苦悩に値する自分

わたしのカウンセリングの先生が師と仰ぐ方の一人、フランクルという方について知りたいと思い、
【夜と霧】(ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房)を読みました。
わたしは、著者がユダヤ人の心理学者であり、
この本が強制収容所での体験を綴ったものであることを、恥ずかしながら知りませんでした。
戦争という惨劇を心に焼き付けるたぐいのものは、その悲しみや怒りに自分が耐えられる自信がなく、
避けてきたところがありました。
でも、この本のページをめくってすぐ、何かこれまでの怖さとは違ったものを感じました。
フランクルという人がこの収容所での受難の真っ只中で、何を感じながら生きていたのか、
わたしの魂がぐいぐい引き込まれていったのです。

一部の被収容者のことを、苦悩に値する人間と、表現している場面があります。

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その人びとは、わたしはわたしの「苦悩に値する」人間だ、ということができただろう。彼らは、まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。
なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸の生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。
ーーーーーーーーーーー(本文より)

わたしがこれから体験するかもしれないことの中には、
苦悩はあったとしても、幸せを充分に感じることもあるだろう、と思っているふしがあります。
仕事で自分の役割を全うすることだったり、
何か新しいことに挑戦することだったり、誰かの悩みに寄り添ったりという、
自分の成長の糧になると明らかに感じられるものを体験し、そこに意味を見出し、
乗り越えた先に成長した自分がある、と想像している。
でも、そんな明らかに意味を持てるような、そういうものだけが、人生の意味あることではないとフランクルは言っています。

苦悩と死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになる・・・
この本に書かれたような極限の状態ならば、そう思うしかない、と言ってしまえばそれまでですが、
生きることそのものに意味がある、ということは、
苦悩の中で苦しみ抜くことが人生、悲しみで涙が枯渇するまで悲しみ抜くことが人生、
寿命が来るそのときまでどんな自分がそこにいても生ききるんだということが人生、ということなのでしょうか。
特別な運命の人にだけ与えられたものではなく、
わたしたちの小さな日常の中で、この楽ではない人生から、どんな人間へと成長し、
どんな自分になっていくことを宇宙は望んでいるのか、
自分ではない存在に応えていく、それが人生の意味ということなのでしょうか。

強制収容所のような人間の尊厳が存在しないところで、フランクルのように、
精神的自由を自分のものとして持ち続けられた人はごく一握りしかいなかったかもしれません(一握りの奇跡の人)。
では、平和な日常の中で(人間として扱われている状態で)あるならば、「私」という尊厳を難なく持つことができるのか・・・
今の時代であっても、もしかしたらごく限られた人であるかもしれないです。
フランクルのようにはなれなくても、
フランクルのような人がいたという事実を知れたことだけで、
今の自分には、今まで持っていなかったものの何かをあたえられたような気がしました。









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