すずめに教わる
ベランダに出てみたら、どこからか鳥の鳴き声が聞こえてきます。
足元を見ると、羽根をばたばたさせながら、小さなすずめの子どもがチュンチュン鳴いていました。
近くの電線を、親らしきすずめと兄弟らしきすずめ何羽かが飛び交い、そのすずめを探しているようでした。
夫が庭に放してあげようと、すずめをすくい上げようとしたとき、
ベランダの真下をのぞくと、なんと野良猫がのっしのっしと歩いているではありませんか。
このタイミングで放したら、猫に食べられてしまう・・・。
そのうち親らしきすずめも、子どもがなかなか見つからないと思ったのか、
少し離れた木に飛び移り、だんだん遠くに行ってしまいそうでした。
夫はどこに放そうか迷い、わたしは必死で子すずめの存在を親に知ってもらいたくて、
「ここにいるんだってばーーー、見離さないでよーーー、気づいてよーーー」
とすずめの鳴き声をマネして、訴えました。
そうこうしているうちに、
夫の手の中から子すずめは脱出し、落ちてしまいました(たぶん植木のあたりに一旦落ちたと思う)。
野良猫はすでに通り過ぎて行ったあとだったのですが、そこからもうそのすずめを探すことができませんでした。
いつからそのすずめがベランダにいたのかはわかりませんが、
昨日はとても気温が下がり、一日中強い雨が降っていたので、
あの様子では体温が下がり、体力もかなり消耗してしまったのではないかと思います。
何羽か生まれた中で、その子だけもともと弱く生まれたのかもしれませんし、
お母さんが与えるエサもうまく食べられず、他の兄弟よりも飛べなかったのかもしれません。
なんとか無事に生きのびて、元気に育ってほしいという気持ちと、
「まあ、これが自然だからな」と言った夫の言葉に、
何もしてあげられなかった、少し悲しくもあきらめの気持ちが重なりました。
普段、自分は人間社会にいて、もし生きるか死ぬか、生活できるかどうかの話があったら、
どういう制度を使ってどんなところにつなげてあげて、
その家族が今確実に生活できるようにあらゆることを考え、手を尽くすと思います。
困難というものは、人力で「どうにかするもの」だという考え方が前提にあって、
そこができなかったとか、不備があったとすれば、助ける側の責任にもなると。
「どうにかしなきゃいけない」っていう経験を、今まであまりにもやりすぎてきたようにも思いました。
それらが通用しない自然界。
弱いものは死んでしまう・・・あたり前のことで、
動物たちはそこに誰かを責めたり、自分を悔いたりしないのではないかと思いました。
仕方ないことや、そういうものだということの中で生きている。
人間も、同じ自然の中で生かされて今日まで生きのびてきているのですから、
どうにもできないことがあるということを受け入れることは、とても大事なのかもしれませんね。
自分に都合の悪いことがおきたり、思うような状況にならなかったり、
なんでこんな目に自分があうのか?と思うことも、
動物たちにしてみれば、突発的にやってきたそれを自然に受け入れるだけなのでしょうね。
そこに人間には感情というものがあるから、なかなかそうはいかず・・・。
今日は、すずめにずっと忘れかけていたことを教えてもらった日でした。
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