あきらめる

ずっと昔に、おじいちゃんかおばあちゃんか、知らないお年寄りの方だったのか忘れましたが、
「いつも待っている(待たされている)から、待つのは何でもないんだよ」
ってやさしく言われたことがありました。
たぶん、自分が次に会いに来れる日がわからなくて、
待たせるのは悪いなあって思うような場面だったかもしれません。
「待つのは慣れているから、大丈夫」
その言葉になんだか悲しくなってしまった思い出があります。

待たされることに慣れているなんて・・・かわいそう。
年を取ると、それが自然なことなのかと、今は思うところもありますが、
待たされることが何ともないということが、そのときは我慢しているんだろうなって思ったし、
もうそういうことはあきらめているんだなあと思いました。

早く誰かに来てほしい、早く気になっていることの返事がほしい、
早くわからないことを教えてほしい、早く自分を助けてほしい等々、
不安や困り事をどうにかしたいというのは、それを早く明らかにして安心したいために思うこと。
楽しみを待つにしても、その日がいつなのかわからないのは、とてももどかしい。
自分から行動を起こさずに(起こせない状況もあるし)、
流れに身を任せてひたすら待ち続けるって、とても我慢がいります。

でも、お年寄りが言っていたような何かを待つときの「我慢」というのは、
耐え忍び自分を押さえつけるような感じではなくて、
自分の内側に起きていることをすべて受け入れるような感じなのかもしれません。
抵抗せず、逆らわず、苦しいとかつらいとか思わずに、ただただ時がくるのを静かに待つ。
何なら待つことすら捨てて、
忘れられても、何も起きなくてもそれでもいい・・・
「あきらめる」ってそういう束縛から自分自身を解放させることでもあるんだと思いました。

何にも期待することがない、あきらめられる「私」、我慢できる「私」。
焦ったり、早く早くって誰かを急かしたり、自分自身を急かしたり、
そういうことをしなくて済みます。
もう少し時間というものもゆっくり感じられるかもしれない。

待ちきれないでじたばた動いてしまう自分は、外から見るととても滑稽です。












コメント