受け容れて聴く


岩手の冬を味わうような今年初のセミナー。
道路も凍って、いかに先生を骨折させず(転んだらもうやばい)に歩いてもらうか・・・
見ている方ははらはらでした。

毎回思うことですが、
心のからくりを知って、それぞれの学びを見聞きすることができて、
さらに新しいものを教わる・・・その一連の喜び。
このような喜びというのはすぐには感じられず、
凍てつく寒さの中の帰り道(といっても運転しているんだが)、
後からありがたさがじわじわとこみあげてきます。

セミナーでは、参加者一人一人の近況報告からはじまるのですが、
今回は、もしみんなが自分のクライアントさんだったら?
と想像しながら一人一人の話を聴いてみました。
どうしてそんなことをしてみたかというと、
この時間に時々引っかかるパターンがあったなと思い出したからです。
そのパターンがまた表れるのかどうか、
どういう姿勢でのぞんだら、そのパターンに振り回されずに話を聴けるのだろうかと考えます。

何に引っかかり、どう感じて、それは何の黒パターンで、語りかけはどうやったのか?
その後どんな白をつくり、どんな行動をとり、自分としてはどんな感想があったのか?
それを早く聴きたいというせかせかする自分(パターン)がいます。
状況説明が長ければ長いほど、
その説明いる?とつっこむパターンの声もあり。
要は、自分が知りたいことだけ聴きたいと思ってしまうのです(みんな、ごめん・・・)。

でも、話す側にしてみれば、
その説明がしたいからしている、というところで、なぜそういう話し方になってしまうのか?
その心情がそこに含まれている、表れているのかなとふと感じました。

話す側の、知ってほしい、理解してほしい、共感してほしい、助けてほしい・・・
という気持ちが、内容だけでなく話し方、間の取り方、言葉の選び方、
全てに表れてくるのだと感じました(上手下手とかではなく)。
他にも自分であったら、
こんな大変なことがあったと知らしめたいから説明が長くなる、もあるかもしれないし、
ケアをしていないから他の部分の話をするしかない、ということもあるかもしれません。

いつも自分はノートを開き、ペンを握りながらすぐに大事なことを書ける体勢で聴いているのですが、
全部を感じ取るために、
いつもよりも手元には目を向けず、顔や全身を見てみました(たまに宙を見る)。

すると、やはり違いました。
しっかりと話の内容が入ってきて、さらに咀嚼できたような気もします。
話す前よりもその人のことが大事に思え、また少し理解できたような感じがします。
そして何より、自分が知りたいことだけ聴きたいというパターンはとてもおとなしく、
落ち着いてその人の問題を聴いていられる自分がいました。

この体験を通して、
『受け容れる』というのは、聴く側の姿勢がはじめにあるのかなと思いました。
そして、その姿勢だけでなく、
パターンのケアができていないとまた同じようなところで、引っかかるのだと思います。

自分がはじめてカウンセリングを受けたときも、
おそらく、話す内容はあちこち飛んで、何が言いたいのかわからない状態だったと思います。
誰かに何かを話そう、伝えようとするときに、
話しているさなかに思いもよらぬ言葉が出てきたり、何か違う感情や考え方に気づいたりすることがあります。
話す、伝えるというのは、今の自分が表れるものであって、
そういう意味では、生(なま)ものなんだと思います。

だから、その時ちゃんと聴こうと思って聴かない限り、
その生ものは受け容れられないのだと思う。
ただ何となく聞く~では、全く違う理解にもなりかねないと思いました。
これは日常でも意識できたらいいなあと思います。




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