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7月, 2020の投稿を表示しています

人との関わりを止めないで・・・

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岩手でも、とうとうコロナ感染者が出たということで、 昨日の夕方のニュースと、行政の記者会見の様子を食い入るように見ていました。 発表から一夜明け、ドラックストアから消毒液とハンドソープが消えていきました。 それでも、思ったよりも街の感じは、落ち着いているように見えます。 わたしの勤める事業所では、引き続きの予防対策をしていくこととし、 利用者さんたちも、今日お会した数人の方たちも、話題にしない人もいれば、焦ったり騒いでいる人もいませんでした。 みんな心のどこかで、この日は必ず来るんだってわかっていたからだと思う。 感染者が出ていないこの数か月で、県内の医療関係者はあらゆる動きを想定し、充分に準備を重ねてきたと言っていました。 だから、慌てず、悲観せず、いつも通りに自分のできることをして、人との関わりを止めないでほしいと。 この言葉、すごく愛を感じます。 不安を決してあおることなく、とても温かく強く、より人との関わりを大事にしていこうという優しさも感じました。 病院の数もベット数も決して多くない環境だと思うので、 いつもの生活を送りながらも、これはやばいと思う時には、動物的直感を働かせて十分気をつけていきたいです。 想像でしかありませんが、 感染した方たちは、どういう行動をとっても自分がかかる可能性があることを知っていたと思うし、 すぐに疑うべきコロナの症状もよく知っていたと思う。 だからこそ、早急に相談センターへ連絡をし、きちんと検査を受けてくれたことに感謝です。 感染された方の症状が、これからひどくなりませんように。 わたしはまた本来の業務(企業訪問)がぐっと減ってしまいそうですが、 もうその事態には戸惑うことなく、柔軟に対応できるかと思います・・・たぶん。 いろんな人の反応や事情にも合わせながら、またいろんなパターンを受け止めながら人と関わっていきたいです。

耳を澄まそう

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大多数の人がしっくりきていることでも、 自分はどうしてもしっくりこないことってあります。 人生をよりよいものにするための、れっきとした研究結果があり、 幸せになるための方法や姿勢や考え方、行動にすべてちゃんとした根拠もある。 権威のある方がデータや数字をまじえて言う話。 はきはきとエネルギッシュに、ときに優しく、ユーモアがあり、その人自身も素敵な人。 そして、それらのメゾットを実践した人たちの多くが、人生が好転し(又は、じわじわとよい変化があった) 幸せになっているという事例を見聞きした・・・。 根拠がはっきりしているもの、論理的なものがダメ、いや、ということではありません。 説明している人の印象がよくて、話がうまくって、 それがよくない、ということではないです(その通りやって、うまくいっている人もいるわけだし)。 ただ、話の内容ではないもの、その人の話し方や見た目ではないもの、 目を閉じて耳を澄まして聴いたときに、自分はそれ以外に何を感じるかということ。 そのときに感じた自分の感覚、センサーを大事にしたいって思う。 その感覚やセンサーがどういうものなのか、 たとえうまく言葉で表現できないとしても、相手が納得するような根拠を示せないとしても、です。 自分にとって「なんかこれがいい」「なんかこれじゃない」ってわかる感覚が誰にでもあります。 それは、自分を守ってくれている導いてくれている見えないものの力(神、天、宇宙、ご先祖様・・・他いろいろ) の存在をどこかに感じているからだし、 いいところもわるいところもある半人前の自分自身を「私」は信じているから、わかるのだと思う。 もしかしたら、そういう自分を誰も理解しないかもしれないし、 それがいいと自分が思わないことで、大事に思ってきた人も離れてしまうこともあるかもしれない。 それでも、 自分が自分を見捨てることはしないと思う。 自分を支えるものって、やっぱり、自分の外側にはないのだと、 「しっくりこないこと」にはとことん向き合ってみようと思いました。 だから、そのしっくりこないことを見て聞いて、調べて、どこが違和感なのかちゃんと知りたいと思った。 そして自分の「しっくりくること」は何であるのかも知りたい。 そんなことを感じながら、繊細で小さな声のパターン...

たくましいミニトマト

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ジャングルと化した庭。 その中にうもれている野菜たちを見るたびに、 野菜ってたくましいなあ 雑草の勢いってすごいなあって感心する。 我が家の野菜って、何を植えているかがわかるのは、最初の1か月くらいでしょうか。 あとは、雑草の勢いにのまれて、実が成るまでは存在感が薄れていきます・・・。 『わら一本の革命』福岡正信著の自然農法の本を、20代の頃に読んで、 当時、何もしないということがとても衝撃的だったのを覚えています。 人間が大自然に対してあれこれ手を加えるほどに、本来の姿からかけ離れ、生態系を崩し不自然なものへなっていく・・・ よく育つには環境を作ってあげることが大事だと思っていたけれど、 いかに不自然なことをしないか、自然の摂理に逆らわないかという視点が、 そのときの自分の身体(病気)に対する考え方に、一石を投じてもらったように思います。 耕さない、肥料を与えない、除草しない、引き算の農法(しかし、怠けて何も手をかけないということではない)。 福岡さんの真似をして、今、庭がジャングルになっているわけではないですが、 毎年、このほとんど手をかけずに育つトマトは、思いのほか甘くておいしいのが不思議です。 野菜や植物と同じで、人もいかに不自然なこと(無理があること)をしないか、なのでしょうね。 自然な状態というのは、本当の「私」のままに、どんなパターンもあっていいというのが自然なこと。 そこを否定したり、無視をしたり、排除しようとすることには人として、とても無理があるのだと思う。 明日からまた一週間が始まります。 お弁当の色どりとお口直しにかかせない、みずみずしいミニトマトを毎日手軽に収穫できることがうれしい。 雨がやんだら、伸びすぎた茎を切って、少し風通しよくしてあげよう。

ありがたい友達

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今日は、壁塗りはお休みして、友達とご飯を食べに行きました。 友達ってとてもありがたい。 自分の話を、うんうんと聞いてくれて、意見を言ってくれて、でも結論みたいなものは全くなくて、 ただお互いの近況で感じたことを話し、聞く、笑う、という時間を持てる。 感じていることはそれぞれ違っていたりもしますが、それでいいと思える。 いつも別れた後に、今日のあの事ってどういう意味だったのかなとか、 いろいろその時は思わなかったことを振りかえって考えたり、感じたりします。 そして、相手がどうだったのかよりも、その話を聞いて自分はどう感じたのかがとても気になることがあります。 なぜ、自分はもやっとしたんだろう なぜ、違うことを思ったんだろう なぜ、理解できなかったんだろう等々、自分のパターンを探しています。 友達が自分に聞いてほしくて話しているのですから、 よく分からなかったことをその場でちゃんと聞き返したりして、確認しないというのは、 相手に失礼なことだなあって最近すごく思うようになりました。 だって、わからないままにしていていい、ということですから、話を聞いていない、ないがしろにしていることとほぼ同じですよね。 そんな失礼なこと、奇しくも昔はやっていました。 相手の話を折ってはいけないとか、相手を理解しているいい友達でいたいとか、パターンで聞いていた。 わたしは、友達って少ない方だと思う。 だから、その貴重な友達との時間で、ちゃんと「私」で話したいし、「私」で聞きたい。 一緒にいて楽な人っていいな、と思っていたことがあったけれど、 相手が楽にしてくれるのではなく、自分がそのままで(楽で)いればいいだけ。 自分が今ある関係性を作っているのだと、よくわかります。 友達という関係って、あってないような・・・ちょっとわからないところがあります。 人類皆兄弟(皆友達)、と言えばそうだし。 でも、ご飯食べに行かない?って言ってもらえることはとても幸せです。 友よ、いつもありがとう。

壁塗り

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この連休で、実家の部屋の壁塗りをしています。 一応自分の部屋だったところなのですが、父親の書斎としての物がたくさんあり、 それらを別の部屋へ移動させるだけで数日かかりました(これだけで、若干終わったような気になった)。 中身をあまり見ないように、見入ると手が止まってしまうので、なるべく段ボールにどんどん詰め込むようにして、 とりあえず、部屋を空っぽにすることを考えながら、とにかく頑張って片付け&ゴミ処分です。 念願だった壁塗り。 どういうものを塗ろうか・・・悩みに悩みましたが、 部屋の空気も良くしてくれる漆喰(しっくい)を選びました。 漆喰は、昔からある蔵の壁にも使用されているほど、湿気や乾燥に強く、身体にも安心して使える自然素材。 塗る前の準備として、まずは、元のボロボロの壁紙をはがし(これがかなり大変だった)、 壁以外に塗料が付かないようにマスキングテープで養生をし、 やっとのことで、塗り本番(ここに来るまでが長かった~)。 塗装屋さんの動きをイメージしながらコテ板の漆喰を仕上ゴテを使って塗っていきます。 コテで塗るのはとてもおもしろいです。 漆喰の泥みたいな感触と、コテを滑らす感触が気持ちいい・・・ いろんな塗り跡が残って、何が正解ということもないですから、自分が気持ちよく進みたい方に塗っていく感じです。 その分、はじめに塗った壁が残念な感じにはなってしまいましたが、その時の自分の状態がそのまま出ていていいかなと思えます。 塗りはじめて3日目。 まだ下地も終わっていませんが、 夢中になりすぎて、今、あちこちが痛いです。 手首は腱鞘炎のようになってしまい(コテの使い方が悪い?)、指の節々も痛い。 ずーっと上を見ていて首も痛いし、漆喰は重さがあるので塗るときに力が必要で、肩もガチガチに凝りました。 いつ作ったのかわからない切り傷や、打ち身も。 ものすごい、疲れた・・・。 何をやるにも、体力がいりますね。

自分の言うことを聞くべき

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相手にこんな反応をしてほしい、という期待は、自分のパターン。 本当の「私」は、相手の言動を期待したり、制限したり、勝手に押し付けたりしないからです。 ですが、自分の反応を見るまではそこに気がつかない(そういうパターンがあると思っていない)ということがあります。 自分が言ったことに対してほとんどの人が、「はい、わかりました」という反応をしていたのに、 はじめて「え、何ですかそれ」と言い返されてしまったとき、胸がざわっとした。 その後、他の人にも同じような反応をされ、ざわざわが確信となった。 ●自分の言うことを聞くべき というパターンがあったんだ・・・と気づきます。 でも、パターンをパターンで捉えてしまうということをやっていました。 相手の反応が自分が思った通りではなかったからといって、 言うことを聞かせようだなんて・・・自分は何様だ?なんて強引で傲慢なんだ、とすごく情けない気持ちになり、 次に、強引な自分は良くない、傲慢なところを直さなきゃと、このパターンを否定する。 頭では、そういう考えを持つのは良くないと思っているから、 また頭でここを変えればいいと思い、頭だけで行動を変えていくことを瞬時にしているのです。 これは、心の中はあっさりと改心したかのように見えますが、 思考だけで心を変えようとしているので、さらに心は複雑に・・・ 頭で考えたあるべき姿に行動を変えること(その場の対処)がわるいことではないですが、 はじめに感じた(相手が自分の思った通りの反応をしなかったときの)、 腹立たしさ、イライラ感、怒り、悔しさといった感情を無視したのと同じ。 パターンは気がついてもらうまで何度でも顔を出す性質ですので、 ようやく思考で片づけようとし続けていた自分に気がつきました。 パターンは、自分の言うことを聞いてくれないというがとてもいやだった。 自分をバカにするなーって思ったし、 恥をかかせないでよーって思ったし、 自分の言うことは聞いたほうがいいに決まっているでしょうって思っていました。 このパターンが顔を出したときに同時に感じた嫌悪感(情けないと感じたこと)についても、 パターンにしてみれば、全然寄り添ってもらってなーい、ということ。 だから「あなたを独りぼっちにさせてしまってごめんなさい」と、 パターンに...

自分をよどませないために

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障害のある方が出場するアビリンピックという競技大会があります。 仕事につながるいろいろなスキルを競うもので、 物品運搬作業という種目で補佐員として参加しました。 選手の方は、指示書を見ながら、Aエリアから指示のあった物を探し、台車に積んでBエリアまで安全に運び出し、 またBエリアから指示のあった物を持ち帰って、Aエリアの所定の場所へ、使ったものを戻して完了。 指示書の読解と、台車をうまく運転し、時間内に品物を傷つけることなく運ぶというのが、 知的障害のある方には、なかなか至難の競技です(さらに緊張が加わるし)。 自分はその競技の説明をしたり、質問に答えたり、号令をかけたり、という仕事。 以前の自分だったら、即刻お断りをするような、自分からは絶対に進んではやらない仕事です。 まず、声を張り上げるというのが、喉の弱い自分にはかなりしんどいことで、 裏返ったり、気を緩めると小さくなっていたり、震えていたり、息が続かなかったりということがつらい。 それから、わかりやすく、短い言葉で、一度使った言葉と違う言葉で説明しないように等々、 選手が混乱しないようにきちんと説明するなんてとてもとても、自分には無理。 しかも、活舌わるいし噛みまくるだろうし・・・。 とパターンの言い分はずらーっと並ぶ。 でも、今回、断るという選択はなぜだかありませんでした。 やろうという心の準備があったわけでも何でもないのですが、 直感で、やった方がいいって思ってしまった。 そして、いいとは思ったけれどー、 絶対に声が大きくて、はきはきしていて、堂々としている人の方がいいに決まっている。自分なんて、ほど遠い。適さない。似合わない・・・ と心の声が再び聞こえてきます。 明らかにこれはパターンだとわかっていたので、無視、無視、だまりなさい・・・。 自分の中で自分がやるというイメージのない仕事。 そういうものをやるからこそ、前進できる・・・という積極的な気持ちよりは、 やらないと、自分が停滞したまま、いえ衰退さえしていくような危機感。 自分にとってここは分岐点なんだとその時思いました。 実際は、こんな大袈裟なことではないです。 でも、他人から見れば全然~難しくない何でもないことであっても、 人それぞれ苦手なもの(それぞれの課題)って違いますから、...

自分にだけわかる面白さ

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今日のお昼はカフェでご飯を食べました。 気温20℃、雨が降ったりやんだり。 カウンター席に座ったのですが、エアコンがきいている感じで肌寒く、 ご飯を食べ始めたら暖かくなるかなあ、早くご飯来ないかなあと、ちょっとそわそわした感じで待っていました。 そのうち、本格的に冷たい風を感じるようになったのですが、店内はとても混んでいて、 わたし一人のためにエアコンの温度を上げてもらうのには、ちょっとなあ・・・ もう少し我慢してみようと思いました。 そうしているうちに、ランチのスープが運ばれてきて・・・ お~きたきた、と思ったら、なんと、 きんきんに冷えた冷製スープ(季節的にありだけど)。 これはやばい、もっと寒くなってしまう。 あたりをキョロキョロしながら、他に寒がっている人はいないのか探しましたが、 自分のところだけ冷風が直撃している感じ。 そのとき、カウンターの少し離れたところにある小型扇風機に目がとまりました。 冷たい風って、あれだったのか。 羽根は動いていないように見えたのですが、もしかしたら今流行りの、動いているのか何なのかよくわからないタイプの扇風機かもしれない。 店員さんやマスターが見ていないと確認して、その扇風機を自分とは逆の方を向くようにさりげなく(いや、堂々と)動かしました。 でも・・・近くで見たら正真正銘の普通の扇風機でした。 風の出ていない扇風機の向きを変えながら、「これは犯人じゃないな・・・(なぜか犯人捜しになっている)」 がっかりして席に戻ったその時、 なんと、わたしの席の後ろの外へ出るドアがめいっぱい開いていたのです。 冷たい風はエアコンではなく、外の風だった・・・ はあ~そういうことね。 ここまで寒さの出どころに気がつかないって、どういうことなんでしょう。 やっと原因がわかったので、ドアを閉めてもらおうって思ったのもつかの間、 もしかして3密対策のために換気をしているってこと? だったら、ドアを閉めてください(換気しないでください)と言っていいものかどうか・・・ どうしようどうしようと再び考える。 結局、言うだけ言って、換気しなければいけないので~とか何とか言われたら、もうこれは我慢しようと思いました。 「すみませ~ん、ドアって閉めてもいいんですか?」 マスターは「あ、寒かっ...

それに乗っかってみる

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あるとき、「乗っかってみよう」・・・が浮かんだ。 その場の空気になじんでいない自分が、このままだとちょっと孤立してしまいそうな時だったので、 あ~そっか、と頭の上の電球が点滅するかのように、それをやってみようと思った。 恥ずかしさ、プライド、どう思われるか(できれば良く思われたい) という人目を気にしているがためにやれないでいることがあったのです。 でも、あれこれ考えることを一旦やめて、素直になってみようと思った。 自分も、楽しそうなあの輪の中に入りたいなあと思ったら、そのまま素直に 「なに、なに、何なんですかそれ~」 と言ってその話題の中に入ってみる。 子どものようなわくわく感と好奇心をそのまま隠さずに、ちょっとドキドキしながら輪の中に入ってみるのです。 もしかしかしたら、歓迎されることもあるかもしれないし、その逆もあるかもしれないけれど、 えいっと、自分から乗っかってみると、 そこに意外と居続けることもあるし、早めに元に戻るということもあり、乗っかってみてはじめていろいろ分かることがあるんだなあと思った。 また、今日はあまり話したくないとか、できれば会いたくない人がいる、 なんていう真逆のときにも、乗っかってみる、は使えました。 無理して話さず、今は離れて過ごしてみよう、という感じで。 ネガティブな思考や否定的な行動を助長しないことを前提に、そのときの流れに一瞬任せてみる。 「乗っかってみる」は「乗る」と違って、断定的ではなくお試し的な感じ。 そして、乗ってはみたものの、違ったと思えば、そこから降りればいい、という身軽さがなんかいいです。 サーフィンをしていて、いい波が来て、 「よし、あの波に乗ってみよう」っていう感覚でしょうか(サーフィンやったことない自分が言うのも何だが)。 この感覚を持って、一瞬一瞬を積み重ねながら過ごしてみると、見えたことがありました。 これはパターンで乗っかっているのか、本当の「私」で乗っかっているのか・・・ 乗り心地の良し悪しで、そのあたりも感じ取れてくるようでした。

真価を発揮する

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【夜と霧】の続きです。 強制収容所から解放されるときまで、精神の崩壊、生きる意味を捨てずにいられたのは、 フランクルが心理学者だったことが一因していたかもしれないにせよ、 「私」を見失うことがなかった、見失わないという在り方を選んだ人がいた、ということが、 どれだけの人に救いを与えられたのだろうか、と思う。 ーーーーーーーー つまり、人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。 典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所においてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることだ。 ーーーーーーー(本文より) どんな状況であれ、どういう自分であるべきか、決断を下せるのは自分しかいない。 誰かが、あの手この手でじゃまをしてきても、 自分さえ放棄しなければ、「私」でいることが叶えられるのだとフランクルは言っている。 これは、いかなるパターンが存在していても、 「私」が語りかけ、その場のあり方を「私」が選んでいるということと一緒ではないかと思った(実際に、できるかどうかは別として)。 ーーーーーーー 強制収容所ではたいていの人が、「今に見てろ、わたしの真価を発揮できるときがくる」と信じていた。 けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。 ーーーーーー(本文より) そう、真価を発揮 するのに、 条件など何もない。 むしろ最悪なときにこそ、自分の価値を問われているというのは、わかる気がします。 例えば、この人が、この環境が、この状況が変わるまでは無理とか、 このパターンがおとなしくならなければ先には進めないとか。 今の自分でやれることが、本当に何ひとつないのか・・・? 生きるのをあきらめないってそういうことなのかもしれない。 この本を読めたこと、フランクルを少しでも知ることができたことがとても感慨深いです。 苦悩の中で真価を発揮すること、それを決められるのは「私」であるということ、 それを今、考えていくことに値する自分なのだと受けとめてみたいです。

苦悩に値する自分

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わたしのカウンセリングの先生が師と仰ぐ方の一人、フランクルという方について知りたいと思い、 【夜と霧】(ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房)を読みました。 わたしは、著者がユダヤ人の心理学者であり、 この本が強制収容所での体験を綴ったものであることを、恥ずかしながら知りませんでした。 戦争という惨劇を心に焼き付けるたぐいのものは、その悲しみや怒りに自分が耐えられる自信がなく、 避けてきたところがありました。 でも、この本のページをめくってすぐ、何かこれまでの怖さとは違ったものを感じました。 フランクルという人がこの収容所での受難の真っ只中で、何を感じながら生きていたのか、 わたしの魂がぐいぐい引き込まれていったのです。 一部の被収容者のことを、苦悩に値する人間と、表現している場面があります。 ーーーーーーーーーーー その人びとは、わたしはわたしの「苦悩に値する」人間だ、ということができただろう。彼らは、まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。 なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸の生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。 ーーーーーーーーーーー(本文より) わたしがこれから体験するかもしれないことの中には、 苦悩はあったとしても、幸せを充分に感じることもあるだろう、と思っているふしがあります。 仕事で自分の役割を全うすることだったり、 何か新しいことに挑戦することだったり、誰かの悩みに寄り添ったりという、 自分の成長の糧になると明らかに感じられるものを体験し、そこに意味を見出し、 乗り越えた先に成長した自分がある、と想像している。 でも、そんな明らかに意味を持てるような、そういうものだけが、人生の意味あることではないとフランクルは言っています。 苦悩と死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになる・・・ この本に書かれたような極限の状態ならば、そう思うしかない、と言ってしまえばそれまでですが、 生きることそのものに意味がある、ということは、 苦悩の中で苦しみ抜くことが人生、悲しみで涙が枯渇するまで悲しみ抜くことが人生、 寿命が来るそのときまでどんな自分がそこ...

何度も注意をする

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いつも同じことで注意されている人がいた時に、 何でこの人、直そうとしないんだろう、直す気がないのかな、それとも直せないのかな~と思うことがあります。 毎回懲りずに同じことで注意をされるって、 注意されている人がダメな人のように見えます。 では、注意をうながす側は、 果たして、本気で相手のためになると思っている、相手のためだけに、親身になってくれている人なのでしょうか。 そもそも、なぜ注意をし続けるのか? だって、人に迷惑がかかっているんだから、それが常識なんだから、困るのは結局本人なんだから・・・と最もらしい理由は並びます。 でも、本当は、 ●自分の思い通りの相手になってほしい このパターンで言っている場合が往々にしてあると思います。 注意をしても一向に直らない、直そうとしないその相手を見て、 注意をしている自分がないがしろにされたんだと、パターンが猛烈に怒っているのです。 これは、ちょっと考えると、かなり気持ちの悪いもの。 「どうして、わたしの言う通りにしてくれないの」 「思い通りになってくれないと、こっちが耐えられないよ」 「わたしはあなたの上なんだから、従うべき」 あなたのために注意をしているのではなく、自分の満足のために注意をしている。 決して、相手のことなんて思っていないわけですから、これでは相手も変わるわけがない(変わったとしても形だけ)。 このように、 自分の思い通りの相手になってほしいから、何度でも注意をする、ということはよくあります。 親子関係でも、教師と生徒でも、夫婦でも、職場でも。 自分がいい気持ちでいたいので、パターンは変わるべきなのはいつも相手だと信じている。 誰かに注意を促すとき、しかも二度三度と続くとき、 動機は何? なぜその人にそれほどまでに変わってほしいの? と自分を疑って、問いただしてみようと思いました。

こちらの都合

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勝手口の屋根の下に、一輪挿しの小さな花瓶をさかさまにしたようないびつな形をしたものがへばりついていました。 ぱっと見、何だか分からなかった。 その奇妙な形のものは、ネットで調べたらコガタスズメバチ(女王蜂)の巣だとわかり、 えっ、スズメバチ・・・わかった途端、血の気がさーっと引きました。 その他2ヵ所にも巣が出来ていて(こちらは直径15センチほどの丸い巣)、駆除をプロに依頼しようか、それとも自分たちでやるか・・・ 結局、今ならまだ自力でできそうだと判断し、ハチがおとなしくなる夜9時に決行することになった(やるのはもちろん夫)。 原付バイクのメットをかぶり、水中ゴーグルをあて、タオルで目の下から首にかけて皮膚が見えないように覆い、 つなぎを2枚重ねで着用し、長靴を履いて、厚手の手袋をして、そのすき間もしっかりと塞ぎ、完全防備。 この格好がオーバーなのかどうかもわかりませんが、素人なので、念には念を入れた。 もしも刺されてアナフィラキシーショックになったら、すぐ救急車を呼べるようにと、 私は携帯を手に持って、勝手口のドアの向こう側(家の中)で待機。 心臓がばくばくしました・・・どうか夫が危険な目にあいませんように・・・(充分あわせているが)。 無事に駆除することができ、ものすごい緊張でどっと疲れてしまいました。 何もしていないのに・・・ ひと仕事終えた~、良かったあ~とまずはひと安心。 巣の中には女王蜂や幼虫が数匹居ました。 せっせと、わたし達に見つからないように、やっとここまで大きくした巣。 それなのに平和に寝ているところを襲撃され、無残に破壊され、 これから育とうとしていた幼虫たちを思うと、なんだかとても悲しい気持ちになりました。 もしここが森の中だったら駆除しないで済んだのに・・・。 ハチだけでなく、 庭の雑草を抜いているときも、似たような気持ちになることが時々あります(ここが森だったら、抜かないんだけどって)。 かといってそのままハチの住処にはできませんからー。 「ごめんなさい。成仏してください」と手を合わせ、 たくさんの命をもらいながら(犠牲にしながら)生きているのが我々人間なんだ、と思った出来事でした。 もうできれば、ここには巣を作らないでね。

どんな資質を使うか

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資質とは、生まれながらに持っている力、性質、才能です。 おぎゃーと生まれたときから全ての人に与えられているもので、神と同じものであると言われています。 ただ、その人の個性というものがあるので、あまり使っていないもの、忘れ去られているものなど偏りがあるようです。 優しさ、明るさ、明晰さ、勇気、決断力、判断力、意思力、意志力、美しさ、健康、想像力、創造、尊重、信頼、真摯、誠実さ、豊かさ、ユーモア、落ち着き、柔軟性、客観性、行動力、たくましさ、母性、包容力、表現力・・・まだまだたくさんあります。 その人らしさ、に表れているものでもある。 普段どの資質を使っているのか、自分でその都度選んでいるという自覚はありませんが、 どうして自分だけそんな捉え方になったのか、またどうして、そんな行動をいつも自分は取ってしまうのか、 あとから考えると、自分の中でよく使われている資質があるのかもしれない、と思うことがあります。 これから少しずつの練習になりますが、 本当の「私」がどんな資質を使っていけば白パターンとしての行動がしやすくなるのか、 意識的に選んでみてもいいのかなと思いました。 最近の自分を見ていて思い浮かんだものは、 「信頼」という資質。 相手を信頼して話してみよう、信頼して関わっていこう、 信頼される行動を取っていこう、自分を信頼してやってみよう。 人に対して、また自分に対して、信じて頼ってみる、行動してみるということが自分はまだまだ足りていない。 この資質がもっといろんな場面で使われていくと、 相手も自分も、丁寧に、大事にしていけるような気がしました。 たた単に、人間関係をそつなく築くということとは違って、 信じるということがベースにあると、何より自分の問題としてすべてを客観的に受け止められるような感じがあります。 自分を信頼していれば、ちょっと難しいなと思うことにも今の自分のまま挑戦してみたいと思えるし、 結果うまくいかなかったとしても、誰かのせいにはしないと思う。 着地点は、自分側であるとはっきりしたものがあり、自分の考えと経験を次に生かしていけると思うのです。 そして『信頼』から生まれた結果であれば、とても腑に落ちるというか、やわらかで落ち着いた気持ちがします。 物事がうまく進ま...

怖さを愛で包む

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約半年ぶりの『魂の道場』は、 学びたい仲間が集まり、ここで共に「学べた」ということ自体が、 とても重みがあり、幸せをかみしめながら時間を過ごしました。 これからの時代は、「いつでも」はもう不確かなものとなり、「いつか」と思ったことが永遠に来ない、 なんてことがあってもおかしくない。 今やれるときにやる、このタイミングというものが大事になってくるのだろうなと思いました。 この学びを続けていて、悩みが無くなってきた、ということはないです。 むしろ、悩みの本質が見えてきたり、いよいよもって本題に入ってくる。 人が「悩む」とき、大方そこへ人が登場してきます。 人が登場してこない悩みってあるのかなあ・・・ そう思うほど、 人は、人に対して頭を使い、気を遣い、精神を疲労させたりする(自分もある)。 そして、人で悩むが人(相手)次第で解決できると思い込んでいる人も少なくない。 相手は変わらない、変えれないと頭ではわかっていても、自分を本気で変えたい(自分の問題)と思う人はどれだけいるだろうか。 でも、これも、 本気で変えたいことが良いことで、変えたいと思わないことが悪いことではない。 ただ、そう今は思っている自分(パターン)があるという、たったそれだけのことであり、 また、それだけのことを受け入れられる、認められる、許せる自分でありたいと思った。 例えば、コロナに対して怖いと思うことにも人が介在する。 よくよく掘り下げていくと、 感染することで人から責められること、攻撃されること、職場から社会から孤立してしまうこと、 こうした人との関わりが断ち切られることへの怖さ、を感じている人はいたと思う。 誰だって(自分も含め)、責められたくないし、孤立したくないし、人が離れていくことは怖い。 死ぬことが怖いと思うことだって、この世から自分が消えてしまうことへの怖さがあると思うし、 大事な人との別れは、それに耐えられない自分がいると思うから(これもパターンだが)。 だからやっぱり、 愛を持って、「どうしてあなたはそう思うの?」と自分に目をかける。感心を向ける。 何に怖がっているのか、少しずつ、でもしっかりと、その怖さ、悲しさ、寂しさを見つけ守ってあげたいと思った。 そして、今回とても胸に響いたことの一つ。 今まで使ってこなか...