「私」は全然そう思っていない

先日、岩手クラスのセミナーが終わってお茶をしていた時、
パターンに引っかかっている自分のすぐそばで、
「私」は全然そう思っていないけどね、と確認している自分が、ああ、確かにいるかも・・・と感じました。
パターンに引っかかっていると心は何かしらざわざわしているのですが、
距離にすればすぐ隣りに、時間にすればほぼ同時に、
「私」がここにいてパターンのその感情を見ているような感じです。
もしも、漫画で表現できたら、
慌てふためいている人の横で、しら~っと立って見ている人。
「え、それが何か?」と若干天然の感じが「私」と言ったらいいかな。

一般的には、感じたものは全て自分自身という一つの存在であって、
他にもう一つ「私」がいるの?と不思議に思うかもしれません。
何だか二重人格的なことが自分の中に起きているかのように捉える方もいるかもしれませんね。
でも、人格(パターン)がたくさん存在し、その中の一つが「私」ということではなくて、
大元である本当の「私」しかいなかったところからスタートをしています。
そこから(生まれてから)、
環境、両親、学校、社会、関わる人たちの影響や自身の体験によって『パターン』という数々の思い込みが刷り込まれ、
これが自分だとみなすようになってしまった。
人間というたくさんの感情を持つ生き物としては、
パターンはとても使いやすく、簡単に影響されやすく、洗脳されやすく、
大元である本当の「私」よりも存在感を増していったのだと思います。

けれど、
『ふと我に返る』ように、
『ふと「私」に返る』という瞬間がどんな人にも必ずあります。
「私」に返ったとき、思い出したとき、
何かすべてが軽くなるような、楽になるような開けていくような感覚が訪れ、
それ(本当の「私」)が自分だったんだとひらめくのだと思います。

感情と肉体が反応して(パターンに引っかかった)、
同時に頭がぐるぐる回転しだして(思考に走った走った~)、
完全に「私」を置き去りにして走っていったかのようではあっても、
「私」はいつもパターンと共にいて、
平気な顔をして「私」はそうは思っていないよとか、
「私」は全然違っているよとか、
「私」は大丈夫なんですけどね・・・とか言っていた。

今までずっとパターンに伴奏してきた「私」の存在って、
なんだか本当にたくましいなあと思います。
どんなにパターンが騒いでも暴走しても、ねちねちくすぶっていても、
全部共感しながら何の影響も受けず、そ・こ・に・い・る。
自分とはそういう頼もしい存在であるのですね。

今回のセミナーは、10年来の仲間ということもあって、
かなりいろいろなところをさらけ出す作業に挑戦できたように思います。
恥ずかしさを乗り越えて、苦手なものをあえてしながら、
でも殻をやぶって進んでいくってそういうことなんだと、体で体験させてもらった時間でした。
新しいことを挑戦した後は、やや放心状態。
その後に、少しづつ実感としてじわじわ教わったことが入ってくるようで、
お茶を飲みながら、仕事をしながら、ご飯を作りながら、子育てしながら、この現実の中で使っていく、
現実の中でしか使えないし学べないものなんだなとあらためて感じました。

「私」は全然そう思っていない、を次回までの宿題として、
毎日パターンが顔を出したときにすかさず使うことをやっていこう。
今回も先生、みなさん、ありがとうございました。











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