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よい状態って

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今これを言っていいのかなどうかな、と悩みました。 悩んでいるのは「私」じゃなくて、パターンなのですが・・・。 話すタイミングは果たして今なのかどうか、 今じゃない方がいいのか、 もっとよく考えてからにした方がいいのか、 でも、今気になるんだよなー、 といろいろ思いながら、なかなか話せずにいました。 こういうとき、 頭の中もぐるぐるしているけれど、胸のあたりのモヤモヤもすごい。 この気持ちを早くすっきりさせたい、というのもパターンです。 すべては自分をよい状態で整えていたいからなのだと思いました。 話すタイミングを頭で考えたり、肌でも感じ取ったりしながら、 自分の口から出るときには、できるだけちゃんと伝わるように話したいと思っている(グットタイミングで話したい)。 単純に、 話したことで自分が嫌な思いをしたくないとか、 相手に嫌われたくないというパターンがそうさせています。 タイミングがいいか悪いかよりも(その問題よりも)、 このぐるぐるとか、モヤモヤとかをどうするのかだと思う。 自分の思う通りにならなかったとしても大丈夫、という白パターンも確かにあるし、 そして、良くない大丈夫じゃないと思う黒パターンもいます。 このどちらでもOKだ、というところに行きたい・・・。 自分をよい状態にするというのは、 何かプラスに物事を運べるようになっていくことのように思いますが、 そうではないんだと、また気づかされたような感じがしました。 どんなパターンがあってもいいし、 どんな結果を受け取ってもいいという、 すべてに許しを持つ「私」でいることの心地良さ、心の軽さがある状態と、 パターンが騒がない状態に仕向けることとは違う。 ここを混同してしまっているんだなあと思いました。

楽しみ方いろいろ

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『乱世少年』(著者シャオ・ユイシュエン 訳者石田稔) という中国の文化大革命の時代を描いた児童文学の本を読みました。 児童文学というけれど、とても残虐な場面が度々描かれていて、 子ども(小中高校生)が読む本にしては、あまりにも衝撃的で切なすぎるところもありました(でもベストセラーなんだそう)。 中国人の知人に聞くと、 小説だからといって大袈裟にしたものでも何でもなく、 主人公の少年の目に映ったもの、経験したものそのままにその時代に起きていたことが描かれているということ。 日本の歴史で似ている時代を想像するとしたら、戦時中になるのだと思いますが、 自分たちも戦争を経験していない世代ですので、 戦争を知るというときに、たしかに残酷な事実を避けては伝わらないので、 こういう部分はとても大事なのかもしれません。 この本を読み終えたときに、ハッピーエンドではないけれど、 少年たちにとってこれからの未来がある、 大人たちにとっても生き抜くことそのものが希望になっていくんだと感じました。 小説自体は、登場人物のキャラクターを想像していくのが結構むずかしく(日本人ではないから)、 それゆえにすごくおもしろかったです(挿絵の版画がまたおもしろい)。 そう、残虐なことが起きるんだけど、非情なことが起きるんだけど、 そこに浸り続けるわけにはいかない、ということなのか。 以前読んだナチスを描いた『夜と霧』(著者ヴィクトール・フランクル 訳者池田香代子)もそうでしたが、 絶望の中には光は見えないけれど、 自分という人間の中にはいつも光は存在していて、 そしてそれは、見ようとして見えるものというよりも、 見えずして暗闇の中から感じとってしまうものが何かあるのかもしれないと思いました。 そういう時代に生まれてしまった人たちは(これも魂が自ら選んだのだと思うが)、 精神性を高めるためだけにこの世に生まれてきたとしか言いようがないような、 人生は修行という言葉がこれ以上ないほどあてはまるような、 生きる目的がすごくはっきりしているように思います。 人生の目的を知りたいと思う人はたくさんいると思うけれど、 精神性を高めるためだよと言われ、 ああそういうことかと、わかったから全てを受け入れられるかは別です。 自分だったらそんな過酷な時代に、どう生きていくんだろうか。 もしかしたら、もうすでにそんな時代も...

なんとかかんとかやっていく

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久しぶりに海を見ました。 広くて大きくて青い海は、とてもおだやかですごく気持ちいい~ ずーっと見ていると心が落ちついてきます。 そして、風のようにふわっと、自分がどんどん軽くなっていくようでした。 三陸の海を見ていると、 やはりあの時のこと、震災を思い出します。 あの日、街をのみ込んだ真っ黒い津波。 信じられないほど恐ろしく姿を変えた海が、 今は目の前で、静かにきらきらと波うっています。 津波伝承館にはじめて行きましたが、 入ってすぐに心臓がばくばくしてきて、映像を見ていると胸が締めつけられそうになりました。 たくさんのものを奪っていった津波。 被災された方々はどんなに辛く絶望的な気持ちになったのだろうか・・・ 館内を順路の通りに歩き、 気持ちがどんどん沈んでいくようだったのですが、 それだけで終わることはありませんでした。 展示されたパネルには、その後の人々の変わりゆく姿もあったのです。 時を経て、人々が動き出し、 ほんの少しずつでも笑顔が戻り、 希望の光りがそこに小さく灯されていく・・・ こうやって人って、 どうにかしてでも生きていくようになっているんだと思いました。 これから先も、 自然災害やコロナのような、 自分にはどうしようもできない出来事に遭遇することもあるでしょうし、 たった今幸せを感じている自分が、その一寸先にはどん底を体験するかもしれない。 またそのどん底から、そのときには想像すらできなかった生きる力をふりしぼっていくこともあるかもしれません。 自分を信じたり信じられなかったりしながら、 それでも、なんとかかんとかやっていく。 お金持ちでもない、派手さもない、何か人の上に立っているわけでもない、 失敗したり、もう何やってんだわたしと思うような、じたばたしている自分であるかもしれないけれど、 それでも、「大丈夫、何とかやっていける」と 海を見ていたら励まされたような気がしました。 この(根拠はないけど)何となくやっていかれるという感覚、とても好きです。 帰りに、自分の家が近づいてきたときも、 あの青い海を思い出すと、この気持ちが追いかけてくるようでした。 もうだめだ、もういやだ、あー疲れたって思うときも、 「それでいいから。それでもやっていかれるから」と言ってあげよう。

コロナ、再び

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ZOOMで岩手クラスの勉強会をしました。 今日は日中でも気温が上がらず、すごく寒そうな感じだったので(一歩も出てないけど)、 温かい部屋でぬくぬくとコーヒーを飲みながらできるオンラインはありがたいです。 勉強会では、先月の振りかえりをみんなでして、 その後、語りつくしているようでどこか語りつくされていないような、 コロナに関わるパターンのケアの話題になりました。 今の自分はどうかと、 最近はほとんど考えることもなくなってきたと思っていましたが、 ●コロナのせいにするな(してはいけない) というパターンがありました。 確かに、物理的にそうなってしまったという事はあるかもしれないけれど、 本当にそれだけが原因か? それがなかったらすべて順調にいっていたのか? と自分にも他人にも突き詰めてみたくなるパターンがあります。 そのせいで仕事ができないとか、何かができないとか、 人間関係がぎくしゃくするとか、ストレスがたまるとか、不安定になるとか、 もうあきらめようとか、どうせやってもうまくいかないとか・・・ ここにつなげるのはもうやらない、と思っていましたが、 自分や他人が、ここにつなげようとするのを感じ取ると、 このパターンが反応していたかもしれません。 常に自分以外の何かのせいにしたくなるというところから、 自分以外のものには一切原因はない(すべての答えは自分の内にある)というところへ、 みんなが気づき、向かいはじめているように思います。 その移行期に、 まだ自分はこんなところで迷っているのかと、 やっぱり自分はダメな人間だというところにしがみつきたいパターンもいるように思う。 そしてそのダメだと思うパターンの方を選んでいる自分や他人を、 また否定したくなるパターンがあるのだと思います。 その時、本当の「私」はそこには不在で、パターン同士であっちに行ったりこっちに行ったりしているように見えます。 現実的にはいろいろあっても、それでも何とかやっていかれる・・・ という『大丈夫』と、 何があっても大丈夫、と思える現実的な根拠がある・・・というのとでは違います。 はっきりとした根拠や理由がないことへの不安が募るということは、 「私」以外のところに頼りたいと思っているからで、 言い返すと「私」のことは信じられないからということにもなります。 本当の「私」よりも、テレビで言っているこ...

気になったこと

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前回の続きです・・・ 何となくうまくいっているような気がするときのもう一つの共通点は、 気になったことをそのままにしておかない、です。 何か気になるということは、知りたいと思う気持ちがそうさせているのだと思うので、 相手に確かめてみたり、他の誰かに聞いてみたり、 調べてみたり、行ってみたり、やってみたり、 さくっとやってみるといいような気がします。 そのままにしておくのが良くないということではありませんので、 そのままにしておく(無視をする)というところを、 パターンでやっていないかどうかという点なのだと思います。 何でもかんでもその場で解消しなければ気がすまない、というものとは違い、 この引っかかりを持ったまま、自分は先に進めるのか? そこは直感的にわかるものがあるように思います。 パターンがひっかかるということであればケアしていくことになりますが、 ん?今のは何? ちょっと分からなかった・・・と思うことは結構ある。 何かこれはそのままにしないほうがいいような気がするという予感がしたら、 その予感はあたったりしますよね。 ほんの小さな、些細な引っかかりであれば、 聞くとか話すとかいう行動にも、そこへの重さがあまりありません。 案外、時間が経つと、軽そうだったものもずっしりと固く重くなっていくこともありますから、 軽いうちに解決してしまうのもいいなと思います。 そこで解決されないものは、それはそれでいいくらいに考えて。 パターンのケアと本当にこれはよく似ています。 引っかかったことをその時にケアしていないと、 もうどこに引っかかったのかさえもわからなくなってしまい、 あとになって、 なぜ自分はあのとき気になっていたくせにそのままにしてしまったんだろうと思う。 だから気になってしまったその事実は、大事にしたいです。 最近何となくいい感じ、うまくいっているときのこの二つの共通点(話を聴く、気になったままにしない)は、 対相手だけでなく、もの、身体でもあります。 そして今回、これらを見つけたには見つけたけれど、 またそこは意識せずにやれたらいいなあとも思います。