真価を発揮する

【夜と霧】の続きです。

強制収容所から解放されるときまで、精神の崩壊、生きる意味を捨てずにいられたのは、
フランクルが心理学者だったことが一因していたかもしれないにせよ、
「私」を見失うことがなかった、見失わないという在り方を選んだ人がいた、ということが、
どれだけの人に救いを与えられたのだろうか、と思う。

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つまり、人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。
典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所においてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることだ。
ーーーーーーー(本文より)


どんな状況であれ、どういう自分であるべきか、決断を下せるのは自分しかいない。
誰かが、あの手この手でじゃまをしてきても、自分さえ放棄しなければ、「私」でいることが叶えられるのだとフランクルは言っている。
これは、いかなるパターンが存在していても、
「私」が語りかけ、その場のあり方を「私」が選んでいるということと一緒ではないかと思った(実際に、できるかどうかは別として)。


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強制収容所ではたいていの人が、「今に見てろ、わたしの真価を発揮できるときがくる」と信じていた。
けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。
ーーーーーー(本文より)


そう、真価を発揮するのに、条件など何もない。
むしろ最悪なときにこそ、自分の価値を問われているというのは、わかる気がします。
例えば、この人が、この環境が、この状況が変わるまでは無理とか、
このパターンがおとなしくならなければ先には進めないとか。
今の自分でやれることが、本当に何ひとつないのか・・・?
生きるのをあきらめないってそういうことなのかもしれない。

この本を読めたこと、フランクルを少しでも知ることができたことがとても感慨深いです。
苦悩の中で真価を発揮すること、それを決められるのは「私」であるということ、
それを今、考えていくことに値する自分なのだと受けとめてみたいです。

















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