自分で決める

また仕事の話になりますが、
とてもうれしいことに、一般企業へ障害者雇用が決まった方が何人かおりまして、
勢いに乗った月と言いますか、お互いが就職へ向けていい意味で影響し合い、
結果、過去にない就職者数が出た・・・という激動のひと月でした。
実習が終わり「あなたに来てほしい」と言われた日には(自分が言われたわけではないが)、
感極まって、いろいろあった月日が走馬灯のようにかけめぐりました。

コツコツとこれまでやってきた結果、本当にその方にぴったりの職場がついに現れた、という方もいれば、
面接や実習で結果が出ずにくじけそうなこともあったけれど、
今思えば落ち続けて良かったと思うほどに巡り巡ってこの職場へ、という方もいます。
また、念願の企業へ、生活ルーティンを変える、自分を変える、そんな努力を重ねて就職ができた、という方も。
いろいろな就職物語があって、またそれはスタート地点に立っただけのことで、
就職してからも山あり谷あり、例外なく皆さん、仕事を続ける難しさの壁にぶちあたる日が来ます。
でもまずは心からお祝いしたいです。

そういう他人の就職物語に登場させてもらっている自分が、いつも思うのは、
せめてこの方が何かを選択するときの、おじゃまにはならないようにしよう・・・という思いです。
背中を押す、一歩下がって見守る、言えないことを代弁する、伝わっていないことを伝える、
黒子となってひた走るなどなど、
やれることはいっぱいあると思うのですが、
最近は、この逆の、やらないほうがいいことは何か?を考えるようになりました。

というのも以前は、そこまでやるか?と思うような小さなことまで、
自分が気づいてしまったこと、その方のためになると思ったことは全部やっていました。
でもそれだと、その人が一人でやれること、やれるようになった方がいいことまで奪ってしまうのです。
さらには、人ってやってもらうことが続くと、やってもらってあたり前になり、
本当は一人でやれることもできなくなってしまう(能力が低下する)ということに気がついたのです。
これは、一言でいえば生きる力を、自分が奪い成長のじゃまをしているということ。

今は今で、どういう失態があるかというと、
自分はじゃまをしない、そして相手には失敗もたくさんしてもらう、
というところの割合が少しばかり増え、その結果、事態を悪化させてしまったこともあります。
つまり、いつまでたっても自分が一番学ばされている・・・ということなのでしょうね。
いい距離間でサポートするって、いまだ難しいことだなと思います。

そんな中、サポートする側の意見とか、参考になる話とか、本人を客観視した評価とか、
全くもって不要だと思うときが、
『就職を(ここで働くことを)決める』というときです。
この『決める』というとき、その方が答えを持っていると、この頃強く思うようになりました。
いわゆる人生の岐路に立つ人には、宇宙の大きな大きな力が働いているように思うのです。
決める理由も、決めない理由もサポートする人間が考えることなどあてにならず、
その人を守っているその大いなる力が、その方の道を照らし導いてくれるような気がします。
だから、一見「うわ~、そうでたか」とその判断は間違っているんじゃないかと思うことでも、
それでもいいのだと、その人に今ふさわしい決断をしたんだと受け取るようにしています。
それはたとえ後から後悔するような状況になったとしてもです。

今日は、そんな大いなる力を感じた日でした。
周囲の話に惑わされないで、無理に就職を決めなくってもいいと伝えたら、
「やってみます。やってみれば、それはわかると思います」
決めなくていいかどうかも、自分が決めると言われたような気がしました。
きっぱりと覚悟を決めたその方は、
自分で決めるってこんなにも清々しいことだったのかと思うほど、いい顔をしていました。

『自分が(「私」が)決める』ってそれ自体がもう正解なのだと思います。
失敗しても、うまくいっても、自分にとっての正しい選択。
就職した皆さんが決めた道をじゃましないように、でも愛を持って応援していきたいです。















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