投稿

5月, 2024の投稿を表示しています

きぐるみの中の私、の今

イメージ
こんなに地球上には人間がいるのに、 一生のうちに自分と関わる人、家族になる人は、 そこから見たらほんの一握りの人たちです。 その縁のある人たちを前にいろんな感情を抱きながら、 それらに日々翻弄されています。 自分の中にクリアになっていないものがあると、 そこにどうしても素直な体は反応してしまう。 そんな時思うのが、 そのクリアになっていないものを何とかしたいために、 自分は生まれてきたんだって思うのです。 そのためには、どうしても縁のある人たちの存在が必要不可欠だって。 今生の課題というのものが、 人を介して少しづつだけど見えてきて、 見えてきだすと、もう見ないふりができないようになってきます。 見ないふりをしようとすれば、 永遠に手を変え品を変え現れてくるし、 ますますその課題が複雑で巨大化していくような気がする。 気づいているんだからもう、 立ち止まってちゃんと見るしかないんですね、自分を。 せっかく自分を取り囲む人たちが、 私のために、課題に取り組みやすいように、 自分(パターン)を怒らせたり、悲しませたり、つらい思いをさせてくれているのだから・・・ でも、そんなことをいちいち意識せずとも、 死ぬときまでには、それなりに人としての成長はしているのだとは思います。 そんなに、魂の成長を目指したい!とか思わなくても、前進しているはず。 普通に、楽な方へと目を向けて、楽しい人生を、 安全な守られた場所で、自分を変えなくていいところへ身を置いていけばいい。 嫌な相手がいたって、自分を見る必要はない・・・と。 でも・・・でも、なんです。 なんでこの学びを深めたくてしかないのか、 なんで限りなく自分を知っていきたいのか。 明確な理由はわからないけれど、 ずーっと小さい頃からそういうことに興味関心があったのだから、 だからやりたいんだと思う。 このブログのタイトルのように、 朝起きて、よいしょって、着ぐるみを着て、 そこから外の世界をのぞいていたのです。 例えばウサギの着ぐるみを着ては、ウサギのようにふるまい、 ウサギに成りきって、 そのうちもう自分はウサギなんじゃないかと信じてしまうほどで。 そういう、何か本当の自分ではないものを身にまとい、 それになってしまうような気がしていた。 自分ってなんなの?って。 それは、魂の道場的には、パターンだったと思うし、 小さい頃から刷...

小学生パワーを爆発させよう

イメージ
自分という個性があります。 個性を知るときに、参考になるのが小学生くらいまででしょうか。 小さい頃好きだったこと、よく遊んでいたこと、興味があったもの、惹かれるもの、 理由はよくわからないけれどそれがあれば楽しくて仕方なかったというものを考えてみます。 すると、そこに自分の原点が見えます。 その頃の自分を思い出すと、 お絵かき、ママごと、木登り、川でタニシ取り、自転車で冒険、リカちゃんに着せ替え、父とキャッチボール、ジャングルジムに登る、ピーコを可愛がる、歌を歌う、新聞を作る、雪でなんか作る、きれいな紙を集める・・・etc 大人になって大分忘れかけてはいるけれど、 ワクワクするものは、 本質的にあまり変わっていないかもしれません。 私はよく夫や子供から、 まるで小学4年生みたいだと言われます。 ドジなことをしたり、わがままを言ったり、言い訳をするときなど、 「もう、4年生だからな~」と。 はじめの頃は、これを言われると、 何だかバカにされている感じがしてすごく嫌でした。 まるで全然成長していないと言われているかのようで。 でも、そのうち言われることにも慣れてきて、 あ、本当にそうだよな・・・と自分でも思う・・・ もし、4年生の頃から私という本質がほとんど変わっていないとしたら、 それはそれですごいことじゃないかって思うようになりました。 この、小学生の頃の良さを、パワーを、 爆発させていったらいいんじゃないかと。 ちびまる子ちゃんのように! 自分を隠そうにも隠せない。 嘘は態度や顔でバレる。 大人とは思えないようなことで怒る。 だだをこねる。やきもちをやく。 楽しいことだけやりたがる。 嬉しくて、はしゃぐ・・・ そして、どうすれば自分がおもしろくなるのか、 楽しくなるのか知っているのが4年生です。 本当に、やることが幼稚だなと思うことが個性であり、 それがあるから自分も楽しいのです。 そして、 今はもう、ただの幼稚なだけの小学生ではありません(そりゃそうだ)。 自分をケアできる大人へと成長しています。 自分からパターンを見つけ、謝ることもできるし、 次はどうしたいのか考え、道を選択し、 自分自身に恥じないよう行動に移していくことだってできるのです。 小学生のように、夢中で今を楽しめもするし、 成長へのらせんを一歩一歩、地道に歩く大人でもある。 どっちもある自分だとし...

自信の意味付け

イメージ
『自信がある』について中立ワーク(意味付けワーク)をしてみました。 プラスに意味付けると・・・ のびのびしていられる、思い切りがよくなる、怖くない、前向きになる、うまくいきそうな気がする、余裕が生まれる、自分に対しての安心感、天(神)とつながる 中立(中庸)は・・・ 『自信がある』というただ一つの体験 マイナスに意味付けると・・・ 天狗になる、大きな落とし穴がある、大事なことを見落としやすい、周囲が見えなくなる、慎重さがなくなる、他人を見下す、自分が正しいと思いこむ 自らを信じるということで自信を捉えると、 自分という存在はとても尊く、その尊い自分を信じずに何を(誰を)信じるのだろう。 って思ったりします。 そう思うと、プラスの意味付けとして今回出てきた新たなものは、 『天とつながっている』です。 なぜ自信があるということが、この捉え方になるのか自分でも少しびっくりですが、 なんかここがあるからこれまでやってこれたのかもしれない。 他の誰でもなく自分を信じて生きることは、素晴らしいことだと思う。 マイナスの意味付けで出てきた、自分が正しいと思っている、っていうのは、 本当にそういうときがあるんですよねー。 正しいと思っているから、自信持って何か熱く語っていたりします。 これ、自分にとっては微妙なところなので要注意です。 自信があるのなら、もう少し心は堂々と落ち着いていられるはずなのに、 どこか不安があったり・・・落ち着かないのは、パターンが思う自信だからですな。 自信の本質を「私」は知っているんだと思います。 そこがなくても充分に自分を信じてやっていけるのだと。 だから、自信があるとかないとか何一つ本当は関係なく、影響もなく、 やりたいのか、やりたくないのか? やるか、やらないか?!だけなのかもしれません。 自信というただ一つの体験があり、 それをどう捉えて自分の力に変えていくのか? 過去の自分を振り返ってみるとき、 そこに自信という力で背中を押されたんだな~って思うことも確かにありました。 でも、天につながっている自分を信じてがんばる。 それが今はしっくりくる自信なのかもって思います。 桜山界隈っておもしろい

ありのままでいい・・・って

イメージ
『ありのままでいい』という言葉、よく耳にします。 ありのままでやってみればいい。 ありのままで、もうあなたは充分。 苦しいときに、 本当にそのまんまのあなたでいいんだよ~っていうのは、 とても肩の力が抜けるし、安心感があるし、 素の自分になれるものだと思います。 でも、その言葉に、 そもそもどの状態のことを『ありのまま』って言っているのだろうと思います。 努力をしなくてもいいということなのか、 頭を使わなくていいということなのか、 落ち込んだままで、怒ったままで、有頂天のままで・・・ 全部が自分らしいのだから、その自分らしさでいればいいということなのか。 ありのままの意味がよくわからず使っていました。 どの自分が、そのまんまでいい自分ってことなんだ? と内心思っていたけど、 でも、その考え方がなんかすごく尊い感じもして、 何となくそう考えることはいいんだろうなと。 何かを変えようとしなくていい。だってありのままがいいんだから・・・ 意味もわからず頭で考えてやっていたのです(口にもあえて出して言ってた!)。 でも今思うと、 全然ありのままって、楽でも何でもなかったなあと思うのです。 本当に深いところでは、何も変わっていなかった。 それはそうです。 ありのままの自分はパターンでの自分だったから! 本当の自分を知らずして、 自分を変えることはできないのだなあと思う。 まだまだ自分のことがわかっていない私が、 ほんの少しわかりかけてきたところで、 ありのままの自分というものがやっと見えはじめました。 本来、自分って、「私」って、 とても楽で、軽くて、のびのびとしていて、清々しくて・・・そういう存在です。 そういういい感覚があるか? ここを頭ではなく、ちゃんと感じて見極めたいです。 パターンはそのままそこにいていいけれど、 ずーっと黒パターンを選び続けるのはやっぱりつらいのですから。 ありのままが楽じゃないと感じたら、自分をひたすらひたすら観察です。 感情を察知し、その感情を生み出すパターンを見つけ、 そして、体感しながら自分のあり方でパターンを選び変えていく。 そうやって自分を知っていくとはじめて、 そういう本来の自分のまま(ありのまま)でいこうじゃないか! ってなるような気がします。 体感、実感、これがあればきっと『自分のありのまま』がわかるのだと思う。 ブルーベリーがす...

今週もお疲れさまでした

イメージ
仕事だと、相手のことをとても考えます。 何かしらこちら側からの要望があるので、 マナーよく、コミュニケーションを取りながら、 お互いが気持ちよく話が進んでいくように気を配ります。 仕事ってそうやっていつもいつも、相手あっての事だと思ってきました。 いわゆるWIN WINの関係もあたり前で、 自分がやりたいことを考える時に、 相手はどう思うだろう、相手のメリットは何だろうって考えるのです。 習慣って恐ろしい。 頭を使って、口を使って、足を使って、 自分が動くことで相手のことが少しずつわかり、 大事にしているポイントがわかり、 それは全部、『相手とのいい関係』のためなんですね~ すごい努力だ!! それが・・・最近はというと、 そうじゃないところで仕事をするようになってきています。 もしかして、WIN WINの関係を作らなくても、 そこにそんなにこだわらなくてもいいのではないか? と思うようになってきたんです。 一番いいかたちは何だろうと。 いいかたち、相手とのいい関係、って一体何なんだ! ということを思うのです。 話を合わせることではないし、 相手へメリットを与えようとすることでもないし、 相手の機嫌が良ければすべてよし!でもない。 いつか関わる日がくるかもしれないと繋がっているのも、どうなんだろう。 関係性を作ろうとすること自体が、 すでに相手主体になっているのではないだろうか。 いい関係をなぜ作りたいのかという動機を考えると、 なんだか自分の正直さとはしっくりこないものがあるんだと思った。 自分が自分に正直であるか、素直であるか、 自分の大事にしたいことは何か? これらはみな、自分自身との関係作りです。 ここをやるのに、仕事ってとてもいい練習の場になります。 仕事の概念が変わると、小さなこと一つ一つがおもしろくなっていきます。 いろんな自分が見えてくるからだと思う(発見の連続)。 そしていつの間にか、 自分との関係性と比例して相手との関係性もいいものになっていく。 売上のあるなしも関係なく、 相手がすごい人すごい会社とかも関係なく、 仕事の価値も大きさも何も関係なく、 仕事をする中で、見るべきは自分。 自分のことを知っていけたらもうそれでいいなあと思う。 週末だから~ホヤと豆腐(行者にんにく)とモツ煮と日本酒!

習慣を捨てる

イメージ
自分への扱いに不満を持ったり、 もっとちゃんと公平に見てほしいって思うとき、 自分にもその相手に対して偏見があり、ジャッジしていることがあります。 また、そういう自分だからこそ、相手のそれを見て、 相手がしていることがわかって想像できるのです(本当にはわかっていないと思うけど)。 でも、 今の自分が受け取っているそれと、 相手が受け取っているそれとは、 はじめから違うものなんだなあとも思いました。 立場によって受け取り方や感じ方は違ってきます。 経営者と従業員、教える側と教わる側、経験者と未経験者というように、 自分がどの立ち位置で物事を見ているのかで、 全く正反対のものを見ていることもある。 結局は、外側で起きていることや、相手がどう思ってそうしているのか?よりも、 その外側で起きていることを、自分はどう捉えていくのかだけです。 自分以外のところで一生懸命他人を分析をしても、 真相も何もわからない。 わかってもらいたいから、あの態度に腹が立った。 大事にされたいから、あの発言に悲しくなった。 認められたいと思ったから、あの行動に出た。 自分を必要としてもらいたいから、あんなふうに言ってみた。 ・・・というように、 感情にも、態度にも、行動にも、 そうなる理由がぜーんぶ自分の中にあります。 自分には、明確な理由があるんですね。 自分のことよりも、相手のことを(立場を)考えて行動しましょう~的な、 相手を思いやる精神が子どもの頃から刷り込まれていることもあって、 社会に出てからもなお、 自分よりも、まず相手はどう思ったのか? そっちを大事にしてしまう癖がついているのかもしれません。 いまだに、それが抜けきれない・・・ それくらい、自分を全ての中心に置くというところへ意識を向けていくのは、 過去の習慣を手放すことでもあり、 とても大切なことなんだと思います(時間がかかるが故に)。 手放す、辞める、降りる、壊す、捨てる。 今の自分には、これらの言葉がとても心地のよい風通しのよい、いい感じ、い~い感覚です。 このいい感覚に浸って浸って(←ここ大事)習慣を変えていこう。 江ノ島大明神

音が外れるときのルール

イメージ
千鳥の〖鬼レンチャン〗という番組があります。 音程を外さずに歌って、10曲まで行けると100万円もらえるというもの。 参戦する芸能人はみんな歌がうまい人ばかりなのですが、 自己流ではなく、のりのりすぎてもダメで、 あくまで曲に忠実に音程を守って歌わなければなりません。 この番組、好きで結構見ているんですがー おもしろいことに、音程を外すときの直前の状態に共通するものがあるんです。 はじめはただただ一生懸命に集中して歌っています。 歌っている姿はとても集中しているし、緊張がありながらも楽しそう。 でもだんだん賞金が目の前にちらつくと、 ついに、ここまで来た・・・という期待というか、勘違いが起きるのでしょうか。 絶対に賞金をもらってこうなりたいとか、 鬼レンチャンにこれだけのものをかけてきたとか、 こうしてテレビに出られるようになるまでどんだけ苦労してきたかとか、 それはそれは自分の思いを熱く語ります(しかも、長い)。 で・・・、 真顔で長々と語った後に、ほとんどの方が決まって音程を外します。 本当にこのケースが多くって、 当人が歌う前に語り始めると、 あ、これはやばいな~ って失敗の匂いがぷんぷんしてくるんですね(そして、見事に当たる)。 この現象は、一つの法則にのっとっているのではないかと思ってしまいます。 それこそ量子力学です。 意識がこれまでと違うところに動いた途端に、量子もゾゾゾゾッと動き、 今までと違う現実を作り出す。 それが、お金に対する欲なのか、 売れたいという欲なのか、実力を認めてほしいという欲なのか・・・ とにかく何かしらのパターンが考える欲であることは間違いないような気がしてます。 あの真顔と熱意には、 今までそこにあった真っ直ぐさ、純粋さは消え、 (真面目に語るので、一見いい話には聞こえますが) パターンが言うところの願望でしかない。 何かを叶えることに執着しはじめると、 そうなりたい、なりたい、なりたい・・・と思い、 今自分はそうなっていない、いない、いない、と信じていることになります。 だから、 宇宙のルール、神のルール、この世のルールとしては、 その思っていること、信じていることの方をそのまま現実に映し出そうとするのですね。 いつか幸せになりたい・・・と強く願うということは、 今自分は幸せではないと思っていることと同じなので、 そのまま不幸...

魂の成長を目指すカウンセリング

イメージ
今、帰りの新幹線に乗り、柿の種とお茶でひと息ついています。 今回のグループセッションではかなり頭が混乱してしまいましたので、 教わったものを少しずつ咀しゃくするのに、時間をかけてやっていこうと思っています。 頭をなるべく使わず(余計なことを考えず)、 実践して体感して・・・その連続の先に見えてくるものがあるのかなと(漠然とした話ですみませーん)。 グループの後は、師匠の個人セッションを受けました。 点と点がつながり、いろいろなことが整理されていき、 やはり私は 『魂の道場』 で学んできて良かったと心底思いました。 一対一のセッション(カウンセリング)は、 もう遠慮なくグイグイきますので、核心をつかれます。 その厳しさの中にいてやっと自分の弱さが顔を出す・・・ また、深い深いところにある感情もわいてきます。 その感情は、パターンでも「私」でもない、 もっと魂が震えているような言葉にならないようなものを感じました。 言葉にならないほどの純粋さ。 その感覚を全身で受け、自分にはもう適当なことをしたくないと思った。 そして、あらためて、 心理学でもない、哲学でもない、スピリチュアルや占いでもない、 (それらを否定しているのではないですよ) 私は、このひたすら限りなく純粋に自分だけを見ていく、 魂の成長を目指すカウンセリングが好きなんだと思いました。 このカウンセリングの方法は、 カウンセラーがいなくても、自分で自分を一人で見ていけるものになっています。 一人で生きる力、自律を求める方に伝えていきたい! 自分を理解し自律を目指し、 常に自分はどうありたいのかを問う。 自分の生き方を考えるときにどうしても譲れないものがここにあります。 だから、全ての人にわからなくても、 たくさんの人から認められ、支持されるものではないとしても、 自分らしく生きたいと願う方に渡していけるよう、まずは自分・・・ですね。 今日は帰ったら家族にお礼を言って、 学べる環境に感謝しご飯を一緒に食べたいです。 念願の 鎌倉こまめ!

自分のやることをハッキリさせよう

イメージ
茅ヶ崎クラスのセミナー1日目が終わり、 まずは、何を私は感じたのか? はい、ズバリ、やることをやっていなかった・・・という驚きと嘆きです。 そこをやらずして、全く違うところであれこれ悩んでいたんだ。 そうだよ、何でそこ、抜けていたの?バカバカバカ・・・ 自分でもあきれてしまったし、腹が立ったし、情けない気持ちになりました。 でも、ここで、ただ嘆いても、 あーこれだから自分ってダメなんだと落ち込むのも、パターンを大きくしていくだけ。 だから今、自分の状態を知れたことが本当に良かったと、そっちの方に心を向け、 やることをやっていくだけです。 新しいことを学ぶことは、わくわくするし楽しいのだけれど、 それを取り入れるだけのスペースが無ければ入ってこないことを教わりました。 停滞していたものをさっさと壊し、そこに自分自身にふさわしいものだけを入れていきたいです。 また、今までずーっとやってきたことも、本当にやれているかどうかの現状をよく見て振り返ることも必要。 ちゃんと自分を見ているのか? 何かに甘えてはいないだろうか? 執着して見えなくなっているものはないだろうか? うまく行かないことが続くときは、 自分が気づかないうちにやっていること(または、やらないでいること)があります。 頑なに変わらないもの(忘れているもの)が自分の中にあるんですね。 「私」がパターンを選び換え、意識を変え、いい感覚に十分浸りながら行動に移しているかどうか。 その良き感覚を持続させているかどうか。 心折れる時もあってはいいが、いつまでもそこに停滞していないか? あの良き感覚を思い出し意思を持って、 心折れた時こそ、自分はどうありたいのかと問いただそう。 それが私のやることなのだ。 私にとってすごく大事なところに戻れたことがうれしいです。 外を変えようとするな。 自分を変えよ。 魂が欲することを考えよ。 今日も一日、先生、みなさんよろしくお願いしまーす! 気持ちいい青空!

わくわくに乗って

イメージ
1月ぶりの 茅ヶ崎 へ向かっています。 やっぱりそうだなあと思うのは、私ノリ鉄なんだなあと(今さらだけど)。 新幹線も電車も車も、滅多に乗ることないけど飛行機も好きだわ〜 窓から見る景色にわくわくします。 東北を南下していくと田植えされた一面みどりの田園風景が広がり・・・きれい! この心が震えるような、ときめくようなことが好きだと思いました。 田舎から都会に向かう途中の、自分の住む街とは違うのどかな色に、 じーんときたり、ほっとしたり、無の境地のような(いえ、無はよくわかりませんが) こうして、ひたすらボーっとする時間が、今までの私を作ってきたのかな。 なるべく頭を使わず、感じる3日間でいこうと思います! 旅のおともに ちひろのお菓子

はじめて講座〖5~6月〗

イメージ
今年のゴールデンウィークは、ここ数年分の日本中の我慢が爆発したかのように、 どこに行っても人、人、人で混雑しているようです。 盛岡名物の福田パンも、見たことないような行列でした! 昨日はそんな中、講座が開催できたことが本当にありがたく・・・ いつか参加してみたいと思っていたんです、と、 かばんの中から小さく畳んだチラシを見せていただいたとき、 もう感謝の気持ちでいっぱいになりました。 その勇気って、特別なものだと感じます。 自分も、はじめてカウンセリングを受けようかなと悩んだとき、 ものすごくドキドキしました。 何て言われるんだろうっていう怖さもあった。 でも何か一歩踏み出せるんじゃないかという、ちょっとの希望も感じて、 そして勇気を振り絞って行ったことを覚えています。 だから、悩みの真っ只中にいて、 小さな光を見つけられるということが(それが勇気) すごいことだと思っています。 心のからくりを、ハウツーとしてではなく、 見えていないものの世界を感じられるように話せたらいいなあっていつも思います。 シンプルな話ではあるけれど、 そこに豊かな広がりのある世界があることをお伝えできたら・・・ と、それが自分の目指しているところ。 そして、回を重ねるごとにそれを一番実感するのは私自身なので、 神さまから、まずお前ががんばれ! と言われているような気がするんですね。 心のことって、大事だとわかっていてもそこをあまり強調しすぎると何だか引いてしまうと感じます。 見られたくない部分を見るからなのか。 別に、心の仕組みを知らなくたって生きていけるし、 現実的に今の苦しさから逃れられる方法だけを知りたいと誰だって思う。 ましてや年齢を重ねていけば、経験として自然とわかることもあるし。 じゃあ、なんであえてそこをやっていくのか? 自分にとって、良かったものが、 たくさんの人にとっても良かったと思うわけではないというのもわかりつつ、 でもやっぱり、自分を知ることの面白さは、 すべての面白さ、この世の興味につながっていると思うのです。 何より、 自分で自分を救っていけるということが、最もぴったりくる答えを持って進めるんだと、今は体感しています。 そんなふうに変わっていくことが楽しいから(←これが一番)自分はやっているんだなあ。 自分との信頼関係さえ築けていけたら、 自分らしい人生になって...

語りかけは急がず慌てず

イメージ
先日出てきたパターン に、 しばらく語りかけをしたいと思い、ここ数日やっています。 「私」が全~部、その気持ちをわかってくれると知って、 パターンの安心感はだいぶ違ってきました。 心がすーっと落ち着く感じがあり、そのことをもう考えなくなってきています。 それでも、まだやってます。 考えなくなってきていても、 もうパターンが騒ぐきっかけの人と会うことがないかもしれないと思っても、 長い間、無視され続けてきたパターンの寂しさはパッとなくなるわけではないからです。 パターンが騒いだのは、 共感されないことに対しての居心地の悪さや、 この人苦手だわ〜私には無理〜って思う、人に対する嫌悪感のところ。 それがなんか無くなってきたなあで終わるのはちょっと早い。 それがあっても大丈夫な、 そんなことを(この人嫌いだ!と)感じた自分を、 ちゃんと許せるようになることが大切なのだと思いました。 パターンで反応してはいけないということではなく、 パターンで反応することは悪くはない。でも私は、それをもう選ばないという感覚。 反応は、長い間無意識に習慣化されたものだから、 反応しないための練習(丁寧な語りかけ)は必要。 筋トレとおんなじだなー。 だから、いったん感情としては落ち着いたところで、 さらに語りかけを静々とやって体に染み込ませています(←ただいま筋トレ中)。 何を語りかけるのかも大事だけど、 どんなふうにパターンへ語るのか? 一回で変化が出たからやめるのか、もうつらい状況が去ったから次のステップに進むのか。 この工程を急がないように。 嫌なことが去っていって良かったあ〜 ということで終わりがちだけど、 変化しはじめたその大きな目で、どっしりと、ゆっくりとそれらを咀しゃくしていく。 早食いじゃなく・・・やっていこう! また飛行機に乗りたいなー

自分でやらなければ、何も変わらない

イメージ
久しぶりに出てきたパターンに、ひるみました。 そうだ、そうだ、私この人のこと嫌いだったんだーーー! と思うパターンです。 長い間、パターンも出番がなかっただけでした。 オロオロしているうちに、苦手意識はどんどん大きくなり、 ああ、もういやだ、逃げたい・・・ってパターンは意気消沈しています。 自分には対応する力がない・・・ってパターンは信じています。 今まで、ここのケアをしてこなかった結果。 以前は嫌だと思っても、たまたま何とかすり抜けてきた。 いつも他人が解決してくれていたように思う。 だから、今回も誰かの手を借りて解決しようという頭になったんだなあ。 でも、世の中そんなにあまくない。 パターンのケアをしたからではなく、 人に助けられてきたから、何とかなっていただけなんだから、 なーんにも自分は変わっていないんです。 今、パターンから、 もういい加減気づいてくれーーー! ケアしてくれーーー! って訴えられているような気がした。 自分自身の努力で超えてきたことではないと、 また、同じような場面になればいとも簡単に感情は騒ぎます(パターンが暴れる)。 自分でやらなければ、何も変わらない・・・ この法則、本当にゆるがなく繰り返されます。 無視してきて本当にごめんなさい。 今度こそ、このパターンに語っていこう。 ムードある喫茶店