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半分天国、半分ここ

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今日は吹雪の一日。 すっかり窓の外は銀世界になりました~。 外出先で、ふと父のことを思いました。 手が冷たくなっていないだろうかと、元気でいるかなと急に会いたくなりました。 コロナで面会禁止ではありますが、ホームに寄ってみてガラス越しでも姿を見たいと思いました。 玄関先で、母もお世話になっている往診の先生とばったり、 また、いつも明るく父に接してくださるスタッフの方もいたりと、 思い切って寄ってみて良かったなあと思いました。 健康管理は元より、家族のようにわたしたちの代わりにお世話してくれて、 どんなにお礼を言っても足りないくらい、父を取り巻く方々には感謝しかありません。 そして父はと言えば・・・ 最近体調がよくなかったらしく、手がとても冷たくなっていたそう(予感的中)。 体が冷えていたと思ったら昨日は微熱もあったので、 スタッフの方も連絡しようかどうしようか迷っていたところだったそうです。 今朝は落ち着いてきて、車いすに座ってうとうとしていました。 わたしに気がつくと、父の小さな目がちょっとぱっちりと開いた感じがしました。 スタッフの方が「あの人はだあれ?奥さん、娘さん、誰かなあ」と話しかけると、 「うーん、娘だ」 偶然、当てた?としても、 わたしはもうこの上なく嬉しかったです。 手をさすってあげたかったけれど、それは叶わず・・・ マスクを外して笑顔を見せ、たくさんたくさん手を振りました。 いつだったか、夫が、 「お父さんって、半分天国に行っているようなもんだよなー」と言ったことがあって、 何て失礼なこと言うのよ、と思ったことがあったのですが、 あながち・・・当たっている。 それくらい父はどこの世界にいるんだろうと会うたびに思います。 ちょとしたことで笑い、とても楽しそうにしていることがあり、 確かに本当にどこか遠くを見てすごく幸せそうな顔をしているときがあります。 かと思うと、急に険しい顔をして、不穏な空気が流れ・・・ 父は時々わたしを叱ったり、たしなめたり、あきれるような顔をしたりもします(一体わたしが何をしたっていうのか・・・)。 でもそうされると、不思議に自分も、 心あたりがあることを思いながら、振り返ったり反省したりするのです。 父も、父のそばにいる方々も、みんなが穏やかに新年を迎えられますように。 そして皆さまも、良いお年をお迎えくださいね。

誤解を招いてもいい

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まさか、自分がこんなことを言う人間だとは・・・ と思うようなことがありました(気づいたら話していた自分にびっくり)。 人の死(自死)について話す自分がいました。 真実かどうかは当然のことながらわからないものを、 自分がたとえ信じているからといって、誤解を招いてもおかしくないことを他人に話すというのは、 以前の自分にはなかったと思いました。 そんなあやふやなものを他人に話すなんて、危険極まりない・・・というのが、これまでの自分だった。 たまたま、そのときは、死についてだっだけれど、 自分が人生の中で受け取ってきたものの中で、何度も練り直し、体験し直し、挑戦し失敗し、 そして今現在、たどり着いたものがあるとしたら、 それは自分だけの哲学となって自分を支えていることがあるかもしれません。 その哲学を作り出したものは、自分にしか分からない体験からくるもので、 論理的ではなく感覚的なものかもしれません。 いろいろ感じてきた自分が持つただ一つの考え方。 でもそこに、『自分がただそう思っている』ということを伝えるのに、 そんなに構える必要があるのだろうか、ということだと思います。 誤解を招いてもいい、という、 誤解は悪いことではない『誤解』に対しての意味付けも変わってきているのだと思います。 これまでたくさん自分も他人に誤解をしてきたし、 他人からも本当は違うんだけどなあ、と思うこともたくさんあった。 そうした経験を積み重ねてきて、 どう思われてもその人が思うことは自由である(パターンはどれも存在していいのだ)ということが、 このところ、実感として体験できてきたからかもしれません。 そして、うまく話せない、できないということがあっても、 それも成長過程の自分ということでいいのではないか、と思ったりします。 これから先も、何を感じてもいいし、何を考えてもいい。 そこから、選びたいものは何であるのか。 その選んだものが行動となって、形となって、また次の選択に大きく関係し影響していきます。 この『繋がり』は永遠に続くものだと感じました。 だから、 たった一つの選択であってもどっちを選んでいくのか大事にしたい。

10年やってきた

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今日は岩手クラスの勉強会でした。 お孫さん(生まれたての赤ちゃん)の子守りで寝不足だったというYさんがファシリテータ。 「根拠はないけれど、やっていかれる」という誘導をYさんの美声でやってもらい、 みんなでしばし陶酔しました。 今の「私」が気持ちよく感じるポイントというのが、それぞれに違っているところもいいなあと思いました。 また、いつもこの「やっていかれる」ということが心地良いものであるとは限らず、 その時の正直な感覚を大事にしながら、 今はここよりも、パターンの語りかけを丁寧にやっていこうということもあるはず。 そういう話ができることもまたいいなあと思いました。 岩手クラスがスタートしたのが、 忘れもしません東日本大震災が起きた2011年3月でした。 いろいろな価値観が崩れ始め、お互いの発言に感化されながら(自分の立ち位置を探りながら?)の勉強会は、 今思うとおかしいくらいに共通していたものがありました。 それは、「自分だけができていない・・・」という強烈なネガティブ感情。 自分もそうです。 自分の理解力では、自分の脳みそでは、自分の魂レベルでは無理なんじゃないか・・・ と何度も思ったことが思い出されます(クラスの仲間と比べるパターン)。 そういう自分でOKだったのに、と今だから笑って言えますが、 もし、自分ができていないところを正しく分析するのであれば、 パターンと「私」との分離ができていなかったという、その一点だったように思います。 今も常に分離ができているわけではありません。 だからこそ、魂の成長を目指していきたい気持ちが無くならないのだと思うし、 パターンをすべて許していけることを自分はやっていきたいのだと思いました。 Yさんが、泣く赤ちゃんを抱っこして、 「泣いても、おしっこしても、うんちしても、何してもいいんだよ~」 って言ってあげるそうです。 赤ちゃんはとても安心するのでしょうね、じーっと目を見て泣き止んだりするそうです。 そんなふうに自分(パターン)にも、よしよしって、 どんなあなたであってもいいのよ~って、 言ってあげればいいんだ!と思いました。 今日はみんなの10年前の自分との違いを聞けて、すごく良かった。 成長をお互いに実感できたことで、またこの10年の変化にこだわらずリセットして新しい年を迎えたい。 岩手クラスでこそ自分はやってこれた、と...

どっちもいい

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今年のクリスマスは、いつもと少し違った時間を過ごせたなあって思いました。 仕事帰りにダッシュでスーパーへ寄り、 家に着くと、息つく間もなく台所に立って玉ねぎの皮をむき始め~ こういう時こそ、出来合いのものを買ってもいいのに、 なんか今日は『ほっとするような美味しさ』が食べたいなあと思い、 全部手作りしたいと思いました(夫が「え、今から作るの?」という反応をしていたが)。 あれもこれも作るには、時間が遅くなってしまっていましたが、 気持ちは焦ることもなく、 料理を作っていることがとても楽しいなと思いました。 途中から娘も手伝ってくれたので、さらにわいわいと笑いこけながら、 この際、買ったケーキの他にもアップルパイも焼こうか!ということになり・・・ (夫の「え、もういいんじゃね?」という顔がまた可笑しかった) 結局、自画自賛ですが、全~部すごく美味しかったです。 食べてくれる人の好みを考えながら、 自分も作ることを楽しんでいる時間って、本当に贅沢だと思いました。 この『時間に贅沢を感じた』というところがいつもと違っている感じがしました。 食べて喜んでもらって自分も美味しく食べられたら、あ〜幸せ・・・というのはあったけれど、 幸せを越えたもったいないような時間。 させてもらえる、身に余る光栄という感じです。 今日はもう普通の日。 スーパーで焼き餃子を買って帰りました。 あとはご飯があるし、味噌汁あるし、漬物あるし、で終わり。 超手抜きの日でした。 贅沢というのは、 物にしても時間にしても、ごくたまにあるだけがいいですね。 そして、どちらの日(平凡な日も、贅沢感じる特別な日も)にもその時の幸せがあります。 今年のクリスマス、この『どっちでも幸せ』を感じられたことがすごく良かったなあと思いました。

パターンに届く語りかけ

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自分のことを理解してほしいと思うときに、 自分がそう思われたいという願望が入っていることがあります。 その願望とは、どう見られたいのか、というところ。 例えば仕事をしているときは、 できる人と思われたいとか、ミスがない人とか、信用できる人とか、 実際のところはその逆に近いんだけど、そう思われていると困るから、 『そうじゃないと思ってほしい=理解してほしい』になるのかもしれません。 これはパターンが、自分はできる人ではないと思っているので、 できる人でなければこの職場ではやっていけないと、パターンが信じてやまないということ(この時「私」は全く思っていないのだが)。 きっちりミスなくやれる人でなければだめ、 信用してもらえるような人でないとだめ、 あれはだめ、これはだめ、パターンはなかなか自分にOKを出さず、 見られたい自分にならないことを許すことができません。 それなのに、です。 自分は自分のことを許せないし受け入れていないのに、 他人には許してほしい、大きな心で温かく受け入れてほしいなあって思っている。 だから、その願望が叶わなかったときに、 「あー理解されていないわ、わたし・・・」とまた思うのだ。 パターンへ語りかけをしていると、 自分を否定するパターンたちが、自分たちはどんなに傷つき、つらい思いをしてきたのか、 気づいてほしいと思ってきたのかが語ることでやっとわかります。 「今まで一人にしてきてごめんなさい」 「無視をしてきてごめんなさい」 「ずーっと気づかずにいてごめんなさい(または、気づかないふりをしていてごめんなさい)」 という言葉を「私」はパターンへ言ってあげたくなる。 「ごめんなさい」という言葉ってとても温かいです。 たくさんの悲しい思いを受け止めて、そしてこれからはどうしていきたいのか、 パターンにやさしく聞いているような気がします。 この一方的ではない感じ。 伝えた先にパターンと「私」との間に通い合うものがあるとき、 やっと次に進める感じがします。 語りかけた言葉がパターンに届いたとき、 本当に理解してもらったという安心感があります。 それは、そう思われたい、見られたいという緊張感が走るようなものとは全然質が違うので、 本当に何の疑いもなく、ほっとする感じです。 この感じはやはりいいなあ~って思います。 だから何度でも語ってあげたいなあと思います。