苦手意識

よく苦手意識を克服する、という言い方をしたりします。
苦手だと思う自分自身の意識を、苦手ではないんだ、自分はできるんだという意識にチェンジできたら、
それは克服したと言えるのだろうか・・・
克服するというのは、苦手だと思わなくなるということではなくって、
『苦手だと思う自分を許していく』ということなんだと思いました。

今日やっと、自分にとってものすご~く苦手なこと(仕事)を終えて、
もうすっかり心は軽く、肩の荷は降り、明日からはまたがんばっていこう!などとほっとしています。
こんな自分を見ていると、
これって全然克服なんてしていないし、克服できていない自分を許せていないのではないかと思いました。
ただの、喉元過ぎれば熱さを忘れる、状態なだけ。

苦手というのは、人前で話すということなのですが、
うまく話せない自分、噛まないで、声が裏返ったりしないで、喉がガラガラ声にならない自分。
語尾がちゃんと言いきれていて、話すスピードがちょうどよくって、なんか偉そうな感じとかは無くって、
内容がとてもいいことを言っていて、親しみやすい話し方で、ちゃんと筋道立てたわかりやすい話のできる自分。
聞いて良かった、楽しかった~と思ってくれるような心地良いしゃべりを自分は(パターンは)したいのです。
そう、こんなところを目指しているわけです(信じがたいほどハードル高い)。

これほどにたくさんの項目を叶えることは無理だと、頭では理解しているし(いや、理解してない)、
うまく話せなくたって、自分の伝えたいことをちゃんと話せたら、それでいいじゃないか!
とも思うのですが(ききわけがいい子のふりをする)。
自分が伝えたいことは言えているのだろうか?と本質のところを思うし、
そもそも、そんな熱く伝えたいことなど自分にあっただろうか・・・とも思うのだ。

もしかしたら、
そんな、伝えたいという真っすぐで熱い気持ちなどなくたって、ただ聞きやすく、ただ内容がわかりやすく、
自分は『話すのがうまい人』になりたかったのかもしれません。

または、下手であったとしても心に響くような話し方ができて、
下手だけど何かとても良かったと思ってもらえるような、そういう話しのうまい人になりたかったのかもしれないです。

つまるところは、かっこ悪い自分を見るのが嫌だったのです。

「苦手だから・・・」という言葉は言い訳しているだけなんだと思いました。
そう言ってしまうとどこか許されるような、自分を守れるような気がしていたかもしれません。
克服などしてもしなくてもどちらでもいいから、
かっこ悪い自分は嫌だと思うパターンをそのまま受け入れ、
かっこ良い自分がいいと思うパターンの話も聞き入れ、
じゃあその次はどうしたいのか?
ちょっとがんばってみるのか?
どこを「私」は選んでいきたいのか?
そこを集中してみてみようと思いました。

そのための苦手意識ならば、とても意味があるなあって思います。













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