芸術から見えるもの

岩手の写真家、唐武(からたけし)さんの回顧展を見に行きました。
実は友人の旦那さんの祖父にあたる方だった、ということをつい先日知りました。
今もその姿を残す写真館は、ノスタルジックで可愛らしく、
自分が魅了されていたあの建物が、友人の思い出が詰まった場所だったとは・・・
おどろきと共に嬉しく思いました。

明治後半から大正、昭和に移る時代まで盛んに撮られてきた、美しさを求める『芸術写真』。
スマホ写真のように高画質を競うような鮮明なものとはまったく違い、
初めてみたわたしは、「え、これ、写真?」と思ったほど、
かすみがかったというか、そのぼかし技法がとても幻想的で、
くっきりはっきりの解像度の高い写真にはない美しさがありました。
よく見ようと、写真の前にどんなに顔を近づけても見えないもどかしさ・・・。
過去に存在したものをさらに時間の概念を無くして、異次元の世界に行ってしまったような、
自分が想像していた「写真とは、、、」をくつがえすものでした。
実際に存在したものであるはずなのに、絵画を見ているようなとても懐かしくも不思議な世界でした。

晩年撮影されたものは、見慣れたモノクロ写真もあり、
昔の人々の暮らしや、今も実際にある場所がよくわかるものもありました。
カラーとモノクロの違いはあっても、こちらははっきりくっきり何を写しているかが見てわかる写真。
それらを眺めていると、だんだん「見える」ということにほっとしていく自分がいました。

会場を出た後、
ぼんやりとした、線を出さない、現実であってそうではないような芸術写真と、
いわゆるその当時の様子を、記録としてとどめておく目的の写真とを比べていました。
はっきりと映し出されたもの(後者)に安心感を覚えていた自分。
どうしてそう感じたのだろうか・・・と考えていました。

自分が長く住みなれた世界は、
これはいいこと悪いこと、これが幸せこれは不幸せ、これが正しくこれは間違い、これは本物でこれは偽物、
これは見えるから安心見えないから不安、という白黒つけようとする世界なのだと思います。
それが、こうというものがなく、目でみて確かめられるものではなく、
白黒はっきりさせようとしなくていい世界がある。
もっともっと想像しなさい、と心の豊かさを求められているかのようです。
でもまだ、完全には馴染めていない自分がいて、
自分がそこに飛び込んでいくにはまだ怖さもあるし、とても勇気がいるものなのではないかと感じてもいる。

それでも、
今までその世界へまったく踏み入れてこなかったわけではありません。
本当の「私」を意識して、「私」である時間を保ち、少しづつ自分の足で現実を歩いてきたのだ。
怖がる自分を感じながらも、
次へと進んでいける強さや柔らかさがほしいと思っている自分もいます。

一つの芸術を見て、そこにどんな自分が現れるのかなんて、
そのときは思いもしなかった。
その作品から心を動かされたとき、
自分が今惹かれているけれど同時に怖いと思っているもの、
また本当はとても望み願っているもの。
そういうものが、映し出されていくのだと思いました。






















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