きぐるみの中の私、の今
こんなに地球上には人間がいるのに、 一生のうちに自分と関わる人、家族になる人は、 そこから見たらほんの一握りの人たちです。 その縁のある人たちを前にいろんな感情を抱きながら、 それらに日々翻弄されています。 自分の中にクリアになっていないものがあると、 そこにどうしても素直な体は反応してしまう。 そんな時思うのが、 そのクリアになっていないものを何とかしたいために、 自分は生まれてきたんだって思うのです。 そのためには、どうしても縁のある人たちの存在が必要不可欠だって。 今生の課題というのものが、 人を介して少しづつだけど見えてきて、 見えてきだすと、もう見ないふりができないようになってきます。 見ないふりをしようとすれば、 永遠に手を変え品を変え現れてくるし、 ますますその課題が複雑で巨大化していくような気がする。 気づいているんだからもう、 立ち止まってちゃんと見るしかないんですね、自分を。 せっかく自分を取り囲む人たちが、 私のために、課題に取り組みやすいように、 自分(パターン)を怒らせたり、悲しませたり、つらい思いをさせてくれているのだから・・・ でも、そんなことをいちいち意識せずとも、 死ぬときまでには、それなりに人としての成長はしているのだとは思います。 そんなに、魂の成長を目指したい!とか思わなくても、前進しているはず。 普通に、楽な方へと目を向けて、楽しい人生を、 安全な守られた場所で、自分を変えなくていいところへ身を置いていけばいい。 嫌な相手がいたって、自分を見る必要はない・・・と。 でも・・・でも、なんです。 なんでこの学びを深めたくてしかないのか、 なんで限りなく自分を知っていきたいのか。 明確な理由はわからないけれど、 ずーっと小さい頃からそういうことに興味関心があったのだから、 だからやりたいんだと思う。 このブログのタイトルのように、 朝起きて、よいしょって、着ぐるみを着て、 そこから外の世界をのぞいていたのです。 例えばウサギの着ぐるみを着ては、ウサギのようにふるまい、 ウサギに成りきって、 そのうちもう自分はウサギなんじゃないかと信じてしまうほどで。 そういう、何か本当の自分ではないものを身にまとい、 それになってしまうような気がしていた。 自分ってなんなの?って。 それは、魂の道場的には、パターンだったと思うし、 小さい頃から刷...