなければと思いました。 このとき自分はこんなパターンを持っていたから、こう感じたんだなと、 まさか仕事上の記録をみて、自分のパターンの歴史を読むことになるとは・・・ 今...

受け容れて聴く

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岩手の冬を味わうような今年初のセミナー。 道路も凍って、いかに先生を骨折させず(転んだらもうやばい)に歩いてもらうか・・・ 見ている方ははらはらでした。 毎回思うことですが、 心のからくりを知って、それぞれの学びを見聞きすることができて、 さらに新しいものを教わる・・・その一連の喜び。 このような喜びというのはすぐには感じられず、 凍てつく寒さの中の帰り道(といっても運転しているんだが)、 後からありがたさがじわじわとこみあげてきます。 セミナーでは、参加者一人一人の近況報告からはじまるのですが、 今回は、もしみんなが自分のクライアントさんだったら? と想像しながら一人一人の話を聴いてみました。 どうしてそんなことをしてみたかというと、 この時間に時々引っかかるパターンがあったなと思い出したからです。 そのパターンがまた表れるのかどうか、 どういう姿勢でのぞんだら、そのパターンに振り回されずに話を聴けるのだろうかと考えます。 何に引っかかり、どう感じて、それは何の黒パターンで、語りかけはどうやったのか? その後どんな白をつくり、どんな行動をとり、自分としてはどんな感想があったのか? それを早く聴きたいというせかせかする自分(パターン)がいます。 状況説明が長ければ長いほど、 その説明いる?とつっこむパターンの声もあり。 要は、自分が知りたいことだけ聴きたいと思ってしまうのです(みんな、ごめん・・・)。 でも、話す側にしてみれば、 その説明がしたいからしている、というところで、なぜそういう話し方になってしまうのか? その心情がそこに含まれている、表れているのかなとふと感じました。 話す側の、知ってほしい、理解してほしい、共感してほしい、助けてほしい・・・ という気持ちが、内容だけでなく話し方、間の取り方、言葉の選び方、 全てに表れてくるのだと感じました(上手下手とかではなく)。 他にも自分であったら、 こんな大変なことがあったと知らしめたいから説明が長くなる、もあるかもしれないし、 ケアをしていないから他の部分の話をするしかない、ということもあるかもしれません。 いつも自分はノートを開き、ペンを握りながらすぐに大事なことを書ける体勢で聴いているのですが、 全部を感じ取るために、 いつもよりも手元には目を向けず、顔や全身を見てみました(たまに宙を見る)。 すると、やはり...