病気をするということ
20代の頃に患った悪性リンパ腫(血液のガン)のことについて、
思うことを少し書こうと思います(少しといいつつ長い)。
自分にとって必要な経験であったと、今は心底思っていますが、
当時はもちろんカウンセリングも学んでいませんでしたし、
自分というものが何なのか考えたこともなく、
「生きる軸」というものが何もなく過ごしていた時期でした。
病気だとわかった時にじわじわと心の内側から湧き起った感情は、
悲しいというより、どこか自分のものであって自分のものではないような感じがありました。
その日から悲劇のヒロインになったんだ、と思った自分は、
そのヒロインがどうなっていくのか、どう見られれば救われるのか考える自分もいました。
今思うと、とても恥ずかしいのですが、
いかに自分は不幸かということを、友人たちにわざわざ伝えたのを覚えています。
でも、伝えても状況は変わらず(あたり前だが)、
自分に起きたこととは何の関係もなく生き生きと働いている、恋愛している、子育てしている、
とても幸せそうな友人たちを見て、ただただ他人も自分自身も恨みました。
抗がん剤治療をして髪の毛がぬけた自分を鏡で見ると、
20代という一番輝いてみえるはずの若さが見る影もなくなり、悔しくて泣きました。
放射線治療を受け、その後副作用が長く続き、
体の中身が全て破壊されてしまったのではないかと思うほど体力が落ち、不安が常にありました。
ますます自分はかわいそうな人、悲劇の人で居続けることをやっていたように思います。
社会復帰した後、再発したとわかった時は、
意外にも以前のような悲劇のヒロインの感情はなかったです。
他人にどう自分が映っているかよりも、
怒りや悲しみ、悔しさよりも、もっともっと深いところで、
真っ黒な塊のようなとんでもないものが自分にあることを感じました。
そしてこのときやっと、その塊を感じることで、やっと現実を受け入れはじめたように思います。
「自分の何が、こんな人生を送るようにさせてしまったのか」
疑問がわいたのです。
病気をしている方がすべてそうだということでは決してないのですが、
自分にとっては、何かがはっきりと間違っているものがある・・・
「大きく道がそれている・・・」としか思えませんでした。
でも当時は、そう思っても具体的に何をどうすればいいのかわからず、
ただまな板の上の鯉のように、じっとして治療を受けるしかないと、すべてに降参したような気持ちになっていました。
そのときの自分を支えてくれたものは、人から与えられた「愛」だけだったと思います。
家族や友人から感じる「愛」もそうですし、
その頃とても親しくしていた方からの(食を通して体のしくみを教えてくれた方)、
愛のある言葉がそうでした。
「細胞には意識があるんだよ」
幹細胞移植の前日、公衆電話で話したこの言葉がなかったらわたしはどうしていただろうと思います。
一つ一つの細胞は意識でできていて、どんな思いをそこに与えていくかで変わっていくということ。
細胞同士が手をつなぎ、血液、臓器、骨、肉体をつくっていくんだよ、
ってその方が(わたしを励まそうと思って)言ってくれたのです。
自分がやれる唯一のこと、それが唯一の希望だと思いました。
本当は、抗がん剤治療はもうしたくありませんでした。
病気と闘うとか、ガンをやっつける、という言葉にもとても違和感を感じていたからです。
だから、その言葉でどんなに自分が救われ、勇気づけられたのかわかりません。
それからの治療で自分がしたことは、
点滴や注射(抗がん剤などの薬)をするときは、自分を元気にしてくれる「命の水」だと思い、
その清らかで透明な「命の水」が、全身を駆けめぐっていく様子を想像しました。
痛みを感じるときは、体をさすり、細胞に安心してもらうように語りかけました。
ごめんねとか、がんばってくれてありがとうとか、少しずつ元気になっていくよ、新しく変わっていくよ、
大丈夫、あともう少し、大丈夫・・・。
それは見えない体の中にあるものたちと、つながりあえた体験だったと感じます。
もう一度、生き直すチャンスをください。
と病院の窓から見える街を見て、山を見て空を見て鳥を見て、とにかく祈った日々でした。
あれから病気でなくとも、人生には辛いことがいっぱいあると知る自分。
「生きる軸」はその後も模索中には変りありません。
でも、充分なんとか暮らしていける体があることに、本当に心からありがたい気持ちになれるのは、
これはやはり病気のおかげだと思っています。
病気をして何かを乗り越えたとか、その系統のパターンには引っかからないとか、
病気をしたからすごい人とか、魂のレベルが高いとか、そういうことは何もないんだなと思いました。
あなたの進む道はこっちだよと教えてくれた、そういう経験をしたのでした。
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