教訓をどう使うか

梅雨明けした盛岡。暑いですねーっ
昨夜は、さんさ祭りを見に行ってきました。
最後に見たのはもう何年前でしょうか?
いや、何年どころではなく経っている?

私は人混みが苦手なために、
さんさ踊りは大好きだけど、見には行けない・・・
と思ってきました。
でも、連日TVで見ていたら、
なんだか楽しくなってきて行ってみたくなりました。

でもなー、
絶対すごい人だよなー
具合悪くなって歩けなくなったらどうしよー・・・

そんなとき、夫から、
「ま、近くまで行ってみっか?」
なんとも軽~い一言で背中を押されたのでした。

思っていたよりも、一本裏道は人がいなくて歩ける。
そっか、メイン通りじゃない限り大丈夫なんだ・・・
桜山神社界隈はさすがにすごい人だったけど、
周囲のペースに合わせず、自分のペースで歩く。

そして、いよいよメイン通りでは、
もう~~見たことのない人の波が!
全然見えない・・・
でも、見たい・・・見たーーーい。
と思ったら、偶然人がいなくなったところにすーっと入って、
なんと一番前で踊りを見れました(ついてる~)。

という感じで、
無事に生でさんさを見れました。
迫力があって、美しくて、笛や太鼓や鐘の音で心が踊り、
本当に良かったです。
具合も悪くならず、目も回らず、
私の軟弱な足も肺も、体も最後までついてきてくれました。
決死の覚悟とはほど遠い、
楽しい夜を過ごすことができました。

それで思ったのはー

自分にとってすごく大変だと思っていることも、
その時にそう感じる自分が過去にはいただけで、
今の自分はその時の自分とは違うんだということ。
同じように感じるとは限らないんだなと思いました。

あたり前と言えばそうなんですが~
そうやって、
思いこみでやれなくなっていることって多いんじゃないかと。

特に具合が悪くなったとか、
強烈な苦しいつらい体験などがあったとき、
その自分を自分で刻み、その後の教訓として生きる。
ということをしている気がします。

教訓は、同じ過ちを繰り返さないように、
過去の経験から学ぶということですが、
その学んだところで「止まる」ということではないんだなあと思いました。
そこで完結ではないし、それが全ての答えではない。
そこから学んだことをどう次に生かすのか?
というところなんですね。

自分の経験によって得たことを、
さらにその経験をした時とは違う視点でやってみたり、
やり方を変えてみたり、
それをする動機にも左右されると思います。

楽しそうだから見たい!
そういうわくわく感の後に、パターンが顔を出し(これは毎度のこと)、
それでも、近くまででも行って雰囲気を楽しめればいいかと、
パターンに従わず・・・
その今の自分の結果として、
「人混み=具合悪くなる」はなかった。

いろんなところに、
あたり前に自分の決めつけで、
過去の自分のままで行動していることってあるかもしれません。
ちゃんと、「私」は今の自分を知っているんだなあと思います。



踊っている中に知人を見つけると、テンション上がります












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