自分にとっての問題

昨日の日記に、苦しい時にどんな言葉を自分にかけるのか?
ということが大事だと書いたのだが、
その言葉がなかなか出てこなくて、
時間だけが過ぎていくということもあります。

その間、何が起きているのかというと、
頭の中がぐるぐると混乱しはじめ、
ネットサーフィンをするかのように、次々と考えていることが変わっていき、
パターンの考える言葉で頭がいっぱいになっているんだと思います。

考えるだけ考えて(←この場合の思考はほぼパターン)、
ま、いいか~でもやっとしたまま終わる。

以前は本当にそんなことが多かった。

ま、いいか〜の割には、全然よくなくて。
苦しいこともたくさんあるし、しかも続くし、
面倒くさい、無視、スルーでは済まされないようになってきていたんだと思う。

済まされないというのは、自分自身に対して、
そういう面倒くさいということで何もしないってことに、
何だかそっちの方が不自然だと感じてしまいます。

考えるのは無駄?
そもそも考えるのではなく、
感じることが先だったんだ・・・と気づかされた。

自己探求、自己理解というところは、
私が~、私が~って思う自分には合っているのだと思う。
自己ちゅうで、
自分が大事にされなきゃイヤで、
自分の思う通りにならないことにイライラし、
すぐ感情に振り回される私には、
この『自分を感じる学び』が合っていた。

だから本当は誰しもみな、何の心配もなくて・・・
自分に合った方法で人生を切り開いていけるように、
そうなっているのだと思う。

そのいろいろな方法は、
それによっていかに自分の中の、陰と陽(黒パターンと白パターン)のバランスを取っていくのか?
いかに、それをする「私」の存在を育てていくのか?
自分は結局どうありたいのか?
言葉は違えど、そういうことなのではないかと思う。

「自分なんて・・・」と言うときの自分は、
本来の、本当の「私」ではないのに、
そんなネガティブなことを思い、口にして行動する自分が、
それが本当の自分だと、
パターンを本当の「私」だと思っている。
ここに、そもそもの問題があるんだと感じます。

うーん、問題?
ではないのかもー。
自己探求をしたい、自分を理解したい、自分を信じたい・・・
あくまで、そう思う人(←自分ね)にとっての問題なんだなあと思いました。


今年のとうもろこしって甘い!




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