あたり前にしてきたもの

いつもあたり前のようにあったものがなくなったとき、そのあたり前は、全然あたり前なんかではなく、
自分にとって大事なもの、特別なものだったと気づかされます。

私のカウンセリングの先生のブログが、今年に入って読むことができなくなりました(PCが壊れてしまったようで)。
その日記は、いつもその時の自分へ、不思議なほどタイムリーなヒントを与えてくれます。
今、目の前に起きていることへの理解を深めてくれたり、全く違う角度からの物事の捉え方を教えてくれたり、
あー、私今、それを知りたかった・・・と思うようなことが書かれてあることが多いのです。
もちろん、そんな私の状態を先生は知る由もないのですが、
文字が日記を飛び出し、時に活を入れられ、時に笑わせてもらい、
本当の「私」が持つあらゆる能力や資質がより磨かれるように、力になってくれるのです。
何より、読んでいて楽しい。

そんな、日常にかかせない存在であった日記(先生の存在)。
これは、ごくあたり前に頼りにしている人やお世話になっている人すべて(家族、友人知人、職場の人)にも言えること。
こうして出会っていること、交わされる言葉(自分へ向けられる言葉)があること、それが奇跡なんだと・・・有難さをしみじみ感じるこの頃です。

どんな人も、自分の魂の成長のために必要な人(こと)が、与えられるようになっている。
そのタイミングは精密で正確で、それ故に、無くなったときはじめて自分の力が試される時でもあります。
誰かを頼りにしているということがあったら、
もし、その人がいなくなったら、自分はどんな行動をとっていくのだろう。
頼っている間、これまで自分は何を学んでいたのか・・・
成長するきっかけは外から与えられるものであっても、それを生かせるかどうかは自分自身の選択になる。











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