悪口を言う

先日の勉強会で、それぞれがこれまでで一番大きなパターンだと思うのは何かを聞きました。
どの方のパターンも、
それはもうちょっとやそっと語りかけをしただけでは、落ち着かないであろうことが容易にわかる、
手ごわいパターンたちでした。
そのパターンを生み出した背景に、もしかしたら前世から持ちこしてきたのかと思うほどの、
長い歴史を感じるものもありました(かく言うわたしも、そうかもしれない)。

こんな大きなパターンを持って今まで生きてきたなんて(今もその道の途中で)、
「よくまあ、がんばってきたね」ってお互いを労いたい気持ちでいっぱいになりました。
と同時に、そのパターンが今日の自分を成長させてきたことも事実です。
これらのパターンがなければ、本当の「私」で生きるということを選びはしなかったと思います。
だから、話を聞いていて、それぞれのパターンがとても愛おしいものにも感じました。

そんなことがあっての今日、自分はある人の悪口を言っていました。
●○○さんが嫌い、という自分にとって大きなパターンが、
理性とのはざまにいながら、「でも、やっぱり嫌いなの」と、恐る恐るではありますが口に出して言います。
本当は、人前ではこんなパターンがあることなど隠したい。
だって、なぜその人が嫌いかという理由を明らかにしてしまえば、
何かもうそれを言っているのはパターンではなくなって、
自分そのもの(パターンが自分)になってしまいそうな錯覚に陥るからです(それは決してないのだが)。
本来自分が望む姿を、自ら遠ざける行為をするのは「私」の本意ではないことも、同時に感じている。

口にした後の、自分に対しての違和感。
「私」はこんなことを望んではいない・・・。

悪口を言うときに、パターンが何も考えずにそのまま訴えるものと、
口にすることで自分の本心を確かめようとするものがあるように思います。
「○○なところが嫌い」ということの中に、「図星」が隠されているのです。
その人が言うこと、やることの中に、
自分がその通りだと思うことがあって、痛いところをつかれたというのがあって、
その事実を受け入れたくない、弱く傷つきやすい自分が存在していることが見えます。
そんな自分をもう一度確かめるかのように、口にした相手の嫌なところ。

白パターンとして最近選んでいるのは、
〇事実をみてみよう、です。
今日も、パターンで言ってしまいましたが、違和感もしっかり感じ取りました。
「嫌いと避ける前に、事実をちゃんと見なさい」と言われているようでした。










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