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9月, 2024の投稿を表示しています

心のことを学びあう

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今日は岩手クラスの勉強会でした。 『勉強会』は、できてないことを勉強しあう場、練習の場、です。 まず、ここへの意識を持つことが私には大事なこと。 先月からの私の目標であった、自己開示は何とかやれて、 やってみると、怖いものでも何でもなく、 以前よりも軽さと温かさがあることを感じました。 この以前との違いも感じられて良かった! この場で言うところの開示って、 あなたのその言葉に引っかかるんだと、打ち明けることです。 でもそれはあなたのせいではなく、自分がケアを怠ってきたせい。 だから、教えてくれてありがとう・・・ 何も知らない人に言ったら、ケンカ売ってんのか? と誤解されてもおかしくないことをやっています。 もちろん、相手を否定したくて言えば、 その通りの結果を自分がもらうだけで・・・ なぜそれを相手に言うのかをちゃんと考え、 どんな気持ちで開示するのか。 ケアができる相手を信じているからこそ話せます。 そこがとても大切で、 自分のパターンに気づけたこと、本当にありがとうって思いました。 自分の成長は、 自分自身を見ない限り有り得ないわけで、 それは、グループ内での人間関係に表れてきます。 自分を見れていないうちは、他人も見れていないし、 自分へできていないことは、もちろんグループのみんなへできるわけがない。 あたり障りのない言葉ほど、 パターンがそれをやっていることが、お互いにわかってしまうのだ。 そういうことを感じながらも、 ここは職場ではないし、家庭ではないし、 月1回ほど、セミナーと勉強会で会うだけの人たち(ドライに言えば)。 でも、心のことを学びあう大切な仲間なのです。 やるのは自分(個人)だけど、 本来なら共に学ぶの仲間には何でも話せるってなりそうなものなのに、 これがこんなに難しいことになってしまい、 本当に不思議な関係。 誰々より自分の方がちゃんとやっているとか、 できるとか、 またはその逆で、 誰々より自分はやれてない、できてない、それらを知られたくないとか。 他人に引っかかる自分の心も責め、またモヤモヤしている。 それでもこの場が終われば、 喉元過ぎれば熱さを忘れるでいつもの日常へ。 パターンの対象は、なぜかいつもグループ以外の人ばかりだったように思う。 そうやって、 後回しにし続けて10数年経ってしまった。 が、しかし・・・ 今回はブスッと風穴が...

いつでも道場

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最近読んでいる「禅語」についての本。 禅語って、四字熟語のようなものもあれば、漢詩のようなものもあり、 中学生の頃にはじめて習った漢文を思い出します。 最近は大河ドラマ「光る君へ」にも出てきて、 文の意味が謎解きみたいで、今ならまた勉強してみたいなあと思ったりします。 仏教から生まれた言葉なのでしょうが、 全て(それこそ、ゼン=全=ALL)の真理を集約しているかのような表現が、 短い言葉に詰まっています。 その本の中で、 歩々是道場(ほほこれどうじょう)っていう禅語があるんですが、 意味は、 自分次第で、どこにいても、どんな状況でもこの場所で悟ることができる。 おーーー、まさにそうだな。 何でこんな大変なことばかり起きるんだと思うことがありました。 こういう時、頭がぐるぐるしてきます。 感情は見ているものの、どのパターンに語りかけようか?と、 気づくとまた思考をめいっぱい使って、解決方法を考えている自分がいます。 でも、こういう時は、いつもより増して、 自分はどうありたいか?と問いていくこともできます。 そして、今の自分がいるこの状況が、場所が、まさに道場だということ。 環境や条件や、自分が動くことで状況を変えようとしているけれど、 その中にどっぷりと浸かって今のままで、 苦しみと共にいながら、 もう、成るようになるさ!と軽い心で感じていこう。 そう思えてくる、歩々是道場です。 そして、直心是道場(じきしんこれどうじょう) っていうのもありました。 真っ直ぐな心をもってすれば、 こんなとこにいては自分はダメになる~ではなく・・・ どんな職場であろうと、家庭であろうと、自分が成長することはできるのです。 真っ直ぐな心での努力。 それをやってから、そこを脱してもいいのかもしれない。 そこを去るべきか、逃げた方がいいのか、 手放す前に、 やりきってみればその時がいつなのか分かるのかもしれません。 うお~、そうだそうだ。 禅語を読んで唸っては、力をもらっています。 南部もぐり 水の中でも道場

のんびり行こう

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今朝の盛岡の気温は8℃  急に秋になった感じがして、味噌汁がすごく美味しく感じます! 今年は車中泊の予定が全部大雨にあたり・・・ 本当に行けなくてがっかりだったんですが、 その度に、遊びに行くなー、ただただ休め~ と言われている気もしていました。 そして、私のことだから、 旅先で美味しいものを食べないわけはないので、 今回も出かけなくて良かったかな・・・と体重計に乗って思う。 春以来、ほったらかしにしていた庭の雑草を取りました。 面倒だなと思っていたけど、 やり始めると、なんだかちょっと楽しくなってきて、 以前はもっと土を触っていたなあって、 何かもっとのんびり生活したい・・・と思いました。 「頑張れば、何とかやれるんだけどねー」 忙しいときは、あとひと踏ん張りだって、何に対しても頑張ることができる自分がいる。 ちょっと頑張るってことが、いまだ身についているのかもしれません。 できないわけではない~っていうことは、 でもやはり頑張っている(無理もしている)ことには変わりない。 これ以上やれないとわかっているところで毎日を過ごすのは、とても危ういです。 そして、その危うさはいつでも変えられるって思っている自分。 いつでも変われるという気持ちがあるのは、今はまだ変わっていないってこと。 ここに気づいていなかった・・・  時間の使い方を考え、母への優先順位を考え、 仕事の仕方を見直し、どこをどう手を抜こうか? あれもこれもしたいという自分の欲(パターン)があり、 そう、欲張りすぎた結果、止まれなくなっていた自分がいたなあと思う。 そこから少し脱して、 頑張らなくても送れる生活に近づいてきたつもりだったけど・・・ まだまだだった。 土を触ってうっそうとした庭が少しさっぱりしたら、 すごくほっとするような、懐かしいような、 何か、ここに居たい~って思うようないい感覚を感じたのです。 あ、これだこれ。 夢中になっているので、腰が~足が~で疲れ果て、 その後の予定を変更してお昼寝。 ああ、こういう生活を、もっとしたかったんだな、わたし。 同じ頑張るにも、こういう頑張り方、疲れ方が心地よいのです。 自分がいいなと思える生活のリズムは、 頭で考えるより、体の方がわかっていました。 パターンの理想について、体はそのパターンに共感しないんですね。 ついていこうとはしない(私の体、偉いよ)...

どんなふうに納得したいのか

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「納得する」について中立ワークをしてみます。 プラスの捉え方は、 理解する、腑に落ちる、迷いがない、自分事になる、前へ進める、肯定感 (自分にとっての)正しさを実感する、着地点、解決する、心が落ち着く マイナスの捉え方は、 妥協する、あきらめる、そこで終わりにする、決めつける、良かったことにする それ以外を受け入れない、(もっと考えられるかもしれないのに)考えるのをやめる そして、中立的なところではそれ自体には意味はなく(いい悪いはなく)、 ただ一つの体験です。 マイナスな意味付けなど無いかと思ったら、 意外とありました・・・ 納得できればすんなり先に進めるし、 これで良かったんだと終わりにもできるのだ。 先に進むにも、終わるにも、 ここさえ通過していれば、 自分はどっちに行っても大丈夫だという自信が持てる。 でも、その自信って、 自分が正しい道を進んでいるのかどうか、 道から外れていないかどうかと、 本当は不安があるから確認したいだけなのかもしれません。 納得いかないことがあると、 そこが知りたくなって躍起となってしまう。 自分の正しさを、自分が認めないと気が済まない頑固さ。 また、 それで良かったんだ。 って思いたい気持ちがどこかにあるのかもしれない。 後悔や悔しい思いもしたくない。 良かったことにしたい。 そう、自分はちゃんとやってきたと。 そう思えないことには、気持ちが落ち着かないのです。 少しでも早く安心したいのですパターンは・・・ だから納得することにこだわる自分がいた。 よく言われる、 「自分が納得していればそれでいい」って言うのは、 早く安心したい、落ち着きたいというせかせかしたものはなく、 もっとゆとりがあって、 どっしりと大らかな感じがあるはずです。 表面的には残念な出来事だったとしても、 自分の中でちゃんと誠実さがあり、精一杯のものであったのなら、 それで充分だと、自分自身が思えるもの。 自分の力をちゃんと認めていることにもなります。 そういうものの先にあるものは、 今度は、自分が納得いかなかったとしても、 自分以外のみんなが幸せになり、良かったと思えることならば、 自分事よりもうれしく大切なものだったりする。 そういう納得をしたいのかも。 三陸の旨さになっとく~

自分を納得させたい

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以前からうすうす感じてはいたんですがー 自分を納得させたい。 というのがいつも私の中にあるような気がします。 ちゃんと誠実にやっているのか?と、 そこに妥協したくない、ウソをつきたくないって思ってしまうのだ。 一見それは、 それこそ誠実な人ね、っていい印象を持つのかもしれませんが、 やはり度を越せばただの、自分の思い通りにしたいだけの人ではないだろうか? なぜ納得したいのか。 そこに他人は出て来ません。 自分で腑に落ちてすっきりしたいし、 そこに疑問を寄せてもやもやしたくない。 ちゃんと収まるところに収まりたいし、 それが自分らしさでもあると思っている。 すっきりとのびのびとした自分がいいと思っているのだ。 誰かに何かを言われても、 堂々としていられる自分でいたい・・・? ・・・ということは、 まだそうなっていない自分がいるからそこにこだわるんですね。 一つ一つ面倒なものや複雑なことであればあるほど、 丁寧にやっていきたいし、納得してやっていこうと、 だんだんそうなってきている自分を観察してみます。 誠実という感覚も、今の私が思う感覚であり、 もしかしたらその中身は毎日違って、いろいろ自分の中で腑に落としているものもあるかもしれません。 誰にも知られずとも、 自分に納得してやりたいのだと思う。 その難しさがおもしろさでもある。 これでやっていこう!というとき、 腹をくくるような感覚もあります。 頑固にそれを成し遂げるというよりは、 頭を柔らかく、そしてお腹に力を入れて、妥協も受け入れる。 変えられないものはそのままに。 自分が納得したいと思うとき、 この柔らかさが私には大事かも! くつろぎの場 シトロンさん

●パターンを知ってもらいたい

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私がはじめてカウンセリングの体験をしたとき、 もちろんパターンというものも何も知らなかったけれど、 そんなの全く関係なく(何の問題もなく・・・)、 カウンセラーである私の師匠は、 私のお話を聴いてくれました(そりゃそうだ)。 この胸のもやもやを何とかしたいと、 どうにかしたいんだよーーーって、 楽になるすべを教えてもらいたいんだよーーーって、 自分でも何を言っているのか分からないくらい、 ベラベラと話していたように思います。 途中から、心のカラクリっていうものを知り、 やっとのこと自分に向き合うようになるまで、 結構な時間があったように思います。 でも、そんな遠い過去の自分のことはすっかり忘れ・・・ パターンの話があたり前になって、 伝えることが楽しくなっている自分がいたんです。 そう、パターンの話ってすごくおもしろい。 なぜならば、それがあると自分のことがわかってくるし、 苦しかった日常が変わってくる・・・から。 そして、クライアントさんにも、 そうあってほしいと望んでいる自分がいました。 でもここはとても微妙なところで・・・ ●パターンを知ってもらいたい というパターンを持ちながら、 話を聴いていたんじゃないか?って思った。 そこを知ったら楽になる。 という、ある意味自分の体験の押しつけです。 逆を言うと、知らないままでいることが、 何だかいけないことのように、 知ってもらいたいと思う微妙な心。 相手のパイプに入り込もうとしていた自分がいた。 自分と向き合うということは、 何度も何度も勘違いをしたり、忘れたり、 急に面倒になったり、あきらめたり、また希望を持ったり・・・ そうやって一筋縄ではいかないようになっていって、 向き合えているのかな?程度のことかもしれません。 だから、自分のペースは誰にもあてはまらないし、 パターンの話なんて不要だということもあるのだ(むしろ、こっちが多いか?)。 自分のカウンセリングは自分の哲学のもと、 自分を知るたびに少しづつ変化していると思う。 そして、その時どんな生き方の哲学を持っていても、 それは自分だけのものである。 他人にも役に立つとは限らないのだ。 私は自分のケアをしていけばいい。 自分のパターンだけを見ていけたらそれでいい。 今の段階の私が、それを知ることができて良かったです。 クラフトコーラ うまっ!

力をくれるもの

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今日は、目的地まで1時間ほどのドライブをして、 いろいろ発見がありました。 まずはこの自然の美しさ! 久しぶりの快晴で、木々の緑も青空に映えます。 風に吹かれてゆさゆさと、大きく木が揺らぐ様子が、 あ~いいなあって嬉しくなりました。 あと1か月もすれば紅葉も始まりますから、 この濃い緑色の葉っぱはもう少しで見納めです。 その後、信号待ちの横断歩道では、 一歩歩くのがやっと・・・といった感じの、 足が悪そうな年配の男性が前傾姿勢で歩いていました。 手にはコンビニの袋を持っていますが、 もう何回も使い古した感じで、もはやその方の手提げですね。 一生懸命歩いて一体どこに行くのか・・・転びませんように。 次に目に留まったのは、 久しぶりに顔を出した岩手山。 岩手山といえば、 つい最近まで雪が乗っかっていたような気がしていたんだけどー 雲がちょっとかかっていましたが、今日やっと顔を見せてくれました。 そして、国道から横道に入っていくと、 一面にぱ~っと、黄金色の田んぼが広がります。 今年も豊作だといいなあ。 シラサギもこっちを見ています。 といった感じに、 いろんなことに私の目は止まり・・・ これって何か意味はあるだろうか?と考えました。 自然って、いつもそこにあるけれど、 どうしたわけか、今日はすごく目に入ってくる、美しさが際立っている、 そして何だかその中にいると嬉しい!って感じるときがあるような気がします。 自分の内側からわきあがる幸せです。 これは明らかに、 自然から生きる力を分けてもらっているんだなあと思う。 誰にも何も文句言うことなく、 ただそこにある、木々に、山に、田んぼに、シラサギ。 ただそこで四季を繰り返し、それなりに「生」を全うしていく。 これだけで何かとてもすごいことだと思う。 となると、あの男性は? やはり、その方もそれなりに生活しているのではないかと思います。 それなり・・・って、自然界がやっている営みのようにです。 人の何倍もかかって歩いていたその男性は、 「歩く」という「生」をただ全うしているのかもしれません。 そういう光景に自分は注目したくなります。 がんばって歩いているから? 足が悪いから? 身なりが何だか大変そうな生活を連想させるから? 同情しているわけではなく、 それが自然な姿であるように映ったからかもしれません。 目に入ってきたものに意...

TAKARAZUKA 盛岡公演

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生まれて初めて、宝塚を観ました。 噂には聞いてましたが・・・もう~~すごかった!!! としか言いようのないほど、すごく良かったです! レビューと言われる歌と踊りのショーでは、 あのフワフワのドでかい白い羽が登場。 宝塚といえば、コレでしょ!(←素人にはこのイメージ) 背中に羽が生えるって人としては憧れてしまいます(って言い方も変だけど)。 何だかこの世ではないような? いつの時代?どこの国? ステキな不思議な世界でした。 はじめは男役のトップスターの登場に、 あ、男じゃなくて女の人なんだよな?? っていう錯覚と混乱と、違和感ありありだったんですが、 だんだん目がなれだし・・・ 素敵な声に惹かれ、歌の上手さに惹かれ、華麗な身のこなしに惹かれ。 女役もいいんですが、私は男役に興味津々でした。 なぜに、あんなに男らしく見えるんだろう。 ドキッとしてしまうくらい、もう男にしか見えない。 でも、男性を演じる中にも、ちらっと女性を感じる部分もあって、 そこがまた人間の魅力を引き立てるんですね。 それで思ったのは、 性別だけでなく、何事にも完全にどちらかだけということはないなあと。 絶対、完璧にこっち! って思っても、それは完全ではなく。 自分の無意識化に相反するものが、どこかに潜んでいるように思いました。 だとすると、何かに完全に偏るということはないのかもしれません。 もうダメだ・・・終わった・・・ と思うようなことがあっても、 完全にダメではないし、終わってもいない。 良く向かうための可能性は、どちらの選択にもあるということ。 宝塚で歌って踊っているジェンヌたちも、 「好き」「楽しい」だけでは毎日の練習をやっていけないのだと思います。 その中に「もうイヤだ、やりたくない」と、 「こんなの大嫌いだ、最悪だ」もありながら~ 救われることがあって嬉しいこともあって、そして舞台で輝ける。 この世のものとは思えないようなキラキラの世界でしたが、 それも、そういう世界があるんだなと思うことで、 現実世界でがんばるのもいいと思える。 自分には到底マネできないものを見て、 でも、自分にもそういうものがあると感じました。 もう一度、観たいなあ。 月組 『琥珀色の雨にぬれて』

会社を辞めるということ

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突然のお別れというものはあるもので、 仕事でとてもお世話になった方が、 ある日突然会社を辞めてしまったということがありました。 辞めた理由も、今どうしているのかも何もわかりませんが、 それはとても残念だし、 何が残念かって、これまでのお礼が言えないということにです。 いなくなってみて、 いえ、会えなくなってしまう前からずっと、 どんなに自分はその方に助けられていたのかと思うのです。 問題に向かうさなかであっても、その過程そのものが何だか楽しかった。 その個性には、自分にはない見習いたいものがたくさんありました。 ただ一緒に仕事をしたという関係ではなく、 私の中ではそれ以上に通じるもの、受け取るものがあり、 時間があればいつか、 もっと仕事以外のいろんな話をしたかったな。 そういう突然のお別れはこれまでだって何度もあります。 その度に、思い起すのは、 最後に会ったときの何とも言えない、 この線を超えてはいけないような壁です。 表面の明るさとは裏腹に、 立場上、誰にも言えないことがあったのではないかと、 本当は随分前からその重たさを察知していたということです。 自分が何とかしてあげたかった? そういうことではなく・・・ それぞれに、誰にでもある、 天と自分をつなぐパイプが一人ひとりに必ずある。 そのことを想像すると、 何も心配はいらないし、きっと自分が何かすることでもないし、 天はその人のことを守り導き、 その人にしかわからない課題やテーマと出会いながら、 その人自身が、自分の意志で選択した道を歩くようにできているんだと思うのです。 それでもやっぱりー、 ほんの少しでも自分が持っている愛を、 その人に注ぐことをしたって良かったんじゃないかって・・・ それでどうにかしたいということではなく、 ただ、そうすることも、もっとできたのにということ。 今思うと、その見えない壁を感じられたから、 自分がずかずかと他人のパイプに入っていかなくて良かったとも思う。 だからもう今は、 心の中で感謝の気落ちをたくさん伝えたいと思いました。 会社を辞めるって、すごい決心だと思う。 収入がなくなる、日常が変わる、(ある期間は)やることがなくなる?、人が離れる、 いい意味ではない孤独にもなるかもしれません。 だけど、その手放したところに、新しい何かが入ってくる。 それがどんなことだったのか(すぐ...

丸裸になる

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落ち込んだとき、腹を立てたとき、 そういう自分自身がイヤだーーー! っていう時があります。 そういう相手とか何かとかではなく、 自分がもう~ゆるせない・・・っていう時です。 ゆるせないのだから、それはとても苦しいです。 感じることは自由だし、反射的だし、 人としての本能?生理的な現象だったりもします。 なのに、その感情がイヤ、ゆるせないってどういうわけか思うのです。 感情にも理想があって(これ、パターンだけど)、 落ち込まないで凛としていたいとか、 腹を立てないでどっしり構えていたいとか、 不安にならないで平常心でいたいとか、 こういう気持ちでいたいなあと、 その方がなんか人としていいじゃん・・・って思う感情です。 でも、感情は、今の自分の「表れ」でしかありません。 自分が表現されているだけです。 だから、人としていいとか、かっこいいとか、 そういうことは捨てて、自分がどんな気持ちになるかくらいは、 せめてゆるしてあげたい・・・ どんな反応をしても、 どんな気持ちになったっていいじゃないか。 その感情を正直に感じるところから、 唯一、自分を知ることができます。 自分を知るために、その時の感情を見る。 そこにウソをつかずに実感すること。 その先にまさかの、自分の本質が見えてくるのだ。 本質って、自分が「丸裸」になったものです。 隠しているようで隠せないもの。 感情むき出しになるのがなんかかっこ悪いと思ってしまうのは、 丸裸を見られたような気分になるからかもしれません。 でも、人間はみんな裸ですから、 その姿で勝負したいです(勝ち負けじゃないけどね)。 つまり自分の正直な素直な感情をもちながら、 どうありたいか? そこに、丸裸の自分でやっていきたいのだ。 青山町 覆馬場

〖はじめて講座〗秋

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〖はじめて講座〗は年内は11月で終了となります。 9~11月は全て紫波町オガールでの開催となりますので、 どうぞお近くの方、また、最近もやもやする~~っていう方は、 ぜひそのもやもや吐き出しに来てください! ★  ←ご予約状況はこちらから ――――― さて、今の季節って子供の頃と比べると、 何だかはっきりしない季節感になっていませんか? 季節の変わり目もあやふやで、 体も何をどう変化させたら?と順応させていくのに結構頑張らせてしまっているように思います。 年齢と体重増加と共に、年々寒さに強くなっている私。 暑い日の冷房にも強くなっている気がする・・・ エアコンの人工的な涼しさが苦手でしたが、今ではそれ無しでは生きられません。 昔は信じられないくらい寒がりでした。 夏の暑さは余裕〜って言うくらい夏でも体の芯が冷えていたんだと思います。 汗もかかず、いつも涼しい顔をしているとよく言われー 冷え取り靴下を重ね履きし、頭寒足熱の状態を昼夜問わずつくり、 体を温め続けた数年間もありました。 おかげさまで今は、 人並みに汗をかき、暑がり、水分も摂って代謝も上がり元気になったなあと思う。 思えば、食事での体質改善、 冷え取りでの体質改善、 次は、体を動かすことで今までにない健やかさを目指すのではないかと、 想像しています。 って言うか、それはまだやれていないことの1つでもあり(普段恐ろしく運動してない)、 この年齢だからこその新たな挑戦になりそうです。 やはり肉体を持って生まれてきたのですから、 寿命の時までなるべく体が動くようにしたい。 皆様もどうぞ体をいたわり、自分にあったメンテナンス見つけてくださいね。 私は、体の陰陽(バランス)を整えていこうと思います! ということで、週末はヘルシーな家飲み♪

たくましさ

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パターンへの【語りかけ】というワークがあります。 はじめてその語りかけの文章を作って、 それを声に出してみたとき、 恥ずかしいくらい棒読みでした。 いったい誰が誰に語っているんだろ? そんな、何だかよくわからないままやっていた私。 それが、ある日突然、 あれ?なんだこれは・・・ って、語りながら胸がじんわりと熱くなった。 なんか、今、 やっと苦しかった自分をわかってあげられた・・・ これまで感じたことのないような、 ほっとする感覚。 目の前の世界が広がっていくようでした。 自分で自分を変えられるのかもしれない? はじめてそう思った体験を、 もう一度味わいたいとやってきたことが、 今に至っています(見事にこの繰り返しだけ)。 ネガティブな自分が以前は本当に嫌でした。 自分を責め、消えてくれーと心で叫んでいた。 そのネガティブな自分と今は一緒に居ながら、 違う世界を見ている。 そんな自分ってすごいな・・・ ってふと思う。 (自分がー、じゃなく、ワークがすごいだけなんだけど) あの頃よりずっと頼もしく、 優しく、たくましくなっているのかも。 それがしみじみなんか良かったな、って思うこの頃。 夕焼け〜

気になるとき

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なんとなく気になる・・・という時があります。 一度は消えかかるけど、 あ、まただ・・・と最度頭に浮かぶ時、 それをちゃんと考えた方がいいんだなと思うことにしています。 頭の中はいつも何かしら考えるようになっていて、 それは自分が困る心配事から他人や家族が困る心配事まで、 すべてが、自分の思い通りにいかなかったらどうしようって、 想定外のことを不安に思う、恐れがそうさせているのだと思う。 そうなったら、対処できないとか、 自分がイヤな思いをすることを避けたいとか、 そこに抵抗しているのだ。 そんなとき、ついやってしまうのが、 その、気になることへの対策です。 自分の思う通りにいくためにはどうしていったらいいのか、自動的に考え始めます。 でも、その対策は、どういう気持ちでやるのか? その時に自分の状態を見るようにしています。 こういうときこそ、 自分をよく見た方がいいときなんだと。 自分がイヤな思いをしたくないためなのか? それとも、誰かが困らない(大変な目にあわない)ようになのか? 何のために誰のためにそれをするのか?ということに注目したいです。 その中に自分を守るためのものも時にあっていいし、 今は、自分を大事にしていこうということもあっていい。 ただ気になることの中には、 パターンで考えることも多いので、それで行動してしまうと、 表面上は収まっている感じはするけれど~ 本質的にはなんだかな~という結果になりがち。 あまり考えることをせず、 何かに集中しているときや、くつろいでただいるときに、 はたと気になりだすものには、 これは高確率で動いて良かった~というものが多い気がします。 それ自体、もう考える間もなく動いてて・・・というものは、 結果的に心配無用だった~ということもあるけど、 それでも一つの確認作業のように動けたことが、 さらに良い方向へ向かう気がします。 ちょっと話は逸れますが、 このところ試されているのが、スーパーでの買い物。 パッと目につくものを、 高いからやめよう~って値段で考えたり、 今日じゃなくてもいいか~って(やっぱり値段で)考えたり、 それを何度かやっているうちに、 やっぱり買った方が良かった・・・ ということが多いことに気づいたのです。 その食材に合うものが冷蔵庫にあって、あれがあれば一品作れたなとか、 お風呂あがり、その飲み物が無性に飲...