鏡にうつしだす
仕事帰り、さくらまつりで賑わうはずだった公園のそばを通りました。 夕暮れの電灯に照らされる桜は、特にさみしさも物足りなさも、感じることなく、 おまつりの時の桜と同様、何も変わらず咲いているように見えました。 人間の気持ちによって、植物は可憐に見えたり、明るく元気に見えたり、 また、さみしげに見えたり、何も感じないときもあります。 そのときの自分の心が映し出されている、ということを思います。 ものを言わぬ植物たちがそうなのですから、 感情のある人間を見て、人が自分をうつしだす鏡であることはよく分かります。 その鏡を見るって、ときにちょっと怖さを感じたりします。 見えたものがマイナスのものだったりすれば、それが自分だとは思いたくないからです。 相手の言動に強く反応した自分には、 少なからずその反応と同じものが自分の中にもある、だから感情が動くようです。 相手が誰かを責めているとき、自分も誰かを責めていた、または自分を責めているということがある。 怒りを感じている相手が気になって仕方ないとき、自分も心の奥深くに怒りを抱えていた、ということもあります。 最近、自分の口から、あーまた出たなって思うことば、 かわいそう・・・というのがありました。 これも、相手を見てかわいそうと思うから口に出るのですが、 今の自分にかわいそうだと感じるものがあって同調したくなっているのかもしれません。 そうそう、「なんてかわいそうな自分」って思っていたことが正直ありました。 この目で相手の言動を見て、自分のしていることをまざまざと見せつけられたとき、 軽いショックを覚えますが、妙に納得してしまいます。 今日見た桜は、夕暮れと共にだんだんとグレーがかり、とても静けさを感じました。 一日が終わり、ほっとするような静けさ。 ということは、自分の心はそのとき落ち着いていたのか、ほっとしたかったのか? 桜と月と空と・・・今日も一日ありがとうございました。