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10月, 2021の投稿を表示しています

コンディションを整える

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朝起きたとき、自分のコンディションがわかります。 ラジオ体操の歌で ♪新しい朝が来た。希望の朝だ~喜びに胸をひろげ大空あおげ~ っていう歌詞がありましたが、 まさにそんな気分の目覚め方であると、いい一日がはじまるなあと思います。 いい一日、というのは自分が幸せであって平和であって健康で不安のない一日。 身体的には、睡眠時間の長さ(7~8Hくらい寝た)とか、 食欲があって美味しく食べれていて、しかも食べ過ぎずにいるかどうか。 体が冷えていないかどうか。 歩くこと動くことに疲れを感じないかどうか、息切れはどうか? などなど特に呼吸の状態からも自分のコンディションがわかります。 精神的な部分でいうと、 ひとりになる時間を持てているかというのも、 自分を振り返る時間があるかどうかという点で大事です。 たくさんの人の中でも、自分を大切にしているか、 自分のままにいることに無理がないか、 相手ではなくて自分がどう感じているか・・・をちゃんとみれているか。 このあたりもポイントです。 そもそもコンディションとは、 自分で整えられるもの、作れるものであるようです。 でも、整えたくても整えられない、どうしようもない状況もある、と思うこともあります。 そういうときは往々にして、 環境、状況、相手という自分以外のところで原因を探っていることが多いよう・・・ そして、自分以外に原因があると思うと、そこの部分が拡大し、また抵抗が生じ、 本来進んでいこうとする流れから大きくそれていくように思います。 それが、言い知れぬ不安とまだ起きぬ恐怖に支配されてしまうということでもある。 いえ、全て自分に原因があるんです・・・ とわかっている方もいます。 原因は周囲ではなく自分の内側にある。 と思うところまでは同じであっても、 だから変えていこう、変わっていけると希望を持つのか、 だから自分はダメなんだ、何も変われないと下を向くのか、 この感じ方の分かれ道はその後の選択に天と地との差が出てくるように思います。 そして、自分を変えていこうとする前に一つ大事なことがあって、 そのコンディションの悪い自分、思い通りにいかない自分にそのままOKを出せるかどうかということ。 ここを飛ばして「変わる」のはちょっと違うかもしれません。 この違い、この違和感を何度も何度も経験していくうちに、 思考での理解だけでは本当に前...

冷蔵庫がきた

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ようやく冷蔵庫がうちにやってきました! ちょうど暑くもなく寒くもないこの季節だからこそ、 常温でなんとか過ごせていましたが(意外なほど困らなかったが)、 でもやっぱり、新品冷蔵庫が届いたときはテンションあがりました~ 電化製品の進化ってすごいですね。 センサーで反応して触れると開くとびらが、ちょっと感動しまして、 用もないのに何度も開けたり閉めたりしてしまいます。 手がふさがっているときすごく便利ですし、何よりベタッと触らないので清潔。 そして驚いたのは野菜室です。 袋から出して、そのまま入れておいても野菜の鮮度がしっかりと保たれているんです。 すご~~い!信じられない・・・ はじめてのチルド室も、冷蔵室との違いがまだよくわかっていませんが、 お刺身を買ったらこちらで待機ですね。 届いたら、あれも買ってこれも買ってといろいろ適材適所に食材を配置したいと思っていましたが、 一週間経過した今も、中はガラ空き。 少しの間、今調理すれば食べられる、そういう食材を買う毎日を経験し、 本当に食べたいもの、本当にこの2~3日で食べきれるもの、そういうものでけっこう充分かもと思いました。 以前より一回り大きいサイズを買ったのに、この中がいっぱいになるって相当の量。 今までいかに買い過ぎていたか・・・気付いてしまいました。 この冷蔵庫のすっきり感は、 さぞかしボディへのすっきり感へと比例するのではないかと思いましたが、 そこは大して変化無し(過大妄想だった)。 食材の買い過ぎがなくなったとしても、食べることが大好きな自分は、 やはり美味しいものを食べるってことには変りないのだなあ、と思いました。 家の中のものが一つ新しくなると、それを機に使い方、暮らし方をとても考えますね。 最近、食材にかけるラップを、何度でも使える ミツロウでできたエコラップ を使うようになりました。 これ、カラフルな柄が冷蔵庫の中で目立つので、 残ったものを忘れてしまう(又は見て見ぬふりをする)自分にはぴったりのしろものです。 進化した冷蔵庫と食材を捨てずに食べるためのエコラップに、なんか楽しいなあと思ってしまいます。 本当に必要なもの、自分の心がときめくものだけに囲まれて生活していくって、 これからますます自分にとって大事なテーマとなりそうです。

変わらないこと

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26年前に出会った方から思いがけず手紙をもらいました。 秋田の玉川温泉というところで出会った方でした。 当時わたしは、その温泉地でひと月ほど一人で湯治をしていました。 湯治というのは、病気療養のために自炊して泊まりながら温泉に入り体を癒していくというもの。 ガンが治癒した方の話が有名になり、全国からたくさんの人がその温泉旅館や周辺の湯治場に訪れていました。 藁をもすがりたい気持ちというのはこのこと。 その頃の自分 は体力もない体調もよくないそんな状態ではありましたが、 退院と同時に山に向かったのです(今思えば、よく親が行かせてくれたなと思う)。 桟橋を渡るしかそこに行けない湯治場は、宿というより小屋みたいなお粗末な造りで、 4畳半の部屋にはまるで外のように虫が普通に歩き、窓はすきま風でガタガタいい、 ちょうど今くらいの季節でしたので、それこそ夜は温泉に入らないと眠れないような寒さでした。 そこで毎日、夜明けとともに起きては山を歩きました。 日中は岩盤浴ができる岩肌で寝転がったり、 病気に効くと言われる源泉に何度も入りに行ったり、 大自然の力で治療をしているような感じでした。 食事は質素な玄米菜食。 歩く、よく噛んで食べる、温まる、山の気をめいっぱい吸う・・・ テレビも何も娯楽はなく、 そんな、浮世離れしたような生活がとても楽しかったです。 首にタオルをかけ、ござ(岩盤に敷くためのもの)を抱えて歩く20代女子はほぼ見かけませんでした。 病気を治したいという真剣さ、必死さはあの場所では恥ずかしいことではなかったような気がします。 ここでは格好つけなくていい、じたばたしてもいい、そういう場所だったように思います。 そこで出会った人たちとの交流は、普段の暮らしでは考えられないほど濃いものでした。 いつも会うとおもしろい話をしてくれた人、岩盤浴の場所を譲ってくれた人、汗をぬぐっているとお水を分けてくれた人、おにぎりや温泉卵を差し入れしてくれた人、隣り町に買いだしに連れていってくれた人、のぼせたわたしを介助してくれた人、ヒーリングやスピリチュアルなことを教えてくれた人、いつも遠くから手をふって笑ってくれた人、などなど。 わずかひと月にも満たない期間で、 自分がしてもらったことばかりが思い出されます。 手紙をいただいたその方も、とてもとてもお世話になった方。 でも実のところ、ほと...

大事なお友達

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以前、 突然いなくなった母の友達のこと を日記に書いたことがありましたが、 なんと、その方と母が先日再会を果たしました。 あれから、なかなかあきらめきれなかった母は、 どうして何も言わずにいなくなってしまったのか、どうしても納得がいかなかったのでしょう、 何度も同じ話を繰り返し、 その度にわたしの気持ちもゆれ動き・・・ もしかしたら、いつかご本人かご家族が気づくかもしれないと、 誰も住んでいない家のポストに手紙を入れたのでした。 お別れであったのならこれまでのお礼を言いたかったということ、 もし可能ならば一報いただきたいです・・・ということを書いた。 そして、5か月が過ぎたある日、 母のお友達のご家族から連絡をいただいたのです。 意外にも近くにお友達は暮らしていました。 面会時間は10分という制限がありましたが、 玄関先で待っていた母はお友達の姿を見るなり、目の前の透明シートのカーテンを全力で手でどけて、 あらまあ~何年ぶりかしら~~(5か月です)と、 二人はしっかりと手を取り合い再会を喜んでおりました。 いつもの日常会話のように、まるでこれから二人でスーパーに行くかのような雰囲気でした。 あれほど言っていた、どうして黙っていなくなったのか?ということについては、 もはやどうでもよくなり・・・ 帰りもさばさばと、「また来るわね~」 二人の満面の笑みの写真を遠方に住むご家族に送らせていただき、 自分も何だか肩の荷がおりたような気持ちになりました。 70代、80代、90代となったらどんな人間関係があるのでしょう。 友人知人とも突然のお別れがやってくるということもあるでしょうし、 お付き合いしたくても体(頭も)がゆうことをきかないということもあります。 家族、親戚もそばにいるかどうかわかりません(いても全く会えていないとか)。 いずれ、誰かしら他人のお世話にはなって生きているでしょう。 そんな中で、年老いた自分とお付き合いいただけている人というのは、 本当に数えるくらいしかいないのではないかと思うのです。 そういうささやかなご縁があるのなら、最期のときまで大事にしたいですし、 母の人生最終章の(まだまだ長生きしてほしいと願いつつ)お友達であるなら、 わたしもその方たちを大事にしたいなあと思いました。 そして今の自分の人間関係も。 まだまだ人生は続くと思っているから会うこと...

あたたかい夜

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約一年半ぶりで出向いたお店。 常連というほどではありませんが、ちゃんと美味しいものをゆっくり食べて飲んで、 友人と語り合いたいなあと思うときに頭に浮かぶお店です。 コロナ禍で言わずもなが大変だったと思いますが、 なんとか存続していてくれて、店主の姿を見たときは懐かしさでいっぱいになり、本当にうれしかったです。 「いらっしゃいませ!なんとかやっておりました」 と笑うお顔を見て、 どんなに苦労をされたのか想像できるような気がしました。 友人はずっとこのお店に来たかった(サザエの壺焼きが食べたかった)と言っていたので、 この場所があってこその今日だったと思うと、本当にありがたいなあって思いました。 二人で近況報告しながら、お孫さんの動画を見てはゲラゲラ笑い、楽しい夜を過ごしました。 昨夜の盛岡は10℃。 小さな幸せを、わたしは友人とこちらのお店のおかげで味わえて、 さらに寒空を歩いているところに車で向かえに来てくれた夫にも感謝感謝でした。 寒い一日でしたが、心はほんわか温まりました。 来週は朝の気温が1~2℃という、いよいよ来たかと思う寒い日があるようです。 週末はこたつの準備をして温かく過ごしたいです。

現実が見えていない

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●よく思われたい、というパターンがいます。 そして自分は、たぶん相手からこんなふうによく思われているであろう・・・ と、なぜか信じていたように思います。 だから、そうではなかったと知ったとき、とてもショックでした。 尊敬されたい、すごい人だと思われたい、頼りにされたい等々のパターンです。 どうしてそんなことを思っていたのだろうか。 相手が思っていることを知ってはじめて、 そうだよなあ、考えたら自分なんか尊敬されるわけがないし、 どこもすごくないし、頼りにされるような器ではないと知っていたはずなのに。 「わたしなんて・・・」 と、卑屈になっているのも、またパターンであるのです。 先日、教わったワークの中に、他人とくらべて自分にないものは何か? 『純粋に、いろんな人と自分とを比べて見る』というものがありました。 その時も自分は、他人と比べ、 どこが劣っているかをたくさんあげてました(止まらなくなりそうなくらい、出た)。 ○○さんはみんなからよく思われているけれど、自分はそうではない。 ○○さんはこんなことができているけれど、自分はそうではない。 ○○さんはこれを持っているけれど、自分は持っていない(だからダメだ)・・・。 その人にあって、自分にはないもの、という純粋にシンプルに考えるのではなく、 その人がもっているものはいいもので、自分がもっていないのはダメだから・・・ という『いい悪い』で比べていました。 そこは違うのよ、と先生に言われましたが、 今一つちゃんと理解していなかったんだなあと、先日の出来事でまた再確認することとなったのです。 自分が他人より劣っていることがたくさんあると感じるのは、 一見、謙虚な人に見えるかもしれませんが、自信がないことの表れ?にも思います。 あるがままの自分を信じていないということ。 そのままの自分ではダメなので、どんどん自信がなくなってしまうのだ。 これがあって、あれがあって、他人とくらべて持っているものが多く、 優れていると証明されるもの、評価されているものがあって、 やっと自分を少しだけ信じられる・・・ だから、『自分は平凡である』という現実ではなく、 平凡どころかそれ以下だと思う自分(パターン)がいます。 自分はできないことだらけだ、と思うことも、 自分は非凡であって他人よりとても優れているんだ、と思うことも、 真逆であって本質...

あなたのままで

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本日、無事に福田こうへいコンサートへ行ってくることができました・・・母が。 数日前から、母の記憶が飛びに飛び、 一緒に連れていってくれるお友達(同じく80代)の方に状況を話し、 一時はもう行けないなあ、とあきらめ半分。 その後も、いろいろなことが二転三転しながら(わたしのパターンも二転三転忙しかった)、 送迎係のわたしはめでたく任務を終えることができました。 ご先祖の皆々様、本当にありがとうございます(そういう力が働いたとしか思えません!)。 思えば、福田こうへいさんがデビューしてから10年。 いつかコンサートに行きたい!という母へ、 何度かチケット購入に動いてはいましたがなかなか買えず(すごい人気なんですね)、 そうこうしているうちに、母は認知症が進んでいってしまいました。 わたしがお供するならまだしも、 お友達と二人でコンサートに行くなど無謀すぎると思っていましたが、 その方が「大丈夫よ、娘さん安心して。お母さんの手はしっかりにぎって離さないからね」 と、何とも頼もしい言葉をかけて下さったので、思い切ってお願いすることになったのです。 状況を察し、チケットも失くさないようにと預かって下さり、 普段母がどれだけこの方にお世話になっているのだろう、って思うと、 本当に感謝しかありませんでした。 コンサートは予定の終了時間より一時間さらにかかり(さすが地元スター!大サービスだったよう)、 人の波にもみくちゃにされては大変だとお友達が判断してくれて、 アンコールの前に会場を一足先に脱出したのでした。 帰りの待ち合わせ場所に二人が現れたときは、本当にほっとしました。 母はコンサートの感動以上に、わたしが迎えに来ていたことに驚き(その約束だということを忘れている)、 何度も何度も「ちょうど来てくれて、本当に良かったわ~」と言っては喜んでいました。 そのお友達の方はとてもしっかりしていて、母はそうじゃない。 この現実(違い)を見ている自分がいます。 自分の娘が小さかったとき、 娘のお友達はしっかりしていて、うちの子はそうじゃない・・・ と思ったことを思い出しました。 何とも言えないこの気持ちは、寂しさなのか悲しさなのか、 娘に対してそんなことを思うこと自体がかわいそうだ、 「あなたのままでいいんだよ」と言ってあげたい、そういう気持ちだったと思います。 それが今、子どもにではな...

今に集中

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本日の勉強会は、こじんまりとした雰囲気の中、ゆったりと時間が流れ、 ああ、今日も来て良かったなあと思いました。 本当は昨日から母親に対するパターンで落ち着かず、 今朝も語りかけをして、母親に何かあったら今日はすぐ駆けつけられるように、 心と頭と体すべてを母のために備える日にした方がいいのかな、と参加をぎりぎりまで迷っていました。 でも、備えるって何?とふと考える。 もしかしたらその備えの行動は、黒パターンのままに動くことにならないだろうかと思い、 そうであるなら、「私」が白を選択できそうにない今は、 また、黒でもんもんとしているくらいなら、 勉強会へ身を置こう・・・と考え直しました。 パターンにのみ込まれてしまったとき、 頭の中がそれでいっぱいになって、何をやっても心ここにあらず、という状態があります。 そんなとき、語りかけどころではない、 パターンを見るどころではない、 また、こんな状態で、仲間と会って学びをする気になれない・・・と思うことがあるのです。 これもまさしく、パターンが考えていることです。 ●パターンが解決されないと、何も手につかない というパターン。 黒パターンのままでいることが、どれだけよくないことか! というパターンを嫌うパターンです(ややこしいが)。 「今まではそうしてきた」というものに出くわすたびに、 今回も、今までと同じようにするの? と、思うのです。 パターンが騒いでいるときは、本当に何もしない方がいいのだろうか、 こんな精神状態のままではいけない、 ここをほっといて何かをしたってろくなことがない、というのは本当だろうか。 それこそ、自分が思い込んでいるもの、決めつけではないか?と感じるのです。 母親に落ち着いてほしい、混乱が静まってほしい、また明るいいつもの母親に戻って欲しいと願うパターン。 そのパターンを消す、無視する、ケアしない、ということではなく、 「ごめんね、必ずあなたの話は聞きに行くからね」と思いながら、そっと横に置き、 胸のざわざわを深呼吸で鎮めながら、 目の前のこと(人)に集中することだってできるのかもしれない。 今に集中しよう。 これは今までにない感覚でした。 今までは、あきらめていたことの方が多かったように思います。 集中なんかできっこない、パターンを早くなんとかしなきゃ、そこに頭も心も体も使わなきゃ・・・と。 むしろ...

その人のため

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自分のしていることを「信じる」というのは、 自分が自ら勝手にやっていることにもかかわらず、 どこか何かにそうさせられているかのような、無責任さも同時に感じます。 結果としてどんなものを受け取るのかは、自分の責任ではなくて、 自分以外のもの「信じたこと」という目には見えないものに対しての押し付けで終わるような、 そんな安易さもあるのかもしれません。 自分は間違っているのではないか?と思うとき、 勝手に信じてやってきたことが、いかに自分を正当化するためのものだったのかと思うことがあります。 その人のため・・・と思い、やっていることは、特にそうです。 何とかしてその人の望むような、 理想とするかたちを追い続け、自分ができることを精一杯していこうと頑張っていたのは、 それがその人を中心として、みんなが幸せになることなんだと信じていたからだと思いました。 でも、本当にそうだろうか・・・ 人が関係することにおいては、自分のパターンが動いていることがほとんどなのだと思います。 自分のパターンに気づかないまま突き進み、 それを「信念」と勘違いしていることが往々にしてある。 自分のパターンが相手の選択や、もしかしたら人生に大きな影響をあたえるかもしれない。 そう想像すると、パターンのケアは自分だけのものではないということがとてもわかる気がしました。 その人のためにしたい・・・と思うのならば、 それが自分のパターンではないだろうか? というところが、真っ先に感じられるようになりたいです。

若作りがしたかった

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美容室へ行って、自分の思った通りのヘアスタイルにならなかったときに、 美容師さんへ「本当はこうしたかった」というようなことは、以前は決して言えませんでした。 だから、嫌だと思ったら何も言わずに、次はもう違う美容室を選ぶ・・・ ということをしていたのです。 でも今通っている美容室は、 言った通りにしてもらうことが多く、 また、自分のボロボロの髪に対して薬剤を変え、シャンプーを変え、 とにかくいろいろ駆使しながらスタイルを作ってくれているので、本当に髪質が良くなり感謝しているのです。 美容師さんとは、ヘアスタイルにとどまらず、美しいものに対する感覚が似ているということもあって、 美容室を変えることなく10年以上お世話になっています。 ところが・・・この数か月、 なかなか自分がお願いしているヘアスタイル(髪の色)にならないことが続きました。 それでも、はじめのうちは、 ちょっと違うんだけど~、ま、これはこれでいいっか。 という感じでやり過ごせていたのです。 自分も遥か昔に美容師の卵だったこともあって、 お客様がしてほしいヘアスタイルと、 美容師から見れば、似合わないとわかってしまうスタイルというのがあり、 (髪質と頭の形、顔立ちと雰囲気などから) たぶんそういうことで、自分がしたいヘアスタイルは却下されているのだろうなあと思いつつ、 でも~言った通りにやってよね~ってもやもやが募っていったのです。 そこで、口で言ってわかってもらえないのならば、 写真を数枚見せて、これと同じカラーにしてほしい。 前回より明るい色にしてほしいんです! と少し強く主張してみました。 ところが、完成したスタイルは、前回同様希望の色とは違う・・・。 美容師さんは満足であっても、自分は全然満足していなかったのです。 どうやったら、伝わるの? わたしの話、ちゃんと聞いてる? もう腹が立つやら、愕然とするやら、 ここまで思った通りにしてくれないとなると、否定されたようで悲しくなってくる。 ●思った通りにやってほしい というパターンに語りかけをし、 〇この髪の色は好きじゃない、って言ってもいいのかもしれない をいう白パターンを選び、実行することにしました。 語りかけをしてから、ひと月経過。 だいぶパターンも落ち着きをはらってしまったということもありましたが、 髪が痛んでもいいから、もっと明るくしてほしい。...

それを言う動機

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自分がした言動で、相手のパターンが大きくなってしまった、ということがありました。 その時、ああ、言わなければよかった・・・と自分のパターンは思います。 その方にとって嫌なこと、怒りがわいてくるような出来事があり、 その時話を聞いていた人達の中では、あまりピンとくるものがなかったために、 へえ~そんなことがあったんですか、と聞いていました。 その方は何とかみんなにこの気持ちを理解してほしい、一緒に反論してほしいと、 一生懸命(怒りながら)話しています。 自分も、どこか他人事で聞いていたのですが、 しばらく経って、その人のパターンに共感する出来事がありました。 自分も、ちょっとこの人なんなの?失礼な人!という感じに思う事があったので、 あの時、このことを言いたかったんだな、と理解できるような気がしました。 そこで、その方へ、 この前の話ですが、こういうことですよね。 自分もちょっと失礼な人だな、無責任な人だなって思いましたよ~! と気づいたら一緒になって愚痴っていました。 その結果・・・ その方の少し落ち着いた?と思われるパターンは再びむくむくと浮上。 結局、自分がなぜその方にあえて自分のパターンの話(自分も頭にきたということ)を伝えたかったんだろう、って思いました。 そうですよね。 わかってもらえてなかったんだと思うし、 今まで話し合ってきたことは何だったんだと思うし。 嫌な気持ち、悲しい気持ちになりますよね。 と共にしばしの時間、その気持ちを共有したかっただけなのです(はじめは・・・)。 けれど、結果的に、 それは、「その人のパターンを理解してあげたい」が、 相手のパターンを満足させていくこと、同調していくこと、になってしまったような気がします。 そして、やはり、自分の抱いた感情に対してもわかってほしいという気持ちのもとで話していたと思います。 どうしてわざわざ、その話をしに行ったのか? 自分のパターンを満たしたい、それが動機だったのだ・・・。 この話の結末は、 さらなる対象となる方(その方が怒っている対象者)へこの話が伝わり、 怒っている、反論しているのは一人ではなく、他にもいました(←自分のこと)ということになって、 何だかものすごく大きなパターンの話になってしまいました。 相手のパターンへの共感がいつのまにか同調に変わっていないか? なぜ自分はそんな話を今ここ...