かっこ悪い自分を見られたくない
●かっこ悪い自分を見られたくない、というパターンがあります。
自分が(パターンが)これをしたら『かっこ悪い』『みっともない』、
って決めつけている基準のようなものがあります。
それは、他人はすんなりやっていることが、自分にとってはすんなりやれない、
という場面でそう思ってしまいます。
例えば、つい先日、
お昼ご飯を食べていたときに(めいっぱい口に入れていたとき)、
話しかけられてあわてて話そうとしたら、変なところにご飯が入ってしまって(たぶん気管?)、
息ができないくらい苦しかったことがありました。
そういうとき、きっと他の人だったら、思い切り咳込んだり、胸をたたいたり、
あ~苦しかった!!!とかなんとか、涙目になりながら言う。
ということができりするのだと思います。
でも、自分はそういうことができませんでした。
他の人は自然に(しかも、生理現象だし)素直にそのままにしていればいいようなことも、できないのです。
息ができない苦しい状況にもかかわらず、
人の目の方(●かっこ悪い人と思われたくない)が優先されてしまうのです。
なるべく、平気を装い(といっても平気には見えてないと思うが)、
精一杯取り乱したりしないように、苦しさに蓋をして全力でかっこ悪さをおさえこもうとしてしまいます。
それが悪い、ということではないですが、
本当はしたかったという行動は、
ゲホゲホしながらご飯粒を飛ばしながら、ゴリラのように胸をばんばん叩いて、泣きたいだけ涙を流して、
ひどい顔になりながら、げ~~~苦しかった・・・もう死ぬかと思った・・・と言いたかった。
そういうことがあるたびに、
苦しいままに、もがくままに、なるようになるかのようにしている人を見かけると、
うらやましくなってしまいます。
このパターンで行動する場面というのは、
表面的なかっこ悪さ(かっこ悪いと思い込んでいるのは、パターンなのだが)だけでなく、
精神的な部分でもあるかもしれません。
本当は緊張して心臓がばくばくなのに、「あ~~~緊張してだめだ」
って言わないし言えない、とか。
傷つくことを言われて(これもパターンがそう思い込んでいるだけだが)、
本当はショックでうちのめされているのに、「え~~~それを言われれると傷つきます」
とは言えません。
それを言ってしまったら、かっこ悪い自分を表明するようなものだとパターンは思っているし、
それはパターンにとって敗北、地に落ちる、穴があったら入りたい・・・
くらいの恥ずかしさと屈辱に襲われてしまうのです。
ですから、そんな自分と正反対の人を見ると、
勇気あるなあと思うし、自然でいいなあと思うし、人間らしくて素晴らしいと思う。
そう、本当の「私」はそうなんだと思います。
かっこ悪いことだと全然思っていない。
これをやったらかっこ悪い、という基準などないのです。
ありがたいことに年齢とともに恥ずかしさという点において、無感覚になってきているところもありますが、
まだまだパターンはひっかかります。
パターンって本当に生きものですので(寝たり起きたり、落ち着いていたかと思うと暴れたりする)、
恥ずかしさに蓋をすることはあっても、パターンには蓋をしないようにしていこう。
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