みんなパターンで話している

パワハラ問題があったときに、
パワハラを受けたと言っている人、パワハラをしたと言われた人
それを見ていた人、企業担当者、医療従事者、ご家族、
そしてそこに入る自分のパターン・・・というように、
人が関わる分だけ、ものすごい数のパターン(思い込み、信念、エゴ、思考の癖)が存在します。

いろいろなパターンが交差し、誰の言い分が正しくて、誰が間違っているのか、
自分の言っていることをまず分かってほしい、理解してほしいという空気感があります。
これは自分たちが正しくて勝ちで、これに関してはちょっと間違っていたかもしれないから負け、みたいに、
正しさの判定大会みたいになっている感じがするんです。
しかしながら、これだけの人が関わっていると、
いろんな正しさがあるんだなあって思います。

こんなとき、どの正しさが最もだとか、
またどこに頭を使っていこうかということではなくて(これもありだが)、
一つ一つのその時その時の、
自分のパターンのケアの方が、100倍大事だと痛感します。
それをやっての、頭を使う。

話し合いの場には、
落ち着いて「私、私、私・・・」と意識を保ちながら、
聴く、話す、感じる、考えるということをやっていくしかないと思いました。
自分の中の誰にしゃべらせるのか?
誰がその方法を考えているのか?
自分の中のパターンが騒ぎそうになったら、
「私」は全然そうは思っていないけどね、と「私」が「私」に言い聞かせ確認していく。

この地味な作業が、また一つ、心の軽さを教えてくれます。
パワハラ問題という形で、
それをとにかくやれ!・・・と言われているような気がしました。





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