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1月, 2020の投稿を表示しています

言い切る力

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スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリさん。 まだ若干16歳ですが、 地球上に住む私たち自身へ、今地球に何が起きているのかいい加減に目覚めなければならないときに来ていると警鐘を鳴らしています。 そんなグレタさんのスピーチ。 本人自ら、発達障害(アスペルガー)であることを公表し、発達障害の特性が強味となってグレタさんをつき動かしているのが分かります。 スペイン・マドリードでの国連スピーチ (2019/12/12) ~と思う。~かもしれない。などといった曖昧な言葉は一切なく、気持ちの良いほど言い切っています。 この力強さ、今の私にも欲しい・・・ スピーチは最初からこうだったのではなく、はじめはとても感情的なものでした(本人もそこに気づいて伝え方を変えている)。 相手に何か本気で伝えたいと思うことがあるのなら、そう言い切れるだけの内容を調べ、事実を考察し、話し方を研究し、あらゆる準備を徹底的に行う。 たった一人であっても、世界中の人へであってもそれは同じなのだ。 そういう体験を、グレタさん級でなくとも、自分なりにやり遂げてみたい。

風邪の治し方いろいろ

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運良く、と言ったらいいのか、土日で(ちょうど休みのときに)風邪をひきました。 のどが痛くて、咳が出て、熱があって、頭が痛い・・・ 体温計が壊れて、いつか買わなければと思いつつ数年が経ち、 体温は測れていませんが、昨夜はたぶん熱が上がったのか汗をかきました。 今朝になって少しすっきりして、調子が良くなってきた感じがあります。 風邪をひくと、いつも生姜湿布というものをします。 生姜(2個くらい)をすりおろして、ガーゼでしぼり(エキスを出す感じで)、沸騰直前のお湯(500MLくらい)に入れ、タオルを浸し、 やけどしない程度のホットタオルを作って喉に当てます。 熱くて首が真っ赤になるのですが、10~15分くらい繰り返し行い、喉にだけ集中して血液を集めます。 その後布団をかぶって寝る(汗をかきたいときはすぐ寝たほうがいい)・・・これで、ほぼのどの炎症は緩和されていきます。 1回で痛みが取れるときもあれば、手当が遅かったときは生姜を新しくすりおろして日に2~3回行うとほぼ良くなります(具合が悪いと、結構この手間はしんどかったりするが)。 このような原始的な自然療法が昔から結構好きなのだ。 早く治したいときは薬も飲むし、病院へも行くのですが、 なんとか自然治癒力を信じてやってみようか、と思う時(そういう気分になる時)が往々にしてあります。 娘が小さい頃は、よく熱がでると白菜を頭に敷いて熱を下げたり、 咳にはレンコン汁、寒気には大根湯、お腹の冷えには葛湯等々、できるだけ薬を飲まないで手当てをしていました(娘の意思とは関係なく)。 その度に夫が「大丈夫なのか、そんなので・・・」と微妙な顔をして、でもある程度信じていないわけでもないのか、 結局、ぶつぶつ言いながらも野菜を買いに行ってくれました。 今では、喉が痛いと言うと「生姜買ってくるか?」と聞いてくるまでに。 今日は、最近肉食が続いていたので、干しシイタケスープを作って飲みました。 体に染み渡るような、やさしい味が美味しく感じる・・・ スープと、しゃれたネーミングになっていますが、 単なる干しシイタケを戻して煮て、濃い色にしたシイタケ味の飲み物です。 マクロビオティックの考え方では、体が陰性か陽性かに傾くと病気になりやすく、そこを中庸にしていくために食事でバランスを整えていきま...

やっていないのは自分だった

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自分がやっていないことを相手に求めている、と思いました。 自分ができていないのに、相手にはしてほしいと思っているパターンがいた。 もっと感情的に言うと、 私はまだ変わりたくても変われていないから、あなたが先に変わってちょうだい 私もいつか変わるけど、あなたも変わってね・・・ みたいな感じです(この傲慢さ、すごい)。 このことが、突然天から降ってきたようにわかった。 道場で学ぶ友人の日記に、その天からのメッセージがありました。 しかも、読んですぐにではなく、少し経ってから気づく。 マーガレットさんの『自生塾Blog』→ きっかけ なぜ、この時間差があったのか・・・ それがパターンの威力、錯覚を起こす力、思い込みのすごさ。 『自分がやる』『変われるのは自分だけ』そう私は思っているからこそパターンへ語りかけをしている、 そこはもう自分のものになっているという思い込みがありました。 思い込んでいるので、 以前の自分ならば相手を変えようとしていたけど、今の自分はしていないという前提のもとでその日記も読んでいます。 でも、もう一度読んだときに、 あれ、私まさに今、この『自分がやる』ということやっていないんじゃないの?と思ったのです。 ●反応がほしい、と相手に望むパターンは、あきらかに相手に変わってほしいと思っている自分(パターン)がいるということですよね。 ズバリ●自分の思い通りになってほしい、というパターンが自分の中に居ました。 これは、自分にとってとても根深く重要なパターンです。 このパターンを消すためにやっているのではなく、選択できる行動できる本当の「私」を育てているんだ、 それを再度認識したとき、ちょっと笑えなくなってしまいました(1回目に読んだときは、あるある~と笑えたが)。 『自生塾Blog』→ 黒い部屋がそこにある限り そして、この日記の「(黒と白があって完全なる一つ)そこを意識していこうじゃありませんかー」 というフレーズにとても勇気がでました(これも2~3回目で、実感)。 なんとも、気づくタイミングがずれてはいますが、 マーガレットさんの明るい声かけに大いに共感し、またしみじみ言葉をかみしめています。

自分をさらす練習と、伝え方の練習

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今ケアをしている●反応がほしい、という パターン 。 先日、共に学ぶ仲間だからこそ、何でも言ってほしいのに・・・と、 言ってもらえることが普通なことで、言われないということは無関心(嫌われているのかもしれない)と思っているパターンがいました。 このパターンは、寂しさと同時に孤立感も感じています。 ゆっくりと丁寧に語りかけをしていくと、大人の自分がどんどん小さな女の子(8歳くらい)になっていきました。 寂しそうに一人ぽつんと立っている私。 この子(インナーチャイルド)に会いにいき、今そばにいてあげています。 再び、『パワーか、フォースか(改訂版)ー人間の行動様式の隠された決定要因ー』について。 人間の日常的な心構えとそのパワーは、時にスピリチュアルな葛藤を生じさせるといいます。 スピリチュアルな教えのすべてが、悪意や憤り、妬みや嫉妬といった低い領域の感情に向き合い、そこから離れるよう忠告しています。 そして、人間は離れたい(変わりたい)と思いながらも、誘惑に負けやすく、 それは、人間は性やお金など嗜癖の領域に、はまりやすいという特徴に象徴されていることでも分かります。 そのはまりやすさ故に、 例えばアルコール中毒の方ならば、断酒会などの自助グループというものが生まれ、 そのグループで共に学び、絶え間なく自分の意志で変わるという決意を選択していく。 こういったグループの共通の特長、成果を見ると、人間は何かしらのスピリチュアル性と関わらなければ回復は見込めないということが分かるのだそうです。 ーーーーーー 一般的に、意識をあげるプログラムに関して言えることは、本当のことを言わない限り人間は無力であるということです。すべてのスピリチュアル志向の自助グループは、これを第一段階として求めています。進歩するためには、偏見のない心と向上する意欲が必要であることにおいて、彼らは一致しているのです。 ーーーーーー(本文より) 私は自助グループに参加しているわけではありませんが、 この言葉には、あなたはそこで、本当のことを言っていますか? さらけ出していますか? と言われているような気がしました(これは、スピリチュアルな葛藤のほんの一部分である)。 言う、話すといっても、相手に自分のことを伝えるときは、相手への敬意をもって話すという...

意識が現実をつくり出す

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いつもブログを読んでくださり、ありがとうございます。 昨日は、『魂の道場』岩手クラスでしたが、仲間から感想を言われ、 読んでくれている人がいるんだ、とあらためて実感しました。 そして、学び合う仲間からの言葉を欲しがっている自分がいたことに (これは、何かアドバイスして欲しい、反応してほしい、褒めてほしいとかのパターンだが) 気づくことができました。 いつも皆さん、ありがとうございます。 根拠のない自信「なんだか分からないけれど、やっていけるような気がする」というものの大切さを学びました。 昨日、カウンセラーになろうと思ったときのこと、日記を書こうと思ったときのこと、どういう気持ちで始めたの?と聞かれ、 正直何も考えていませんでした・・・と言ったような気がしますが、 後から、これだと思いました。 好きなことだからやりたいし、なんかよく分からないけどやれるような気がする・・・ そんな、軽い感じと、軽いけれど確かな感じもあったと思いました。 仕事では、「その根拠は?」と聞かれる場面があります。 根拠とするものをはっきりと言えないと、説得力がない(意見が通らない)ということなのでしょうが、 これをとっさに言われると大体どもってしまうか、口に出るのは薄っぺらい理由(苦しまぎれ感がある)。 いつでも、根拠さえ示せるようにしておけばいい、と言われたりもします。 先日、そういう問われる場面があり、 もうこれしかないと思い、「うまく言えないのですがー、勘です」と答えたことがありました。 だってそうだから、としか言いようがない・・・と心の中でつぶやく。 その時の自分は生意気で、偉そうで、もしかしたら不誠実に見えたかもしれないのですが、 相手の方は、黙って自分の言うこと(提案)を聞いてくれました。 相手の真意は分かりませんが、根拠がなくても通じた、とても貴重な体験だったと思います(次はそうそうないと思うのだが)。 何かをしようとする時の、心の軽さ、重さは、見えないものからの応援をもらえるかどうかの指針になります。 仕事上では、相手を納得させるちゃんとした根拠が必要とされますが、 自分自身を納得させるものは、心にひっかかりがないか、抵抗感があるかないかということで充分なのだと思う。 理由を言わずとも、もうすでに自分はそれがやれる、...

エネルギーを高くする心構え

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『パワーか、フォースか(改訂版)ー人間の行動様式の隠された決定要因ー』に書かれている、人間の心構えにおけるパワーパターン。 その心構えとして持つものには、 エネルギーが高いもの(成功、健康、幸福へと導くもの)と低いもの(失敗、苦しみ、病気に陥るもの)に分かれています。 一見とてもシンプルなことですが、自分の心構えとそれに相反するもの(心構えとしてはエネルギーが低くなってしまうもの)は言葉として一体どんなものがあるのだろうか。 豊かな・・・・・・過多な 感謝する・・・・・うらやむ又は義理がある 礼儀正しい・・・・こびへつらう 責任感・・・・・・罪悪感 信じる・・・・・・言い張る 共感する・・・・・あわれむ 謙虚な・・・・・・自信がない ゆだねる・・・・・心配する 立ち向かう・・・・競争する 等々 左がエネルギーが高い心構えで、右がそれとは相反するエネルギーが低いものです。 これはほんの一部ですが、たったこれだけの言葉を検証しただけでも、衝撃を受けました。 衝撃を受けながらも、なるほどと思うものが多くあります。 例えば、『感謝する』 これなどは最も自分がそうありたいものの一つ。 なのに、人をうらやむ気持ちが相反するものだなんて(害のない言葉だと思っていた)。 確かに深く観察すれば、 うらやむという気持ちには、初めから相手は自分よりも恵まれていて、特別で、自分はそうじゃないし、いいよね~あなたは、みたいな感じが含まれている。 ということは、その人に対して純粋な感謝の気持ちを持つというところには、ほど遠いものであることが分かります。 義理を感じている人(お世話になった人)に対しての思いも、その義理や世話という事柄に対してのものであるのかもしれない(感謝すべきでしょ、というもの)。 また、『信じる』の相対する言葉が、『言い張る』というのは、痛いところをつかれたような気分です。 説明したり、訴えたり、特に自分には非がないということを言いたい時の自分の姿を思い浮かべては、 相手を信じていない反応を確かに自分はしていた。 自分の気持ちが、『言い張る』という態度に表れていました。 このように、そうありたいと願いながらも、真逆の心構えをしていたということがあるのだと知りました。 人間の心構えについてのエネルギーは、宇宙へ...

苦手なことをしてみる

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論理的に考え、話すことが苦手です。 え?なになに、どういうこと? と一度ですんなり相手に伝わらないことが多く、 自分では、あーそういうことか・・・とパズルのピースがぴたっと合ったかのようになっているのだけれど(分かった気になっている)、 この腑に落ちた感覚を、理路整然と相手に説明することがなかなかできません。 説明以前に、論理的なものの考え方に対して、なぜか抵抗感がある(本来、こっちの方が理解しやすいと思うのだが)。 今年に入ってから、ページを行ったり来たりしながら少しずつ読んでいる本があります。 (『パワーか、フォースか(改訂版)ー人間の行動様式の隠された決定要因ー』ディビット・R.ホーキンズ著 ナチュラルスピリット) 人間の意識のしくみが、それこそ論理的に書かれていると思うのですが、 たぶん、この本に書いてあることが私にとっては、非常に難しく(単語の意味を調べながら)じっくり読み込まないと無理だと思いました。 そうして少しずつ読んでいくうちに、直感的に「あ、ちょっと分かったかも」と思う箇所が現れ、やっと頭もそれに連動して動きだした感じです。 私の、これまであまり使わずにきた論理的思考の部分・・・この資質は、この本でほんの少し芽が出てくれたのかもしれない。 本を手にしたときの直感から始まり(知りたいという期待感)、 難しいからといって辞めてしまわずに(いつもならば、読むのを辞めていたところだが)、もうちょっともうちょっとーと、そこに居続けてみて良かった。 今まで苦手と思っていたことの中にも、自分を置いておく、という体験。 始めは苦痛だけれど、『分かりたい』という動機があれば、少しずつそこになじんでいけるということがあるんですね。 次は筋道立ててわかりやすく説明する、伝えるということにも挑戦してみよう。

今よりもいい人生にしていくために

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夫が大きな病院で治療をすることになり、かかりつけ医から紹介状をもらってきた日、やはり私はショックでした。 病気になってほしくない、ずっと元気でいてほしい、長生きして楽しい人生を送ってほしい・・・ そう思う気持ちが強く、不安で心臓がばくばくしました。 以前、●夫がいないと自分は生きていけない というパターンが暴れたときがあり、ケアしていた時がありました。 その頃選んだ白パターンは、○夫がいないと自分の人生も終わってしまう、わけではない というものでした(これは、本当に救われるような白だ)。 そして今、その時とはまた少し違うパターンがいる感じがしています。 微妙に言い分が変わってはいますが、 自分がつらくなるから、自分には耐えられないかもしれないから等と、 夫に起きていることに対し、自分が不安や恐怖、つらいと感じているんだと思います。 また、それと相反することも感じています。 毎日顔を合わす、障害のある利用者さんたちを見ていて思うこと。 「まさか自分が障害者になるなんて」「何で自分が・・・」 と思っていた、と言っていたのを思い出します。 そして、その思うようにならない肉体、精神は、全くもって原因がわからないもの、心あたりがないもの、 ではないことも、深いところで何かしら気づいているのを感じるのです(口にはしないが)。 その根元を変えたい(今までの自分を断ち切りたい)と決心して毎日を過ごしている。 今より少しでもいい人生にしていくために。 人生はまだまだ続いているから・・・ 変わっていくと心に誓うことで、細胞が生まれ変わると思えるのです。 治療をするということに、希望を見出せるように思いました。 夫も私も、これからどんな人間になっていきたいのか、きっと今まで経験してこなかったことを経験させてもらえるのかもしれない。 いえ、させてもらえるかもという受け身じゃなく、経験したいです。 時間が経つにつれ、少しずつそう感じるようになりました。 私の気持ちは私の責任。 これからも、夫のことで湧き上がる感情があれば自分で向き合っていきたいです。

「私」を楽しもう

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去年の夏に洋服の断捨離をしてから、毎朝着ていく服を迷うということがほとんどなくなりました。 それはそれで、楽になったのですが、 私服も仕事に着ていく服も、同じトーンのものばかり。 そして・・・色は、かなり地味・・・。 そう思っていたら、樹木希林さんのTVコマーシャルを見てちょっと心が躍りました。 岩手ではたぶん放送されていなかったと思うのですが(初めて見ました私) 県外の方々は、あーこれね、と思うのかな。 2017年【西部そごう】わたしは、私。 樹木希林さんスペシャルムービー https://www.youtube.com/watch?v=Ep95r6avrTI ほかの誰でもない「私」を楽しむ。 本当の「私」が着たい服は・・・?

嫌いな人がいたら

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どうしても好きになれない人、嫌いな人っています。 できることならば、あの人嫌いって思いたくないけれど、やっぱり正直に言えば嫌い・・・ その相手は、血も涙もなく、性格がものすごく悪いのかというと、決してそうではない。 あくまでも、自分(パターン)にとって好きになれない、苦手、不愉快、許せない要素があるということです。 ただひたすらパターンが拒絶している状態。 私の場合は、嫌いな人がいるということ自体が何か自分の人間性の低さを証明しているかのようで(これもパターンだが)、 そこが嫌いと思いたくない、になってしまうということもあります。 人それぞれ、嫌う理由はさまざまだし、『嫌い』の意味付けも違う。 でも、そういう人であっても、 最近そうでもなくなってきているかな、と思う時もあります。 自分のパターンが満足するような相手の言動があったときがそれです。 相手に望む反応が、自分の思い通りであったときは心の波が立たず、すーっと物事が進んていくときは、自分が変われたような気持ちにさえなる。 そうそう、そういう反応だったら嫌いじゃないわよって。 でも、それはまた別のパターンを満足させたに過ぎないだけで、すぐに『嫌い』のパターンは騒ぎ出します。 相手のいいところも、考えてみましょう・・・ 子どもの頃は特に、人を嫌うということはダメなこと、みんな仲良くすることがいいこととして教えられてきました。 だから、●人を嫌ってはいけない、というパターンを持つ人も多いと思う。 「どんなところが嫌いなの?」 と、小さい頃によーく話を聞いてくれた大人はいなかったと思うし、 「そうなんだ、嫌いなんだね」って受け止めてくれる大人もいなかったように思う。 決して発してはいけない言葉のように『嫌い』の意味付けは定着してしまった。 大人になると、とにかくよく考える。 自分と向き合うことは、分析して考えることとは違う性質のもの(考えることも必要な場面はあるが)。 だから、相手のいいところを考えて好きになろうとするのは、無理がある。 もし考えるとしたら、いいところ(長所)ではなく、 自分にとって良いことは何だろうと考えた方がいいです。 その人がいるから自分は成長している・・・これは大きな意味を持ちます。 そうだとしても、直ぐには変えられないのだから、 ...

あたり前にしてきたもの

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いつもあたり前のようにあったものがなくなったとき、そのあたり前は、全然あたり前なんかではなく、 自分にとって大事なもの、特別なものだったと気づかされます。 私の カウンセリングの先生 のブログが、今年に入って読むことができなくなりました(PCが壊れてしまったようで)。 その日記は、いつもその時の自分へ、不思議なほどタイムリーなヒントを与えてくれます。 今、目の前に起きていることへの理解を深めてくれたり、全く違う角度からの物事の捉え方を教えてくれたり、 あー、私今、それを知りたかった・・・と思うようなことが書かれてあることが多いのです。 もちろん、そんな私の状態を先生は知る由もないのですが、 文字が日記を飛び出し、時に活を入れられ、時に笑わせてもらい、 本当の「私」が持つあらゆる能力や資質がより磨かれるように、力になってくれるのです。 何より、読んでいて楽しい。 そんな、日常にかかせない存在であった日記(先生の存在)。 これは、ごくあたり前に頼りにしている人やお世話になっている人すべて(家族、友人知人、職場の人)にも言えること。 こうして出会っていること、交わされる言葉(自分へ向けられる言葉)があること、それが奇跡なんだと・・・有難さをしみじみ感じるこの頃です。 どんな人も、自分の魂の成長のために必要な人(こと)が、与えられるようになっている。 そのタイミングは精密で正確で、それ故に、無くなったときはじめて自分の力が試される時でもあります。 誰かを頼りにしているということがあったら、 もし、その人がいなくなったら、自分はどんな行動をとっていくのだろう。 頼っている間、これまで自分は何を学んでいたのか・・・ 成長するきっかけは外から与えられるものであっても、それを生かせるかどうかは自分自身の選択になる。

大変なことが続くとき

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一つの悩みごとができて、 その矢先に、また別の悩みごとが出てくる、ということがあります。 パターン のケアの視点で言えば、 もやもやするようなことがあって、そのもやもやの原因は何だろうって、 パターンの言い分を聞いてみようと思った矢先に、違うもやもや(又ははっきりとした不快な感情)が出てくる場合です。 一難去らずにまた一難。 混乱する頭の中、心の中をどう処理していったらいいのか、ああもう嫌。 これは、大変なことが起きているかのように見えますが、完全にパターンにのみ込まれているという状態。 主導権が、本当の「私」ではなく、パターンになってしまっているために起きる現象です。 大変だと、ああもう嫌と、「私」が感じているのではなく、パターンが感じている。 嫌な気持ちがずーっと続くというときは、本当の「私」ではないところで反応しているもう一人の自分がいる(これがパターン)ということに気づきにくい。 誰かが何かを言ったとか、自分が何かをしてしまったとか、その出来事に注目したくなりますが、そのとき生まれた感情を観察することが優先。 どんな気持ちになっていたのかみていけばいいのだ、と思うことがありました。 我に返ってみる。 パターンにのみ込まれているときこそ分かりにくいのですが、『我に返る』とは、まさしく本当の「私」に戻ること。 不快な感情は、自分にとってとても大事なものです。

プレッシャーがかかる

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とてつもなく、プレッシャーがかかっています。 自信がないし、緊張が止まらないし、うまくいかなかったらどうしようと考えるとものすごく怖い。 こういうとき、どうしたらいいのか・・・ とにかくひたすら、これ以上ないくらいの自分にとっての準備をするということ。 もう、やるだけはやる、のだと思う。 しかし、 確かにやるだけやる、のではあるのですが、 これはちょっとあたり前すぎます。 あと他にはないのか? 深呼吸を何度もくりかえし、頭に上った気を下げ、目をつぶり、胸に手をあて意識を向ける。 本当の「私」はどうしたいのかと集中して聞く。 「よーく、自分の胸に手をあてて聞きなさい」 そう昔の人は言いましたが、それです。 プレッシャーを感じておびえている自分を、 まずはちゃんとごまかさずに理解してほしいし、知ってほしい。 誰に知ってもらいたいか? 自分自身にです。 『プレッシャーを感じておびえている自分』と本当の「私」(自分自身)は別者なのです。 自信が持てなくて、緊張で心臓がばくばくし、失敗したくないと泣きそうになっている、 そういうできれば見たくない自分( パターン )が、しっかりと心の中にいるということを否定せず、 「あなたは、怖くて仕方ないのね」 「あなたは、自分に自信が持てないのね」 「あなたは、絶対に失敗したくないって思っているのね」 と言ってあげることです。 これが、やるだけやる前に、本当の「私」がやること(「私」にしかできないこと)。 プレッシャーがかかるという出来事と対照的に、 いつもより、順調にいっている事も必ずあります(プレッシャーに隠れて目立たなくなっているが)。 一つの出来事で自分を全部染めてしまわないように(パターンに支配されないよう)、 そして、行動だけを重視しないように、 そして、本当の「私」としっかり分離してから探っていこう。

新たな気持ちになる

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今日は仕事始めでしたが、昨夜ふと考えたら、 元旦から一歩も家を出ていないよ、私・・・本当にびっくりしました。 どうりで外へ出ることが(出勤だが)、新鮮な感じに思えたんだ。 この3日間、楽しみにしていたくるみ餅を毎日食べ、かなり以前に録画していた映画を見て、年賀状を書き、あとはちょっとだけ仕事(PC)をして過ごしました。 今年のように、家族みんなで過ごすお正月、という概念がないお正月は初めてです。 毎年欠かさなかった初詣もまだ行っていません(今年、行くのかどうか)。 そういうこともあっていいなと感じました。 あたり前にやってきたことを、そうじゃなくやってみると、違うことをやっても大丈夫なんだと確認するようでした。 今までと同じ流れの中にいると、自然にそうなることが一番いいというか(問題がないような)、そうなった方が落ち着くような気がしていましたが、 それも思い込み、という場合もある・・・ いろいろ試して、その時の「私」が選んだものならば、いつもと同じだろうが違っていようがいいのだ。 これは自分の中では大きな一歩でした。 去年、お世話になった方、ご迷惑をかけてしまったなあと思った方からも年賀状が届いていました。 これは、返事を書ける機会をいただいた、ということ。 だから、この機会に自分の気持ちを届けたいですし、 もしその方たちとお会いしたときは、お礼とお詫びをしたいです。 先日まで、年が明けるからと言って何が変わるんだろう・・・と考えたりしていました。 動物は年末年始も、暦も関係なく暮らしているのに、人間だけは新年というだけで何か仰々しいのではないか。 でも、その年賀状の一件のように、 新年は気持ちを新たにできる日、ということなんですね(字のままだった)。 日本中(世界中?)の人たちが、より良い一年にしようと思うエネルギーを出す時。 自分も誰かのことを思ったり、感謝をしたり、幸せを願うということは、 みんながそうしていったら、世の中が清められていくのではないかと思いました。 ラジオで福山雅治さんが、リスナーに「今年の野望は?」と聞いていました。 目標ではなく、野望・・・分不相応な希望。 クリアできそうな目標を立てることが多かったし、 目標ってそうでなければ、途中でそこへ挑む意欲が落ちてしまうんじゃないかとパタ...

関心がないものに関心が向くとき

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新年あけましておめでとうございます。 静かで厳かで、穏やかな元旦・・・ 魂の成長を目指して今年一年、目標を思い出しながら過ごしていけますように。 TVで歌舞伎番組を観ました。 いつもならチャンネルをすぐ変えてしまうところなのですが、 インタビューされていた市川染五郎さん(14歳)の静かで凛としたたたずまいに、惹きつけられて観てしまいました。 今まで歌舞伎は、独特の台詞が聞き取りにくいのと、物語が良く分からないということが(本当に失礼極まりないのだが)、興味につながっていきませんでした。 しかし、51歳にしてはじめて(年齢は関係ないか) 台詞を発するときの声の抑揚、表情、鍛えられた体幹を感じる動き等々 これはすごい・・・と今更ながら思いました。 松本幸四郎さん(親獅子役)と染五郎さん(仔獅子役)の親子で演じる『連獅子』。 私でも知っている、赤と白の長い毛を持って勇ましく頭を振るシーンは、物語の後半だったんですね。 親獅子が仔獅子を谷底へ突き落とし試練を与えるシーンでは、あの毛がまだなかったので、しばし『連獅子』と分からず観ていました。 舞台セットには崖なるものはないのですが、さも転げ落ちていくかのように演じる姿に、 よーく役者の動きを観ていると物語の内容ってわかるんだなあと気づき、また、わかってくるとこんなに面白いのだなあと思いました。 世代の違う二人のそれぞれの演技に、その年代でしか表現できないものがあり、どちらにも魅力があります。 歌舞伎座で観ることができたら、臨場感があってもっと素晴らしいんだろうなあ たった一日にして、一瞬の間に、今まで関心が全くなかったものに関心がいく、ということがあります。 なぜこれまで、この素晴らしさが分からなかったのだろう、気づかなかったのだろう・・・と思うのですが、 一度気づいてしまうと、もう見えなかった頃の自分の感覚を忘れてしまうかのように、見えてくるものの世界が広がりだします。 その世界はあきらかに感性が磨かれ、人生を豊かにしてくれるもの。うれしいです。 今年は、これまで全く関心の向かなかったものにも、興味が注がれるのかもしれない、 そういう一年になってもいいなあ