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お世話になっている人だから

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いつも自分には、ちょうどいいタイミングで、 ちょうどよく問題が与えられているように思います。 何の心配もいらない。ちゃんと今の自分に必要なものが毎日用意されていた。 あとはその問題に向き合えるかどうかだけです。 今日の最も自分にふさわしいなあと思ったことは、 ちょっと頭にきたことがあったのですが(パターンは怒っていた)、 そのときの自分の口の利き方がひどく、考えさせられました。 しかも、相手は日頃とてもお世話になっている方。 そんな感謝の気持ちなどどこ吹く風か・・・頭にきたからそのまま言い返した。 この後、どうするのか自分・・・。 そこで、これ以上口を開いてはいけないと、緊急的な対応をしました。 まず、お口にチャック。 恩知らずの人間だったのかお前は?と自分を責めていました。 今までのことを思い出しても、 自分はこのくらいのことでは動揺しないはずだ、 と高をくくっていたかもしれません。 多少その方も嫌みっぽい言い方をするというか・・・癖が強い。 それが、パターンに引っかかったままの第一声から、 次、また次へとなんとも不快な言葉がこの口から出てしまい、 もう出てしまったものはどうすることもできませんでした。 日頃お世話になっていること、してもらかたことを考えたら、頭にきてはいけない・・・ というものではないのも分かってはいるが、 本当に心からの感謝の気持ちがあったならば、 相手の方の困っていることも察し、 そういわざるを得ない状況だったのだろうなと思うではなかろうか。 それがなく、パターンに引っかかった自分は、 お世話になっているから嫌ってはいけないというパターンもあったのだと思います。 そう、本当は嫌い、という気持ちをずっと持っていたのです。 だから、本音が出てしまったような気がします。 結局、嘘はつけません。 今は相手の方を嫌だなと思う気持ちの方(自分のパターン)を大事にみていきたいです。 相手よりも、自分がどうか?が大事なんだと思う出来事でした。

●こうあるべき

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たくさん弱音を吐き、愚痴をこぼしました(パターンが)。 この「パターンが・・・」を入れることによって、 心は少し落ち着きを取り戻します。 そして、パターンの弱音を聞き、愚痴にうなずいて聞いてくれる目の前の人は、 どんな思いであったのかもその時は想像できませんでしたが、 話し終わった自分の肩の荷は、すとんと降りたような、 ほっとしたような感じがありました。 自分でもびっくりするくらい、口から出た不満と寂しさ。 優しい人だと知っていて、わたしは甘えさせてもらったんだな・・・と思いました。 自分は(パターンは)無意識に話す相手を選んでいたようにも思います。 この相手ならば自分の(パターンの)不満を理解してくれるのではないかと。 でも実際は、「私」の求めているところは違うのです。 あなたはそう思っているというのは分かったけれど、「私」はそうは思っていないですよ、 というところがそれです。 聞いてくれる相手の「私」の部分も、そう思っていない・・・ ということが何だか伝わってくるようでした。 うーん、わかるわかる、と言って同調してほしいというのとは違って、 「あなたは、そう思っているんだね」 そこを自分でも感じ取りたかった、心に落としたかったのかもしれません。 結果的に、そこを誘導してもらったように思いました。 ここからは、何を選んでいくか? 自分がやること、自分にしかできないこと(語りかけも自分でやることだが・・・)。 ●こうあるべき ○こうあるべき、にならなくてもいい この白パターンを選ぶ自分は、 本当に肩凝りがほぐれていくような、心身の軽さを感じました。 こうあるべき、こうなってほしい、から解放されると、 どうなってもOKだし、どうしたいという息苦しさもありません。 広い世界が広がっていくようです。 話を聞いてくれてありがとう。

通じない自分

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先日友人と、 定年を過ぎてもういよいよ働かなくなったとしたら何をする?という話になりました。 友人は、今年の春で正社員からパート勤務にしてもらうとのことで、 時間に余裕ができるため、老後に向けて今から何か好きなことでもしていきたいなあ と思っているようでした。 それなのに、 肝心なその好きなこと、やりたいことというのが、全然思い浮かばなかったそうで、 それはとてもマズいことだと思ったそうです。 定年後、第二の人生を、 好きなことをして過ごしたいと思っている方は多いと思います。 その『好きなこと』というのが、旅行とか趣味とか勉強とか、習い事とか、 これまで働いていては決してできなかった(中途半端だった)ことを、 まだまだ健康なうちに思いきりやりたい、そこは後悔したくないって思うのでしょう。 だから、その何をやるのか?というのは定年に差し掛かったときにすごく考えるそうです。 と他人事のように言っている自分も、この頃考えはじめています。 自分は将来、たとえば60歳を過ぎたときに、どうなっていたいのだろうかと想像してみました。 趣味はないし、旅行はしたいけれど毎日のことではないから一番ではない。 『好きなこと』というは、 たぶん『好きな仕事』のことなんじゃないかなと思いました(今の自分が思うのは)。 まずやりたいと思う仕事を限界までやっていたいなと思うのです。 逆に言うと、やりたくないことはさすがにその年になったら、やらない自分であってほしいです。 つまりは正直な仕事の仕方ができるようになっていたい、という感じなのかもしれません。 そして、年齢を重ねると、年の功で簡単に理解できるものもあれば、 もうその年齢では理解しようにもできないもの、というのがあるみたいです。 友人が言っていました。 話題についていけないとか、感性がついていかないとか、時代についていけないとか、 「ああ、なんか通じないなこの人」と思われることはあると。 通じない・・・って、 ちょっとショックかもしれないと思いました。 自分はわかっているつもり、できているつもり、通じているつもり、 と思っていても、若い人から見れば、まったく違う人間のように見えるのかも。 でも、自分にとって大切なことは、 もしも『通じない自分』になったとしても、 理解できなくても、通じない人と思われても、「私」は全然大丈夫・・・ と感じら...

めぐるめぐる

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久しぶりにロングドライブをしてきました。 市内から南方向へと、どんどん走るにつれて、 なんとまあ、もう春はそこまでやって来ているじゃありませんか。 道路が渇いていて、土が見えているところがたくさんありました。 寒い寒いと言っていても、確実に春はやってくるんですね~ すごく嬉しかったです。 まだまだ雪も降るでしょうが、 この陽気を一年ぶりに味わえたのでちょっと余裕ができました。 残りの冬を味わう余裕が・・・。 そうやって、あっという間に春が来て、桜が咲いて、 あちこちに新一年生を見かけては、自分も頑張るぞーって思うんだろうなあ。 梅雨になればちょっと冬に逆戻りするけれど、待ちに待った内陸の夏は結構暑かったりする。 でも、そんな暑さも一時で、 お盆が終わる頃には秋風が吹いて、半袖が寒く感じるのです・・・ 食欲の秋、運動の秋、読書の秋と、 一年で一番過ごしやすい季節は駆け足で過ぎ去り、 タイヤ交換をいつやろうかと思っている矢先に、空から白いものが降ってきて、 またつるつるに凍った道路と雪かきと、水道が凍結しないか心配する冬がやってくるのだ。 日本の東北のこの地に生まれて、 本当にあたり前のように過ごしてきた四季折々の生活ですが、 人生も同じだと思いました。 わくわくするようなことがあっても、必ず落ち込むようなこともあって、 時に悔しいほど怒り、泣き、絶望し、 それでも何とか暮らす中で、元気になって笑えるようになっている自分がいる・・・。 諸行無常ですね。 いいことも悪いことも人生はめぐっていく。 必ず、暖かな陽の光を感じられる日が来る。 自分に生きる力を与えてくれる。 でも、またそこにとどまることなく、次の季節がめぐっていく。 そのときどきの季節を謳歌し、 その時にしか得られないものをもらいながら・・・ でも、どう過ごすかということの選択の自由もそこにはあります。 ドライブから帰ってきたら、 やっぱりこっちはまだまだ冬で、 まあそうだよね~、まだ早いよね~って今はこっちが現実なんだと思いました。 でも、それがあっての次、ですからね。 春になったら、明るい色の服も欲しいし、 散歩も少し遠くまで行きたいし、 公園であったかいコーヒーでも飲みながら本も読みたい。 何より、あの土の匂い、草の匂いをくんくんと嗅ぎたいです。

かわいそうな人

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障害がある方が困っていると、ものすごく大変に違いないと思っていた自分がいました。 だって、ハンディがあるのだから。 ハンディのない自分が助けられることはあるだろうと・・・ 障害がある方へとどうしても目が行ってしまうのです。 でも、ハンディは誰にでも、自分にだってあります。 身体的な障害はないけれど、一般的にみても身体の弱い部分ってある。 また、不得意なこと、嫌なことをするときのストレスならば、 多少にかかわらずいつだってある。 固定化されたハンディではないにせよ、 苦痛だと感じるものは、どっちが大きいとか小さいとか測ることができないものです。 だから、障害がある方でもない方でも、誰にでも何かしらのハンディはあって、 何かしら悩める人間であることには変りありません。 そう思えるようになってから、 障害がある方だから手助けしようとは思わなくなってきている感じがします。 かと言って、手助けしないと決めているわけではないし、 困っている人がいたら、気になって何かしてみるという行動はとるのだと思う。 でも、その時の感情として、 少なくても障害があるから「かわいそう」というのは、無くなってきたように思います。 つい最近まで、本当に失礼なことなんだと思わずに、 あーかわいそうだな・・・と無意識に口に出ることもありました。 それって、自分はその人よりもかわいそうではないと思っているから、そうなってしまうのかもしれません。 それは、自分がその人より上にいて、下を見て感じているということ。 同じ人間なのに、 悩みも苦しみもある人間なのに、対等ではなかったんですね。 不思議と、同じ人間なんだ・・・と思うようになってから、 その人の苦しみを見ても、自分がそれ以上に苦しくなることは無くなりました。 その人がつらそうにしていても、 自分がそのつらさを何とかしてあげたいと思う気持ちは、以前よりもずっと薄れています。 自分の中で障害のある方はもう「かわいそうな人」ではないからです。 そうやって(何だか薄情みたいだが)、 少しずつ、自分の心が軽い状態でいられると、 自然に身体が動いてやっていた(手助けしていた)ということはあります。 そういう時は、本当に気持ちが軽くて、 その人の人生をその人の責任のもとで頑張ってほしいなあと、 心から応援したい気持ちが形となって、行動しているのだと思います。