投稿

10月, 2024の投稿を表示しています

石田組の魅力

イメージ
昨日は一日、音楽の秋を楽しみました。 ヴァイオリニストの石田泰尚さん率いる『石田組』の結成10周年ツアー。 石田さん(組長)の弦楽合奏の音楽にかける情熱、 初めて聞くような素晴らしいヴァイオリンの音色に魅了されました。 TVでこの方を見たときは、 え?この風貌でクラシックするんだ~ってびっくりでしたが(ホントに失礼だけど) でもこういうファッション私は嫌いではないので、 実際にいつか見てみたい、聞いてみたいと思っていました。 なんと岩手に来ていただけるとは! 音楽って・・・はあ~、なんというか、こんなにも自由だったんですね。 ヴァイオリンも弾く人によって、 こんなに音に違いがあるなんて知りませんでした。 弦楽器だけとは思えないような、オーケストラのような響き。 迫力だけでなく、繊細さとか、はかなさとか、優しさも感じられました。 また、組長の場合、見ても楽しませてくれるというか、 ヴァイオリンを自由に操り、体をしのらせ、 指揮者のようでもあり、踊っている人のようでもあり。 そして、メンバーたちを時々食入るように見る、あの視線もまたいい。 全身で音楽を表現している人。 みなさんどこかの楽団に所属している一流の奏者で、 自分の役割をしっかり果たしているように感じました。 組長のヴァイオリンが美しく響くのも、あの13人の方たちがいるからこそで。 それを一番よく知っているのでしょうね、 演奏途中で一人一人の紹介を石田さんがするのですが、 それがまた、独特の語り方で組員たちへ向けた愛と尊敬の思いを感じました。 特別な才能をもった人たちは、 その人たちなりの特別な使命があるのではないかと感じました。 たくさんの人を感動させ、奮い立たせ、また優しく励ますような、クラシックを身近にしてくれる役割。 で、こういう機会を得て、 自分は本当に凡人中の凡人だと認識できます。 その凡人なりの役目もまたあるんだろうな。 素晴らしい音楽を聞けて、幸せです! Zホールって音がすごくいいらしいです

引っかかる傾向

イメージ
あれ?落ち着いていたパターンが、 また暴れそうになっているな・・・ と思うことがありました。 イライラが発動し、自分の中に緊張が走ります(心臓がばくばく)。 そういう時、他にも見ているパターンがあると(ケアの最中)、 感じていても、少し後回しになってしまうことがあります。 ああ、どっちのケアを先にしようって。 でも、こうして放っておいている間も、 パターンはそのまま何一つ変わらずそこにいるため、 いえ、むしろどんどん大きく複雑になってしまうこともあり、 今度は同じ反応どころか、 倍増して反応している自分に気づきました。 (もう、不快指数が急上昇) パターンがこちらに合図を送っているのか? ちゃんと、見てくれよ~って。 何度も以前ケアしたことがあるパターンだから、 ノートをめくりながら前に語っていた語りかけ文章を、 もう一度声に出して読んでみる。 それはそれで、最もなパターンの言い分がありましたが、 今回はまた少し違った言い分も発見しました。 どうして、そうあなたは思うの? 問いかけると・・・ 普段よく出てくるパターンにもつながっていたことがわかりました。 自分のパターンには、こういう場面があると~「引っかかる傾向がある」 という何だか法則的なものがあるなと。 自分も一緒に笑いたい、楽しくありたい、一緒に何かしたい、 つながりたい、役に立ちたい。 というところから、 仲良くやりたい、好かれたい、よく思われたい、仲間でいたい。 または、孤立したくない、自分だけ笑えないのは嫌、一緒に何かできないのは嫌、 気にかけてもらえないのは嫌、そこに自分がいないのは嫌・・・ といった集団の中での自分の存在へ、 何かしらのパターンが騒ぐことを感じました。 一人でいることが好きなのに、なんで? この矛盾した欲望(パターン)を、 これからちゃんと見ていきます。 もっと深く、どういうときにここが揺れるのか? まずは、今出てきたパターンをケアしながら、 ここから丁寧に観察していこうと思います。 わくわくがあると、心がほぐれます・・・

何をそんなにがんばっているのか?

イメージ
このところ疲れがたまって、 体調があまりよくないまま過ごしています。 よく寝込んでいた昔に比べれば、 健康に過ごせている方だと思いますが、 うっかり自分のキャパを超えたことを続けてしまうと ああ、こうなってしまったかと反省です。 葛根湯を飲みながら、 食事を控え、温かい恰好をして(今季初の湯たんぽ登場)、 家では静かに過ごしています。 がんばるという意味付けも、新たなものを付け加え、 一体、何をがんばっているのか? 少し考えたいです。 他人に任せられないと思うとき、 その後のことが自分に降りかかってくるのではないか(責任とか)、 それを避けたくてがんばってしまう。 相手を信用していないということもあるのだと思う。 他人がしたことで自分が嫌な思いをしたくないから、 だからパターンはがんばっているんだろうな。 自分がやって、後悔したり、反省したり、 ということに対しては納得というか、 自分の責任だと思えてやれる? それよりも、単に自分がやりたい!というパターンがあるんだと思う。 誰かに頼む、見守る、口を出さない等々は苦手。 自分がやった方が早い、確実、間違えがない。 ・・・なんて思うのも、 すごーい、驕り(おごり)だったんだなー 頭がストップしてやっと感じられたことでした。 体もストップしかけ、 しゃべるのをやめる、動くのをやめる、考えるのをやめる。 なんだかほっとする・・・。 見えるかな? 蜂~でかっ!

与えられたもので生きていく

イメージ
今朝、目が覚めて思ったのは、 自分が今、与えられているものの中で生きている、ということ。 なんかすご~くあたり前といえばあたり前。 まず、この家(この家で今朝目が覚めたから)。 この家を与えられているのだから、掃除をする、手入れをする、 温かで涼しい快適な環境で、健康で過ごす。 そう、この家があるのだから充分に休息もできるし、健康でいられる。 そして、家族。 夫が家のことをいろいろしてくれる。不便なくいられる。感謝。 娘は時々帰ってきては、笑いを持ってくる。 家族になった確率を思うと奇跡。 私は家族の中で、家族との喜怒哀楽の中で自分も成長させてもらっている。 そして、仕事。 会社員という与えられた仕事の中で、このメンバーで、このクライアントで、 この関わりのある企業と、その担当者たちと、 たくさんの人とやり取りをさせてもらっている。 全部、会社を通して与えられたものだ。 悩み、格闘するには充分すぎるほど、毎日いろいろなことがある。 この仕事は、本当にダイナミックで大好き。 もう一つのカウンセリングの仕事も、与えられたもの。 クライアントさんと、大事に丁寧に向き合いたいと思いやっている。 カウンセリングを通して、人の一生の奥深さを共に体感していく。 講座で出会う方も、土日で動くことができる環境も、 全部ありがたい。 こうして今あるものは(他にもいっぱいあるな)、 最初からずーっとあったものでなく、 だんだんにそうなったものもあれば、消えていった(失った)ものもある。 だからあたり前に永遠にここにあるものなど何もないのだ。 それを思うと、 なんてすごい奇跡の積み重ねで、今の幸せが与えられているのだろう! 何も欲しがらなくても、 充分すぎるほどあって、それは自分にちょうど良くて、 全部あるもの与えられたもの、それだけで生きていけるし、 それでこれからも生きていく。 全部必要なものしか与えられていなかったし、 私にないなーって思うものは、今の私に必要ないものなんだ! ・・・って感じた朝でした。 この自然豊かな環境も・・・です!

遠慮する、とは

イメージ
今日の午前中は勉強会でした。 話の中で「遠慮して・・・」という言葉が出てきて、 なんだか引っかかってしまいました。 そこで、中立ワークです(意味付けを考えてみる)。 「遠慮する」のプラスの意味付けは、 親切心がある 気遣いがある 自分は二の次でいいこと 控えめで慎ましいこと 自分のことよりも相手や周囲を大切にすること 自分のことよりも相手や周囲のためにしないこと 謙虚な行い マイナスの意味付けは、 よそよそしい(親しさがない) そうした方がいいという決めつけ 親切などあだで返す感じがある 関わるのが面倒でそうする いい人っぽく見せたい? 保身 本心が見えない そして、ただ一つの経験として、 「遠慮する」があるだけです。 今まで、遠慮とは、 いい意味で使っていたことが多かったのですが、 マイナスの捉え方も自分にはあるな~と感じました。 自分が本当は、 何か声をかければ良かったかなあと思うことがあり(声かけたい人がいた)、 それが出来なかったのは、遠慮したから?って話になりましたが、 遠慮・・・じゃないなと思った。 私のそれは、プラスの捉え方ではなく、 限りなく保身に近い遠慮でした。 その人を責めるようなことになってしまわないか? 自分の行動が相手を不快にし、自分も嫌な気持ちにならないか? と思ったから声をかけられなかったのです。 決して責めたいのではないのだけど、 責めているようにしか聞こえないような言葉しか思い浮かばず、 何て言おうかな・・・と思っているうちに、 結局、あたり障りのないことだけを言っていました。 そのまんま、 「責めているわけでも何でもないんだけどー」とか、 「何て言ったらいいのか、うまく言えないんだけどー」とか、 「ちょっと気になったんだけどー」とか、 いろいろ言えたんじゃないか? いっそのこと誤解されてもいいから、 その時感じたままに話してみても良かったのかもしれません。 そして日常的に自分は、 あまり遠慮することってない方かもしれないと思いました。 親しくない人の前では多少あったとしても(何かをゆずるとか)、 そもそも何が遠慮すべきで、何が遠慮しない方がいいのか? 何が、どうすることが、失礼にあたるのか? そういうことを見極めるのが苦手なんです。 でも、これは、見極めるというより、 自分がそこにどんな意味をつけるのか?というものだから、 何に遠...

やったことのないことをする

イメージ
普段、自分がやったことのない仕事をするとき、 その仕事をよくわかっていないがために、 これでいいのか?と考えすぎて・・・ 慣れていないことをするって、本当に緊張します。 でも、緊張しながらも、 勉強になる部分もたくさんあって、 知らないことを知るって楽しいんだなあ と、どこか客観的に自分を観察していたりします。 これは、本当の「私」と、心の中の「パターン」の分離が、 昔よりは少なからずとも習慣化しているからだと思うのですが、 ほんと、ここが身についてきて良かったって自分でも思います。 失敗して、ああどうしよう、怖い~って思うのはパターンで、 「私」は冷静にそんな自分を観察し、 ケアされたパターンは落ち着き、 怖さを持ちながらも今できることを考えて行動しようとする。 この分離感は普段私を助けてくれていることだと感じました。 やったことのないことをやるって、 今までの経験が、全然使えないっっていうことはなく、 自分の持っている何かが役に立っていることは、 知らず知らずあるのかもしれない。 例えば、失敗した後の行動(どう謝まるか?何からやるか?)もそう。 道場のクラスの方たちにしている開示とは違うかもしれないけれど、 開示というものが、自分自身の心を軽くしていくという体験を、これも少なからず実感している。 何か、もやっと心に引っかかったときこそ、 自分の心を開いて素直に話す(開示すること)。 その作業にも大分慣れてきていることを感じます。 心がざわっとしたときは、 以前よりもためらいなく相手にどういう意味だったのか?と聞いていたり。 そういうことが、そんなに苦ではなくなってきて、 少しずつ、どう思われても大丈夫というものが育ってきているからかもしれません。 自分はまだわかってないなと思うことがたくさんあるけれど、 それがわかった今、今日からまたコツコツとパターンを観察したり、ワークをしたりやっていこう。 そんな自分がまた自分自身に助けられる・・・ということがこれからもあるんだろうな。 ――――――――――――― さて、お知らせです! 明日のオガールでの【はじめて講座】空きがあります。 ★ ←詳しくはこちらをクリック ピンときた方はどうぞ~いらしてください。 はじめてのミニカウンセリングと講座の体験となります。 はじめてということで緊張するかもしれませんが・・・大丈夫です!...

感謝されるという体験

イメージ
たまたま2日続けて、 他人からすごく感謝されることがありました。 それは、心から本当にそう思っているんだなあと、 ひしひしと伝わってくるほどで、 言われたこちらとしても、しみじみとまたその話を聴いていました。 自分がしたことが、もちろん感謝されたくてやったことではなかったのに、 そこまでお礼を言われると、 びっくりしたけど嬉しさもありました。 また、ちょっとでもよい方向に向かったのならば、 それは本当に良かったなあ・・・ という、相手を思っての嬉しさも感じます。 どちらも「嬉しい気持ち」なんですが、 ここからが本題。 この体験は、 今の自分にどんなことが必要で起きたのか? ここから何を学ぶのか? 感謝されたという話は、 自分の胸の中にしまい、誰かにそれを言うことは何となくしませんでした。 普段なら、こんなことあったんだよねーって、 誰かに言いたくなるんですが、 そこには自慢したいパターンが必ずあります。 私ってすごいじゃんって。 そうやって、すぐ、 感謝されたからといって、自分が図に乗らないように、 勘違いしないように。 そのためにこの体験があったのかな?と感じました。 自慢する、他人にひけらかす。 それはもうしない。 その先も、自分のできることをただやっていくだけで、それでいいでしょ? って自分に問う。 とりあえず、そう感じたので・・・ 自慢する、他人にひけらかすのはやめようと思った。 これが今の自分が選ぶカード。 散歩途中で会ったワンちゃん かわいい!

自分のことを棚に上げて

イメージ
今朝、目が覚めると、 ちょっと寒かったというのもあったせいか身震いしました。 寒いだけじゃなく、今の自分って大丈夫か?とふと思った。 謙虚さを失ってはいないか? おごってはいないか? ってそういう夢を見たような見ないようなー でも、おごっていたんだなと思いました。 他人はいつだって、自分の鏡となって教えてくれていると感じます。 自分一人では気づかないから、他人の姿を見てパターンが教えてくれる。 自分のことを言わない、考えを言わない、 感じていないふりをしているのか、思惑があるような控えめなふるまい(ってパターンは思っている)。 いい人、わかっている人と思われたいのか? こういう時、 私のパターンは徐々に騒ぎだします。 でも、自分もそうやって誰かに対して、 不快にしたり傷つけたり、怒らせてはいないだろうか? いや、してるでしょう。 自分のパターンに対して許せていないものは、 やはり他人を見ても不愉快な感情がわくのだと思う。 よく、自分のことは棚に上げて~ って言うけど、それだー。 どうか、これからちゃんと気づいていけますように。 それこそ、謙虚におごらず進んでいけますように。 他人を見て騒ぐこのパターン(●謙虚なふりをするな)にも語りかけていきます。 哀愁の後ろ姿 

もしかしたら・・・

イメージ
最終日はお天気も良く、岩山に行きました。 ゆるやかな登り坂の先に展望台があります。 みんなが階段を上がっていく中、 自分はちょっと登れる自信がなくて、下で待つことにしました。 コンクリートの形がかっこいい展望台。 遠くには遊園地のカラフルな観覧車が見えます。 写真を撮って待っていると、 うーん、この景色じゃなくて、 やっぱり自分も展望台の上から景色を見てみたい! もしかしたら・・・私には無理だって、 もう、決めつけなくてもいいのかもしれない・・・ 昨日教わったばかりのそれを、心の中で言い(本来は語りかけをしてからなんだけどー)、 休み休みゆっくりと一歩また一歩と階段を上がり、 途中、後から来た年配の方たちにも追い越され、 でも構わずに息を吸って吐いてー、 思ったより苦しくならないで頂上まで登れたのでした。 何年ぶりか?で見た、 さっきとは違う盛岡の街が広がります。 わーい、きもちいい! ここに展望台がなかったら挑戦していなかったと思うし、 登りた~いって言う人(←師匠)がいたからこそこの体験が叶いました。 その後、新幹線の時間ギリギリで駅まで師匠を送り、 私の任務も無事終わって家に着きました。 最後の最後で、 今回の学びの「もしかしたら体験」が実践できたのは、 これで行くんだよーって何か背中を押された感じがしました。 ゆっくり少しずつなら体がもったように、 これからは、心のことと同じように、 体力作りもちょっとずつやっていこう。 一生かかって学んでいくための持ち堪えてくれる肉体も必要だし、 それをあきらめずにやるのは自分しかいない。 そう、白を選ぶのだ! 今日は近所をたくさん散歩して歩いたので、 これはもうしない、ということの1つに、 なるべく車を使わない、を入れてみようかなと思いました。 体を鍛えていこうという目標よりも、 ~をしないこと、~をやめること、の方が不思議と心が定まる感じもします。 まずは1つ、見つかったからやるぞ。 岩山パークランド

これはもうしない!

イメージ
学ぶ 仲間たちと過ごした3日間。 本当にあっという間に終わり、みんなホームグランドへ帰って行きました。 楽しかっただけに、 学びが深かっただけに、 ちょっと寂しいような、しゃべり足りないような・・・ でも、各地へバラバラになって行ったみんなへ、 また会う時までお互いに精進できたらいいなと思う。 勇気を出して実践している仲間を見て、 自分もひたすら練習したい。 もしかしたら・・・ 今、自分は・・・青春なのかー 自分自身の情熱を感じてしまいました。 そして、今年に入ってから、 学ぶことへの衝撃もいちいち感じています。 それ、はじめて知ったとか、 え、そういうことだったの?とか、 全然、違っていたじゃん!どうすんのよ自分。 というようなことが毎回起きて、本当にため息ついては、 毎回、よし、やるぞ!と決心を新たにしているような気がします。 必要だから、それが起きる。 という感じなのだな・・・ 面倒なこと、つらいことが続いても、 どこか、くるし~~~いって感じながらも、 小さな喜びや感謝の気持ちが、ポッポッと湧き上がってくるのも、 それもみな私に必要だから起きている。 それをどう生かすのか? ここを大事に感じてやっていきたいと思いました。 必ず黒だけ、白だけということはなく、 この世の2極の世界をまずは学んでいるのだということ。 2極の世界のその先はわかりませんが・・・ まだ見ぬ世界へ向かいたいから、 日常のルーティンも見直したい。 働いているから時間がないのではなく、忙しいのではなく、 家族がこうだから動けないのではなく、 体力がこうだからできないのではない。 自分の側を何も変えずには手に入ることはない。 きもちいい~~ そう思った今日から、 これはもうしない! ということは何なのか? まずは、よ~く考えよう。 先生、皆さん、ありがとうございました!

一緒にTVを見る

イメージ
夫とTVを見ているとき、 たまに自分にとって興味がない番組だと、 「あー、これつまんないな。チャンネル替えてくれ~(または、消してくれ~)」って思いながら心ここにあらずでいることがあります。 先日、夫がそれを楽しそうに見ていたので、 そうはっきりと言うのも何だかなと思っていたら、 タイムシフト機能で過去一週間分の番組が見れるんですが(これってあたり前の機能?)、 前にも似たようなシーンを見たような気がしたので、 「あ、この番組もう見たかも」と夫に言いました。 今までの展開だと、 じゃあ違う番組にしようか?と、チャンネルを変えるか、消すか。 私にリモコンを渡してくるのですがー、 ところが今回は、そういう展開にはなりませんでした。 夫「本当に見たの?」 私「うん・・・見たよ」 夫「じゃあ、次どうなるか言って!」 私「・・・・」 夫「見たんなら、次どうなるかわかるでしょ。はい、言って下さい」 私「え・・・この場面の時は見てないから~わかんないよ!」 夫「じゃあ、全部見てないじゃん」 夫の言う通り。 この番組見てないかも(別のやつと勘違いしていたかも)って思い、 「ごめん、この番組じゃなかった」と謝りました。 ウソをつくつもりはなかったけれど、 この番組を見たくない気持ちが先走ったと思いました。 でもここで疑問がー。 なぜにこんなに、見たか見ないかで問い詰められなければいけないのか? まるで、いつも自分が見たくない番組になると、 速攻で「これ、見たよ」と言って、 リモコンを奪ってきたかのようじゃないですか! 夫は私に対し、 いつも、さも全部見て知っているかのように、 そういういい加減なことを言うのはやめてほしいと。 ろくにちゃんと見てもいないのに、見た!見た!と言うなと。 そして、お互いが思っていることを言った最後に、 「だから、見てないなら一緒に見ようよ」と、夫がぼそっと言いました。 一緒に見たい・・・という気持ちを、素直に正直に言った夫。 それに比べ、いい加減なことを言って、一緒に見たくないとは言わなかった私。 素直な夫と比べ、 なんかみっともないなあ自分と思いました。 結局、一緒にはその番組は見なかったけれど、 夫は途中まで見て、もう寝る~って言ってTVを消しました。 どうなれば、お互いが素直で正直にいられて、 思いやりを感じられる時間になったのだろう。 あとから、一...

最悪な結果

イメージ
最悪の結果にならないようにと、 がんばっていたことがありました。 そうなってしまうと大変なことになると、 いろいろ調べものをし、考えに考えぬいた末、 それでも防げないかもなあ・・・と覚悟を決めた。 その覚悟の後に、 もしかしたらなんとかなるかもしれない?という事態が起き、 自分の中に、そのなんとかしたいものが変化していることに気づきました。 一度あきらめたものが、 あきらめなくてもいいのかも!って希望が見えた。 それならもっと自分の感情は騒ぎまくるのかと思いきや・・・ 一旦、違うものを選んだ自分は、 ただその違うものを選んだ(仕方ないな~と思った)だけではなく、 自分が行動する動機そのものが変わっているんだと思いました。 何だかもう成るようにしかならないというか、 最悪の事態だと思っていたけど、最悪ではないのかもしれない。 最悪になった方が、むしろいいのかもしれない。 他人がつらい立場になる、苦しんでいると、 それにかかわる自分もつらく、苦しくなってくる。 非難をあびるだろうし、誤解もされるだろうし、他にも影響が出るかもしれない。 まったく嬉しくない事態になるのですが、 かといって、それが魂的に見たらどうなんだ?と思った。 今の自分をめいっぱい使って悩み、良心にそって考え行動したのだから、 あとはもう、本当に成るようにしかならず、 今々の判断でいいとか悪いとか決めつけるのは、 意味がないんじゃないかと思いました。 そこに自分も苦しくなりたくないから、 『最悪の結果』だけは避けたいと思っていたのかもしれません。 それはやはり保身でした。 相手のことを考えていたと思っていたけれど、 それを一緒に受け止めていこうという覚悟をするまでに、 じたばたしていただけだったんだと。 魂が成長することって何だろう。 こういうところ(苦しいこと)から気づいていくことなんだろうか。 苦しい中にいると、 そこにいるからこその、小さな感謝が何度も現れます。 右往左往して生かされていることそのものが、 すごく大事な体験(魂がやりたい体験?)をさせてもらっているんじゃないかと。 また、苦しさもグレードアップしていて、 それはそれで自分がそれに向き合えるかもしれないから・・・ そういう意味で、ほんの少し温かさみたいなものも感じます。 うーん、 喜び?までの表現ではないかもしんないけど・・・ 楽しん...

独り言が出たとき~

イメージ
自分で自分に言うって、 気づくと普通にやっているなと思います。 自分を励ましたり、褒めたり、 また、一喝したり、自分を律するような言葉をかけたり。 そして私の癖として、 気づくと結構独り言を言っているな~と思うことがあります。 特にテレビを見ているときは、 本当に誰としゃべっているのかと思うほど、 え~すごい!とか、えーーーマジで?とか、だよね〜って普通に出てきます。 それくらいは可愛いもんですが、 もやもやした頭の中を声に出して、 一生懸命に整理しているときもあります。 さっき言った自分の発言がもう少しこんなふうだったらな~って、 ぶつぶつ言い直しをしてみたり、 もう一度違う言い方で言ってみたり。独り言にしては、長い。 先日、車を運転していて、 そんな感じで本当に無意識でしゃべっていることに、はたと気づきました。 これ、パターンがしゃべっているなと・・・。 心の中でパターンが、 本当に自分勝手にエゴ丸出しで、理想を掲げて、 さもそれが自分かのようにご満悦で堂々としゃべっていた(怖っ)。 優越感に浸るパターンだったのです。 褒められて、うれしい。まではいいけれど~ しゃべり始めたら止まらない・・・ パターンに対して言いました。 こらっ!もっと謙虚になれ!と。 地声で強くはっきりと「私」が言う。 パターンはそこにそのまんまでいていいものとはいえ、 野放しにして無視をしての、そのまんま~ではないのです。 ちゃんと収まるところに収めてあげる。面倒をみる。 それをやっていくのが「私」の役目であり、 「私」が語る、話すって、 ここへの誘導なんだなあと思いました。 喜ぶパターンは本当に調子にのってしまうから。 浮ついた独り言や、つぶやき、 時に演説しそうになることがある自分に、一喝できるのも自分。 また、誰が褒めなくても、褒めまくってあげられるのも自分。 自分一人で、いろいろやっているんだなあ。 今日もお疲れさま! 秋田のワンカップといえば、美酒爛漫

意識的に動く

イメージ
その時(パターンが騒いだとき)自分がどうありたいのか。 とっさの反応としては、 イラッとしたり、ムカッとしたりということはいいんだけど、 大事なのはその後の行動です。 イラッ、ムカッ、をそのまま行動で現すと、 怒った人がやりがちな、何かに誰かにあたったり責めたり攻撃したり、 また、嫌味な仕返しみたいなことをしたくなる。 そうではなくて、違う行動を取れる私はいないのか? これを日々練習しているように思います。 感情はパターンが生み出していることだから横に置いておいて、 後からでもゆっくりケアをすればいいけど、 今、リアルに目の前に起きているこの事態をどうするのか?なんだなあ。 まずは、変えられるものなのか、そうではないものなのかを考えます。 変えられないものなら一旦それをジャッジをせずに、 そうなのかあ〜と見届ける。 これが口で言うほど簡単ではないけれど、注視してみようと思うのです。 そして、自分の捉え方ひとつで変わっていくもの、 変えられるものだとわかれば(この見分け方が難しいのだが)変えていく。 ここで自分が取る行動と、心の中の本当の変化とは少しズレというか、 タイムラグがあるような気がします。 なんというか、 良心で動こうっていう、今自分ができる思いつく精一杯の行いは何だ?と考えているんだと思う。 それが反射的に取れるというより、 一瞬考えてからやっている感じがあったので、 その中には偽善のようなものもあるのかもしれないなあと。 かたちとしての行動があって、遅れて心がついていくような。 でも、それでもいいから、 感情のままには動くのはやめたい。 要するに、どうありたいか?という時、 今の自分の精神性が追いついていないとしても、 こうする私でありたいと考える自分で意識的に行動してみる。 それを意識的に選ぶ。 練習ってそういうことなのと感じました。 今日も何かしらパターンは騒ぐだろうけど、 それでお前はどうするんだ? って聞いて、 本当に気持ちよく軽く清々しくいられる自分はどれか?どの行動なのか? 感じて選べる1日にしたい。 絶対モンスターボールに入らないピカチュウ