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話の中の真意

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この数日、テーマにしていた『傾聴』を意識してみて感じたことがありました。 話を聞くって、 たったそれだけのことなのに、その人をとても大事にしている自分を感じます。 このときの自分はとても血が通っているようにさえ思う(ちゃんと心がある人であるという実感)。 話の内容も、あたり前ですがよくわかる(入ってくる)ということもあって、 その話のどこかの部分にとても意味を感じることもあるし、 その人のその話をもっと聞きたいと思うこともあります。 その人がその話をするのには、 本当はここが言いたいということが必ず一つはあるように思いました。 言いたいからしゃべる、ということですよね。 直接的に言うには遠慮があったり、 又は言いたいことをどう表現したらいいのか本当にわからないということもあるだろうし、 言いたいことまでたどり着くのに遠回りしすぎて、言わずに終わってしまうということもある。 でも、話す方は、 真意を汲み取ってほしいと思いながら(無意識に)話していることって多いのではないかと感じます。 そして最終的に、聞く耳を持っていないとどうなるのか? なんだかいくらでも自分へごまかしができてしまうような気がしました。 しっかり聞くと、知らなかったと言えない自分がいて、 もしかしたら、いつでもちょっとごまかしの効く自分でいたかったのかなあと。 ですが、人の話を聞くということをちょっと意識しただけで、 知ったことでより安心を得られることの方が多い・・・とわかった気がします。 理解しようとしていることそのものが、すでに安心をもたらしてくれるかのよう。 100%「わかっているよ」はできなくても、 「話してくれてありがとう」という関係性はとてもいいものだなあと思いました。

形だけの傾聴

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先日、ものすごく夫を怒らせてしまったことがありました。 何に怒ったかというと、わたしが話を聞いていないということにです。 それは自分にとっても、最近人の話をちゃんと聞けていないという自覚があり、 いつかここに真剣に向き合わないと後悔することが起きるのではないかと思っていた矢先のことでした。 たまたまその怒られた時の直後に、心理学を学ぶ時間があり、テーマはどんぴしゃの『傾聴』。 講師の先生が言う「一番近しい人にこそ、傾聴はできていない」に、耳が本当に痛かったです。 職場でも何かにつけて出てくる、傾聴という対人間での基本的姿勢。 まだその人のことを知らないうちは一生懸命話を聞いているけれど、 特に家族に対しては、もう性格も考え方もやっていることもだいたいわかっているという思い込みで、 右から左に聞き流すことが多かったと思いました。 そして話の内容によって、これは大事なこと、これはそうでもないことと振り分けていたんだと思う・・・。 形やスキルをおよそ身につけているだけに、たちが悪く、 しかも、それを自分でもうすうす自覚していたのに、直せなかった。 どんなに話を聞いたと思っても、 聞いたことを忘れてしまうということが自分にはよくあると、今まで思っていました。 年のせいもあるかもしれないけど、 わたしって、忘れっぽいよな~、抜けているよな~、まあ仕方ないか~と。 でも、それはちょっと違ったのかもしれません。 ちゃんと聞いていたけれど忘れてしまったことと、 はじめから聞こうとしていないから忘れていることの違いは、 相手にはわかるのだと思いました。 もちろん、後者だったので怒られたということなのです。 後悔先に立たずですが、猛烈に反省しました。 また、話を聞いてもらっていないことがどんなに腹立だしく悲しく寂しいことであるか、 夫の怒りで教えられたように思います。 パターンが何度も顔を出しているのに、 一向に「私」から話しをちゃんと聞いてもらえていないと思うとき、 パターンは話しを聞いてもらえたと思うまで、いつまでだって訴えてきます。 そして理解してもらえていないという寂しさは、いずれ怒りとなって爆発する。 それと似ていると思いました。 その日から、 話を聞くときはなるべく手を止め、テレビがついているときはテレビに集中しないように、 聞き逃しはスルーしてごまかさず、しっかり聞いたぞ...

腹をくくる

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何日も前から今日のある仕事をどういうふうにしていこうかと、 行く前に、ちゃんと決心をして臨まなければとすごく悩んでいました。 これまでの経過を振りかえったり、今後どう進んで行けばいいのか、考えることは山ほどある。 時間のあるときにじっくり考えていこうと思いながら・・・あっという間に今日を迎えてしまった。 今日は今日で、今やることがいっぱいあり、 結局、その場所に到着してから車の中で数分間、腹をくくった。 これからの時間は、ある人のために「私」が話す、「私」が守る、という決心。 そして、伝えるべき相手のことを信頼して話そう(魂同士の対話にしよう)ということを決めました。 自分の持ち合わせた言葉だけを頼りに、 「私」がその言葉を選びながら、 そして相手への信頼というなにか包まれるようなものを感じながら、 思った以上に伝えたいことや聞きたいことが言えたのではないかと思いました。 誰かのために、というのは、 自分の身体、口、声を使って、 その人が言いたくても言えずにいたこと、言葉にならないけれどはっきりと感じているものを思い出し、 「私」が代弁していく作業だったように思う。 同情でも同調でもなく、共感。 共感するって今自分がそうしているのかどうか、よくわかっていないところがあったのですが、 「私」がやっていることが、これがそうだったんだと、やっとわかったような気がしました。 今日の時点で解決できたわけではないけれど、 今の自分の全力はここまでなんだと思いました。 こうしたいという気持ちも何もなくそこに自分が居れたことも良かったなあ、と。 このところ、こんなふうに腹をくくることが続いています。 まるで、そういう経験が自分には必要と言われているかのよう。 胸がぎゅーっと締め付けられたり、心臓がばくばくしたり、 不安な気持ち、逃げたい気持ち、何も考えたくない放心状態のときもある。 かと思えばものすごく考えてみたり、また誰かに助けを求めてみたり、 いろんな日があります。 でも結局仕事だから逃げられない(本当に逃げようと思えばできるのだが)、やらざるを得ないというところが、 また何とも言えない設定です。 自分が人生に起きることを設定しているといいますが、本当にそうだなあと思う。 また明日も、設定した出来事に向かってがんばっていこう。

SWITCHに共鳴

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先日、TV番組『SWITCH ーインタビュー達人達ー』で、 エレファントカシマシのボーカル宮本浩次さんと、左官職人の挟土秀平さんが対談していました。 おお、なんという夢の組み合わせ・・・どちらも気になる存在の人。 自分の個性を充分に知り、隠すことなく表現しているところが好きです。 狭土さんは、左官の技術や芸術的センスもすばらしいけれど、 壁の材料となる土に対しての考え方がまたすごいのです。 この地球上で一番古くからあったもの、人類よりも生物よりももっと前からその歴史を刻みながら今にあるもの、 それが土だと言っていました。 そんなふうに土を捉えたことがなかったです。 自然界のものを使い壁を塗り、建物を復元し、人を癒し生活を支え、 またそれらはいつか朽ちて大地へと還り、跡形もなく消えていく。 この方の作品を見ていると、そんな自然のサイクルの中で自分たちも生きているんだっていうことが伝わってきます。 土を触ると何とも言えない安堵の気持ちになったり、先日の漆喰塗りが楽しくて仕方なかったり、 循環する地球のエネルギーをもらって生きているのが人間なんだ、と今さらながら思いました。 ※ 左官 挟土秀平 日本に生きる想い。 そして、ソロでエレカシ以上に成功したいと言い切っていた宮本浩次さん(バンド以前から、歌が好きだった自分に戻るためらしい)。 歌を心で歌う人はたくさんいると思いますが、 ここまで全身全霊で歌っている人っている?と思うほどの真っすぐさに惹かれます。 社会に染まらないありのままのイメージがありますが、 ちゃんと大人の世界に彼なりの感性で向き合いながら、時に変わりながら、時に人に笑われながらも、 最終的な夢は「大スターになりたい」と真顔で口にしてしまう正直さ。 この方の話していること、表情しぐさ真剣さを見ていると、 こういう大人であり続けたいといつも思ってしまいます。 二人とも本来の自分の持っている力をとても信じているように思いました。 真っ直ぐな自分の中から生み出されるものだから、自信を持てるということだと思う。 それぞれが語る言葉の中に、本質と本質とが共鳴する瞬間がありました。 そして、自分もテレビ越しにそこに交じわって、 はっとするような感動や感覚をともに味わえた感じでした。 この番組、ファンにとってはたまらなかったと思います・・・楽しかったあ!

かけがえのない時間

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あんなに暑かった毎日でしたが、夜は半袖では肌寒く、深まる秋を感じる今日この頃。 夫が帰宅してから、買い忘れたものを思い出し、 これから晩御飯というときにスーパーに行ってきてもいいかと聞きました。 そんなにお腹空いていないから、いいよと言われ、 それならばたまには一緒に歩いて買い物に行きたいな~と思ったわたし。 仕事で疲れているであろう夫に、 いや、もしかしたら夫もたまにはスーパーまで歩いて行きたい気分かもしれないと(やや強引なイメージ)、 本当にダメもとで声をかけると、 なんと以心伝心なのか、わたしの願いが叶いました・・・。 家から近くのスーパーまで歩いていくのって(徒歩10分)、いつ以来? 途中、車では決して通ることのない路地や、アパートの横を近道だからと失礼しながら、 ちょっとした探検気分。 エコバックではなく、いつもの車の癖で買い物かごを持っていってしまったので、 重さを考えずに買ってしまった後、 そうだ、歩きだったんだ・・・と気づく。 ずっしりくる買い物かごの端と端をお互いに持って、すっかり暗くなった夜道を戻りました。 足元も見えなくなっていたので、 あ、そこに縁石があるよーとか、段差になっているよーとか言いながら、 こんなしつこいくらい転ばないように声をかけ合うって、若い時はなかったなあ。 いつか、年を取ってどちらかが歩けなくなったり、病気したり、一緒に暮らせなくなったときに、 今日のことを思い出す日が来るのだろうと思いました。 スーパーの買い物かごを一緒に持って歩いた、月夜のささやかな幸せを。 あの頃は、まだ元気に一緒に出かけていたねって懐かしく思う日が来るのだろうなって。 そんな話を夫としながら、 夫はあっさりと、「そりゃ、そういう日は来るさあ」。 どこかもう覚悟?あたり前?その心境が想像できているという感じでした。 無意識に二人で過ごしている時間も、 二人でなくなったとき、 あの時間は本当にかけがえのない時間だったのだとしみじみ思う日が来る。 そして、もっと幸せなことは、 そういうことをまだ身体が動いて元気な今時分から実感できる心を、お互いに持っていることが、 ちょっと嬉しく思いました。 元気でいてほしい人が老いていく姿、そのときのお互いの生活、そのときの感情を想像できるのは、 先を歩き背中を見せてくれる両親たちのおかげかもしれないなあと思います。 ...