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8月, 2024の投稿を表示しています

サンリオ展

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今日は県立美術館でサンリオ展を見てきました。 実はそんなに期待をしていなかったのですが、 入口から歴代のサンリオキャラクターたちがお出迎えで~ な、な、な、懐かしい。 可愛い~い! うわあ、この文房具使ってたあ・・・これも、それも・・・ 小学生の頃の自分にタイムスリップです。 そこで、思い出したことがありました。 学校からの帰り道に、 すごく狭~い店で(子供の自分が狭く感じたほど小さな店)、 ファンシーショップができたのです。 当時は、「ふぁんしーしょっぷ?」 そう言うんだ・・・と、 そこには、 サンリオグッズが所狭しと置いてある夢のようなお店でした。 そして、そのお店には、 ふぁんしーとは似つかわしくないおじさんが店番をしていました。 でも、そのおじさん(といっても、今思えば30代?)、 プレゼントを包むのがとっても上手だったんです! 当時は、自分のものよりも、 友達の誕生日プレゼントを買っていた記憶があります。 悩んで悩んで決めたプレゼント。 それをおじさんは箱に入れて、 きれいな色のキラキラな紙で包装してくれました。 包装紙をちょうどいい大きさに果物ナイフで切り(そのナイフ使いもかっこよかった) 箱に合わせて、角はきっちりとよれないように折り、 きれいに包む。 最後の、 セロテープで止めるところには可愛いシールを上から貼ってくれました。 そんな職人技並みの、 包む様子を見るのが大好きでした。 なんでこんなにきれいに包めるんだろう・・・ お店に置いているものは全部素敵なものばかり。 それを包んだものは、もっと素敵で胸が高鳴ります。 将来私は、このおじさんのようになりたい! と思っていたことを思い出しました。 (将来の夢は、お店でプレゼントを包む人・・・) 今は可愛いの内容も変わり、 サンリオグッズも買うことがなくなりましたが、 見れば小学生の自分に戻るんですね。 あの頃の自分に聞けば必ずや、 これが欲しいな~でも、お小遣いが・・・(限られたお金で買うしかない) と言ってどれがいいか、 真剣に頭を悩ますのでしょうね。 誰かにプレゼントを買う時ってわくわくします。 こういう気持ちって、 ずーっと子供の頃から変わっていません。 〇〇ちゃんが、うれしい気持ちになりますように。 この箱を開けて、 ちょっとだけでもそう感じたのなら、 私もうれしいし、幸せ。 そういう気持ちの...

自分を好きになるには

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この世が陰と陽の2極の世界で成り立っているとき、 本当に悪い心しか持っていない、そういう人はいないということになる。 今まで悪い人、大嫌いだと思ってきた人は、 その人の良いところなんて到底探せなかったし、見えなかった。 ましてや、自分にとっての良いことなんて、 いなければ良いことはたくさんあるけど、居ては本当に困る存在だった。 なんでキライに思うのか? キライだと思う人に対しての自分の特徴として、 その人のことをよくわかっていない、ということが一つにあると思う。 知ろうとしない、っていう自分の癖があったように思う(見たくないしー)。 理解していない分、いいところは見えないのです。 いいところ、というとちょっと意味が違うのだが、 自分が今まで見ていたものとは違う側面です。 反対を言うと、キライだと思っているうちは、 全くその人のことをわかっていない・・・ ということにもなるのかもしれません。 なぜ、その人はそういうことをするのか? と嫌いな人には、常に疑問がわくのですが、 その疑問があるということが、まだその人を分かっていない、心の中が見えていない、 ということを知ったほうがいい。 (自分じゃないから、わからないのはあたりまえなんだけどー) でも、 自分に置き換えるとどうか? 自分を知るために、 他人や環境や条件などではなく、 自分の心の中だけを、それだけを見ていると、 少なからず自分の気持ちがわかってきます。 なぜ、そういうことをするのか?奥の奥の深い理由がわかったりします。 自分への本当の理解が進むと、 ネガティブなことの中に小さな子どものような自分も見えるし、 葛藤しながらも、ただ幸せになりたくて安心したくてそうして耐えてきた自分もいる。 そんな自分は苦しかっただろうし、また健気でもあったと思う。 という感じで、自分ってなんだか悪くはないなあって、 ちょっと好きにもなっていくのかもしれません。 その理解の内容が、 ネガティブさであってもそこに善悪では決められないものがあるんだと何となくわかりはじめ、 嫌いという強い感情がしっくりこなくなるのだ。 この現象はむしろとても自然なような気がします。 そうやって、自分のことがだんだん好きになっていくと、 次は他人に関心が向いてくるように思う(これも自然現象)。 友人、知人、すれ違う人、そして家族、親族(先祖も含め~)に対...

勉強会のテーマ

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先日のクラスの勉強会は、 普段やっているワークを再点検するような内容となりました。 あ~、そこそこ、そこが難しいんだよね・・・っていう感じで、 みな、それぞれの黒パターンについて語り、 白黒ワークの内容全部を発表し合いました。 すごーーーい!勉強になるう~ (提案してくれたHさんありがとう~) 白パターンに何をもってくるのか? また、白の部屋に入ったときに、 どんなことを白パターンは言っているのか? 心を軽くし、希望の光が差しこみ、視界が開けて、そっちへ行きたくなる。 そんな言葉を連ねて、白の言いたいことを代弁していく。 そんな試行錯誤そのものが、ワークのおもしろさです。 勉強になるなあ~という一方で、 白の名前を作るときに、納得する白を作りたいというのが、 自分には強くあるように思いました。 他人が選んだ白についても、 少しでも違和感(自分にとっての違和感)があると、あれこれ考えてしまい・・・ なんだかダメ出ししているかのようになってしまいました。 それは、白とはこうあるべき、 こういう白じゃないとダメという、 自分のパターンが混じっていたのかもしれません。 勉強会では毎回、 私の(クラスの?)課題、『開示をする』があります。 今回はまたしてもパッと手を挙げることができませんでした。 帰り途中で、 はあ~、あれってやっぱり引っかかっていたよな。 「え?」で、固まって終わってしまったのはなぜ? と、ひとり反省会。 本当に小さな「え?」だったけれど、 語ればパターンはやはり落ち着くので、 やはり平気な振りをしないよう、次こそはちゃんとみんなへ話そう。 次回はどんな勉強会のテーマであろうと、 そこはもう何一つ私には関係ないのだ! まだできていない開示こそ、自分のテーマに置いてのぞむぞー やる前から鼻息荒い・・・ はまっています~甘くない甘酒プリン

来月からの〖はじめて講座〗は~

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昨日は〖はじめて講座〗にご参加いただき、 ありがとうございました。 いつも思うのは、 どこの誰だかわからない私がやっていることに、 ( ★ ←私のプロフィール) 何となく行ってみようかなと、 足を運んで下さる方がいることに本当に感謝の気持ちでいっぱいになります。 かつて、自分が師匠のセミナーを何となく受け、 何となくいいかも・・・って思ったように。 人間って「何となく」というものに自分にしかわからないものを信じる力があるのかもしれません。 それが良いのかどうかはわかりませんが、 あ、なんか良かったかも(ここでもまだ曖昧) って思えるような時間になったらいいなと思いやっています。 さて、 今年の1月からスタートした講座ですが、 自分自身クライアントさんへ一生懸命になれる時間であり、 またクライアントさんから私が、 その時の自分にとても必要なことを学ぶ時間となっています。 だんだん緊張感にも慣れてきて、 今日はどんな方に会えるのだろうって、 その日が来るのを楽しみにしている自分がいます。 しかしながら・・・ 普段会社員勤めをしている私は、 今年に入り、本来の休みにしっかり休むことが少なくなり、 少しずつ心も体も余裕がなくなっています。 これでは、自分のケアがおろそかになってしまうし(本末転倒)、 全身全霊でのカウンセリングもできなくなってしまうので、 これからは、月に1回くらいのペース(お一人様限定)で、やっていくことに致しました。 ということで、 無料講座は以前よりも減りますが、 必要な方に来ていただけますようにと願っています。 どうぞよろしくお願い致します! 今日もせっせと、語りかけをし、 いい気分に浸って〜今夜も眠りたいと思います。 今日も一日お疲れ様でした。 アトリエスタジオ もっとロールスクリーン上げれば、空がでかく見えます

自分にとっての問題

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昨日の日記に、苦しい時にどんな言葉を自分にかけるのか? ということが大事だと書いたのだが、 その言葉がなかなか出てこなくて、 時間だけが過ぎていくということもあります。 その間、何が起きているのかというと、 頭の中がぐるぐると混乱しはじめ、 ネットサーフィンをするかのように、次々と考えていることが変わっていき、 パターンの考える言葉で頭がいっぱいになっているんだと思います。 考えるだけ考えて(←この場合の思考はほぼパターン)、 ま、いいか~でもやっとしたまま終わる。 以前は本当にそんなことが多かった。 ま、いいか〜の割には、全然よくなくて。 苦しいこともたくさんあるし、しかも続くし、 面倒くさい、無視、スルーでは済まされないようになってきていたんだと思う。 済まされないというのは、自分自身に対して、 そういう面倒くさいということで何もしないってことに、 何だかそっちの方が不自然だと感じてしまいます。 考えるのは無駄? そもそも考えるのではなく、 感じることが先だったんだ・・・と気づかされた。 自己探求、自己理解というところは、 私が~、私が~って思う自分には合っているのだと思う。 自己ちゅうで、 自分が大事にされなきゃイヤで、 自分の思う通りにならないことにイライラし、 すぐ感情に振り回される私には、 この『自分を感じる学び』が合っていた。 だから本当は誰しもみな、何の心配もなくて・・・ 自分に合った方法で人生を切り開いていけるように、 そうなっているのだと思う。 そのいろいろな方法は、 それによっていかに自分の中の、陰と陽(黒パターンと白パターン)のバランスを取っていくのか? いかに、それをする「私」の存在を育てていくのか? 自分は結局どうありたいのか? 言葉は違えど、そういうことなのではないかと思う。 「自分なんて・・・」と言うときの自分は、 本来の、本当の「私」ではないのに、 そんなネガティブなことを思い、口にして行動する自分が、 それが本当の自分だと、 パターンを本当の「私」だと思っている。 ここに、そもそもの問題があるんだと感じます。 うーん、問題? ではないのかもー。 自己探求をしたい、自分を理解したい、自分を信じたい・・・ あくまで、そう思う人(←自分ね)にとっての問題なんだなあと思いました。 今年のとうもろこしって甘い!

苦しいときにこそ、すること

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苦しいとき、何をどうしたらいいのか全くわからなくなる時があります。 もう、頭の中はぐるぐるしていて、 心はズタズタで、自分はもうだめだな・・・って時、 どうやって心を立て直していくか? 一つに、 それを考えることを止め、 気分転換になるものや、好きなこと、仕事に没頭するなどして忘れる時間をつくる。 というのもあると思います。 確かに、そういう時間が必要なときもある・・・のですが、 これをずーっとやり続けていると、 パターンが大きくなったり、強化されたり、 また形を変えて複雑化したり、 ということが心の中では起きています(目に見えないけどね)。 パターンのケアができればいいのですが(実際は問題山積みであっても)、 すぐにそうできないとき、 何からやればいいか・・・ 意識を向けるのは、 その状況で、その状況だからこそ、 どんな言葉を使うのか?・・・です。 口から出る言葉だけでなく、 表情も、姿勢(態度)も全部含まれています。 自分が悪いとわかっているのならば、 まずは心の中で謝り、自分が悪かったことを認め、 これからどうしていくのかを丁寧に真摯に相手を思い(祈り)ます。 その思いの中の言葉は本当のものであるし、 体裁もなければ、自分を正統化するものでもなんでもない素直な気持ちです。 そうして、感じ取ったものを持ちながら言葉を紡ぎ、 実際に相手に対して、丁寧に思いやりをもって話していく。 また、優しい笑顔をつくってみる。 姿勢を正し、下を向かず胸を張ってみる。 そうやって意識的に自分を変えていくのだ。 また、自分ってだめな人間だ~~と卑下したくなったら、 あえて前向きな言葉を考え、 「大丈夫、大丈夫」「だめではないよ」と言ってあげる。 また、誰かを責めたくて憎くてしかたかなったら、 「ごめんなさい」「教えてくれてありがとう」「いつかはゆるせるようになろう」 と、まだ全然そうなってはいない自分に向けて、 そうなってほしい言葉をかける。 形から入る? ということをやっているのかもしれませんが、 苦しさに襲われているときは、 何かに執拗なまでに執着している自分がいる気がします。 でも、それが何なのかわからないうちは、 苦しんでいる自分にどんな言葉を投げかけるのかを、考えてやってみる。 「私」の資質の中にある、 柔らかで優しく素直さがある言葉を選んでいくと、 ちょっと心が静まるよ...

あり方って何?

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今年の初めに立てた目標は、 どうありたいか?を考えて行動する! というものでした。 その時その時の、 自分の在り方を「私」が選択していくことです。 具体的に、どうありたいか?ってすぐにはわかんないよ~ とはじめは思っていました。 何事も反射的に反応してしまうし、 感情に飲みこまれないまでも、 その反応に見合った言動をとってしまいます。 そしてその後に(ちょっと時間が経ってから)、 さっきの言い方はどうだったんだろう?とか、 さっきの行動は、態度は、良くなかったな~とか、 反省するのです。 それはそのあり方が、 なんか良くなかったなと思うからこそ、反省します。 そしてその反省がしっかりとあって、 本来はどうする自分になりたかったのか? と考えられるようになります。 でも、この反省というところが、 何か・・・違うような時がありました。 これは、 動機のところなんだと思います。 そのあり方をしようとした動機です。 例えば、 他人からよく思われたいというパターンが実権を握っていると、 在り方は、単なる『見せ方』に変わるだけなのだ。 いい人っぽい話し方になり、 いい人っぽい動きをする。 なんかそれなりなんだけど、やっぱり自分でも気持ちが悪く・・・ そうではなくて・・・ 本当にそれって全力だったんだろうか、 相手を思いやってのことだったんだろうか、 自分に偽りなくそうしたいことだったんだろうか・・・等々、 結局は、 自分に恥じないものかどうか?ということ。 そこに動機を見る大切さを感じました。 ありたい・・・というのは、 見せたいとか見られたい、ということでは無いのですから、 自分にしかわからないことだらけでいいのだ。 はたから見れば、 バカだな~、アホだな~、かっこ悪っ、おばさんだな~ というようなもので全然いいわけで、 「お天道様は、ちゃんと見ているんだよ」と、 おばあちゃんが孫に言うように、 誰が見ていなくても、むしろ誤解されたとしても、 本当に自分に恥じないようなことをしていくのが、 自分が目指すあり方です。 そこを確認して、 また明日もがんばっていこう!! 岩の上に渡り鳥!

いい状態に準備していく

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たまご温め中? 〖はじめて講座〗にご参加いただき、ありがとうございました。 今回は、午前と午後とで開催しましたので(初めての長丁場)、 いつもと違うことを試みてみました。 それは・・・ 待っている時間をいかに『いい感じ』で過ごすのか? ということです。 今日はお一人お一人の話を、 一つ一つ最後まで丁寧に聴こうと心に留めました。 そうなれるように、 その練習として本を持参したのですが、 パッとめくったそのページだけを丁寧に読む。 ということをしてみました。 この講座では、 今抱えている悩みを解決するための糸口として、 心のカラクリをお伝えすることに重きをおいているのですが、 それでもやはり、 相手の方の話を聴く部分をもっと大事にしていきたい、と感じました。 その丁寧さの練習をしたいと思い、本を準備。 いつものように、さささっとページを読み進めるのではなく、 1ぺージだけをじっくり読んで何度も咀嚼し、 書かれてあることからわかることを、いろいろ想像してみる。 ということをやってみました。 少ない本文(情報)でも、 何度か繰り返し読んでいると、自分の中に丁寧さという感覚が生まれます。 そして、余計なことを考えなくなり、 そこだけを深く読み込める感じがありました。 そして、何度か目でやっと、 あ、そういうことか~?って、 その本文の深い意味がわかるような気がしました。 もう一つは、 ストレッチや体操をしたりして(広いお部屋なんです~)、 体の固いところをほぐし、全身を動かすということ。 はじめて会う方への楽しみと同時に、 緊張感もあるので、頭も体も(顔も!)カチコチです。 だからとにかく動かしてほぐす。 これはとてもいい感じでやれました(これこそ、準備運動)。 イタ気持ちいいところは負荷を少しかけながら~ 血行がよくなり呼吸も整い、気持ちも落ち着いてきました。 何があっても大丈夫かもしれない・・・ と柔らかくなった体に軸が通り、心も定まっていくようでした。 こうして、 自分なりの準備方法で、 晴れやかな、いい気持ちの状態で待つことができた。すごい発見! 講座前は、 実はこんなことをやって準備していた自分です。 (あとは、下手な絵を描いたりしてた〜) 一期一会のご縁ですので、 少しでもいい時間をお互いに過ごせるよう、 自分の心と体を整えられる範囲でやって、 これからものぞみた...

ご先祖様とのつながり

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今年のお盆は、 会ったことのないご先祖様のことを、 これまでになく考えたお盆でした。 女性は嫁ぐと、 夫の方のご先祖様を優先し供養することが多くなるのではないでしょうか。 私は結婚当初、 会ったことのない方だらけの夫の方は、 正直意識をしないと、感謝することがなかなかできませんでした。 お盆といえば、つい、 小さい頃から可愛がってもらった祖父母を思って手を合わせ懐かしみ、 知らないご先祖様とのつながりを想像するのは、 あまりできていなかったように思います(申し訳ございません)。 でも、ご縁があってこの家に入り、 気づけばもう少しで旧姓よりも今の苗字の方が長くなっていく今、 夫と出会わせてくれたこと、 娘と出会わせてくれたこと、 そして自分が今ここで生かしていただいていることに、 素直な気持ちでお礼を言っています。 ご先祖様の中には、 私と同じような、嫁として、妻として、母として、 未熟で頼りない女性もたくさんいたと思うけれど、 反対に、私にはない家事が楽しくできた人、 気配り上手で思いやりがある人もいたと思うので、 そういう方の力を借りて、自分も今日までなんとかやってこれたのだと思います。 また、実際に、親戚付き合いとは、 おとなしく周囲に合わせること(猫かぶること)だと思っていた私に、 あ、そうする必要ないかも・・・って思わせてくれた叔母もいました。 そうやって、 この家に嫁いできたたくさんの女性たちが、 同じ嫁としての私に、今も力を貸してくれているように思う。 自分があまり悩むことなく親族の方々とこれまでやってこれたのは、 生きている方、亡くなってしまった方、遠いご先祖の皆さま方、 たくさんの方々のフォローがあったからなのだと。 女性が結婚するとたくましくなっていくというのは、 こういうところにも関係しているかもしんないですね。 どうか、ご先祖の皆さまの中で、 〇〇が得意な方がいましたら、私にそれを教えてくださ~い! って祈ることが多い私。 (これがまた、よく聞いてくださるんですっ) そんなライトな関わりを、生きている方、亡くなってしまった方、 はるか昔々のご先祖の皆さま方にも同じように持ち、 今、生かされていることへの感謝の気持ちを、 これからも持ち続け、伝えていこうと思っています。 まだまだ夏の空が見える!

黒パターンへの感謝

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先日 の気づきから、 白い部屋(白パターン)から聞こえてくる声を忠実に、 でも、明るく希望が持てるようなものを選んでいます。 そして、白黒ワーク全体を丁寧に、はしょらないで(はっしょってたことにも今回気づいた)、 声に出して響かせ「私」を誘導しています。 そうしてみて、また改めて気づいたことは、 白い部屋に入った後に、 そこに心地よい感覚がした・・・と同時に、 感謝の気持ちが余韻のようにわいてくるのでした。 感謝って・・・何に対して? 黒パターンが思うような経験があったからこそ、 白の部屋(白パターン)が見つけられたという、 その大きな流れと言ったらいいでしょうか。 苦しさ、悔しさ、つらさがあっての、 でも、ありがたさなんだなあと思いました。 黒パターンで捉えている間はとても苦しいです。 その苦しさの中にずっといたくないから白を選ぶ、 ということもあるのですが、 やはり、それを選んで、 いつまでも黒パターンだけの世界に居続ける自分は違うって思っているのです。 もう黒はさんざん使ってきたので、 違うものをこれからは選んでいこうとする「私」の意志があるように思う。 その意志は、違う世界へ行くということだけでなく、 今までのものも持ちながら、 つまりは黒パターンを持ちながらも、どうありたいか? ということを問われているのですが、 それが、ふと、過去の経験って自分にとって何だったんだ・・・ ありがたいことではなかったのか? その時の自分にこんなにもふさわしい体験だったのかと思いました。 むしろ、この経験なしでは進めないほど、 自分に必要な白パターンを知るための黒パターン。 人間万事塞翁が馬なんですね。 そして、白黒ワークをした(選び変えができた)からもう終わりではなく、 何度でもまた、黒パターンに飲みこまれそうになる。 それでも、 もしかしたら、自分を信じてやってみること、 その力になった経験を積んでこれたと、思えるようになってきているのかもしれない。 そんな気がしました。 だから、自分を信じて、 のびのびとこれらからもやっていこう。 ありがとうの気持ちといっしょに・・・と、思いました。 感謝という言葉。 何だかお盆にふさわしい感じがするう~ ご先祖様がヒントを出してくれたのか? と想像してしまいました。 いつも見守ってくれて、背中を押してくれてありがとうございます。 お盆...

初盆

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小さい頃からお盆は、 みんなでお墓参りをすることが、 年に一度の大イベントでとても楽しかった思い出があります。 その先頭を切って先祖供養していた父親も、 今年はされる側。 兄と二人でお墓掃除に行ったとき、 父だったら、こうするだろうなと思うように、 全身汗だくになりながらもなるべく手を抜かずにやろうと・・・ 初めてのお盆の準備をしました。 そして、花を生けるのは私の役目。 どう生けても花はそれだけで美しいのですが、 ここはちょっとこだわりたくなります。 実家では母がいつも、どこかしこに花を飾っています。 散歩途中で見つけた花や、庭の隅に咲いている花など、 父はそのさりげない花に安らぎを感じていただろうな~ ってふと思いました。 父のお墓には、 大きな薄ピンクの百合の花を中心に生けました。 実家の仏壇にも、夫のご先祖様たちにも、 やはり、百合を飾ってそこに合う花々を合わせて飾りました。 きれい~~(自分も大満足)。 親戚のお墓に寄ると、 カラフルなトルコキキョウが生けてありました。 全部その花だけで統一してあるため、それはそれでとても品があり、 お~、センスいいなあ・・・ また、お花よりお供え物が凝っているところも見られます。 普段静かなお寺もたくさんの家族でにぎわい、 お盆のお墓参りの楽しさはこの家々のにぎわいにも楽しく、 うれしいものだと思いました。 昨日は雨降りでしたが、 玄関先で迎え火をしたとき、 あ、父が来ている? 家族がみんなが揃った感じがして、 ほんわかとする空気に包まれました。 夜は自宅でテレビを見ながら、 娘と夫のおしゃべりが止まらず、笑いが止まらず、 家族みんなこうして健やかに暮らせていることに、またまた感謝でした。

声に出して響かせる

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白黒ワークというものがありますが、 ここにきて、なんと、 自分のやり方って雑だった・・・と気づかされました。 ちゃんと全てを声に出して、 もっと丁寧さをもって、 全身に言葉が染みこむようでなければ、 大事なところが感じられないんだと思いました。 言霊(ことだま)というように、 言葉を発したときの振動を通して、 その空間と体と一つになり、 魂を震わせるような、全身全霊で感じられるようでないといけない。 心で思ってするのと、実際にちゃんと声を発するのとでは、 こんなに違うのだと思いました。 どうして今の今まで気づかなかったんだろう? って思うけど、 その程度の自分だったのだから仕方ない! しっかりと大事に丁寧に声に出して響かせると、 白の部屋(白パターンを選ぶということ)の心地よさに浸り続けることができます。 以前よりもずっと感じている時間の長さも、質も変わった。 言葉で人は創られるのかもしれません。 よい感覚、軽さがある感覚、希望を感じられる感覚。 本当にこれらをしっかりと感じられて良かったと思いました。 同じように、パターンへの語りかけも、 姿勢をただし堂々とのびのびとした声で発してみると、 なんだか今までよりずっと、 パターンが「私」に対して安心してそこにいることを感じました。 民へ向かってその国の王様が語るような、 威厳さや輝き、視界が開けるような明るさが、 自分の語りかけには欠けていました。 声への意識一つでこんなに感じ方が変わるとは・・・ これがまさしく、誰が語るのか? というところ。 こんなにもパターンにとって大事なことだったんですね。 こうやって、今まで違っていたことも、 分かっていなかったことがあったとしても、 それすらも明るく、軽く、希望をもってやり直していこうと思います。 なんだか、そう思うだけでちょっとわくわく感が湧いてます。 そうです、ワークが持つこのわくわく感を私は忘れていました。 もう一度ゆっくりと、 「私」を響かせるワークそのものを見直していこう。 カレー屋 KUMARI

一瞬一瞬により良いものを選ぼう

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岩手クラスの合宿が終わり、 師匠が無事に盛岡へ来れたことに、 まずは感謝の気持ちをお伝えしたいです。 今、日本列島に何があってもおかしくない時代。 一日一日が、以前の平和ボケな感じとはちょっと変わってきていて、 災害への現実的な備えと、被災した方や被災した大地に対して、 祈りを送りながら・・・ こうして今日も自分は、魂の成長を目指すことへの学びを続けられている。 本当にありがたいと思いました。 そして、今やっと、 わかっていなかったことをわかった、 やれていなかったことを知った、 間違いに気づいた。 自分のしてきたことを反省しっぱなしの2日間でしたが、 今気づいて良かったし、青ざめながらも聞けて良かった。 気付いた今から、それをやっていけばいいんだ! やはり、苦しいというのは、 本来の道ではないところに進もうとするからだと思いました。 そのちょっとの苦しさは、 天からの、神からの、ご先祖様からの、私を守り励ますすべての存在からの、 そっちじゃないよーこっちだよーっていうサインだったのです。 反省することが続いたのも、偶然ではなく、 そこに気づかせるための「私」の計画。 そして、地震や災害があると、 今本当に自分が大事にしていきたいものは何なのか? そういう自分にとって必要なこと、大事なことをよく考えてみろ! って言われているようで・・・ また、 自分の傲慢さ、欲張りなところが、 ああ、この自分で過去に苦しんできたことがたくさんあったかもって、 思い出す機会にもなりました。 師匠から「わがままなのよ」と言われ、 (他人から言われるのは何十年ぶり??) そうか・・・自分ってわがままか!と、 意外にも、 え、どこが?ではなく、 そっかー、だからうまくいかないんだなと思えたことは、 私自身すごく納得いきました(まだ、伸びしろあるかな〜)。 気づいたことに対して、 どうして気づかなかったんだ?なぜ?などと追求してないで(←なぜ?と思うのが傲慢な証拠)、 一瞬一瞬の選択をより良いものを選んでいこう。 明日からお盆休みです。 休み中も、休み明けも、より良いものを選ぶことはやり続けていこう。 そうやって自分を創っていこう。 うさぎは葉っぱがあればそれでいい?

この時だから思うこと

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戦争でたくさんの人が体験した恐怖は、 どんなに想像しても、自分には分からないことがたくさんあるのだと思います。 家族や親族、友人が亡くなるという体験はしてきても、 戦争で失ったその悲しみとの違いは・・・やはり、分かりません。 でも、その体験はなくても、 自分にとっての恐怖、そして悲しみ、不安というものは、 今のこの時代に生まれ、 この国で暮らす自分であるから与えられたものがあるように思います。 悲惨な時代を生きた人や、戦争のある国に生まれた人のように、 特別な体験は、今世の自分にはないかもしれませんが、 でも、そんな激しい体験ではないにせよ、 他の苦しみから自分の魂を成長させられるものを見つけ、 その課題に取り組みたい・・・ それは、他人からみたらほんの些細な小さなことかもしれないけれど、 その小さく見えるものですら、勇気を持てず、 一歩を踏み出せない自分もいるのです。 戦争での体験に比べたら、そんなこと? と思うような苦しみにも、 自分は向き合えずに、無視をしようとしていたりするのです。 悲劇さを比較するのではないけれど、 自分ではとても耐えられないような、 非現実のような世界に住んでいる人もいるのに、 本当に小さな小さなことで、イライラしたり腹を立てたりする自分って、 じゃあ何を持って自分は成長できるのだろうって思います。 でも、それと同時に、 今ある幸せを素直にかみしめたいという気持ちもあります。 そんな小さなことで感情がわき、 パターンが騒ぎ、 こうして自己探求のワークをやっては、 ああ、また少し自分のことが理解できたかもしんないし、 昨日より少し長くパターンと共にいられたかもしんない・・・ と平和の中にいて思うのです。 すごーーーく地味なことやっている。 他人から見ればそれはどうでもよくて、そんなことしなくても生きていけるもの。 なのに、そこに惹かれてしまう自分は、やはり自己探求の道を歩いて行きたい。 たったそれだけなのかもしれません。 そして、それができるだけの環境が用意されていることに、 感謝しかないのです。 私は今、戦争を体験していなくても、 ご先祖様の中には経験をした方々がたくさんいると思います。 どうか私にもその最中にあるたくましさ、力強さ、 覚悟を自分も持てるように。 また、柔軟さ、知恵と工夫、優しさ、 生きる力を今の自分に学べるよう、力を貸し...

教訓をどう使うか

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梅雨明けした盛岡。暑いですねーっ 昨夜は、さんさ祭りを見に行ってきました。 最後に見たのはもう何年前でしょうか? いや、何年どころではなく経っている? 私は人混みが苦手なために、 さんさ踊りは大好きだけど、見には行けない・・・ と思ってきました。 でも、連日TVで見ていたら、 なんだか楽しくなってきて行ってみたくなりました。 でもなー、 絶対すごい人だよなー 具合悪くなって歩けなくなったらどうしよー・・・ そんなとき、夫から、 「ま、近くまで行ってみっか?」 なんとも軽~い一言で背中を押されたのでした。 思っていたよりも、一本裏道は人がいなくて歩ける。 そっか、メイン通りじゃない限り大丈夫なんだ・・・ 桜山神社界隈はさすがにすごい人だったけど、 周囲のペースに合わせず、自分のペースで歩く。 そして、いよいよメイン通りでは、 もう~~見たことのない人の波が! 全然見えない・・・ でも、見たい・・・見たーーーい。 と思ったら、偶然人がいなくなったところにすーっと入って、 なんと一番前で踊りを見れました(ついてる~)。 という感じで、 無事に生でさんさを見れました。 迫力があって、美しくて、笛や太鼓や鐘の音で心が踊り、 本当に良かったです。 具合も悪くならず、目も回らず、 私の軟弱な足も肺も、体も最後までついてきてくれました。 決死の覚悟とはほど遠い、 楽しい夜を過ごすことができました。 それで思ったのはー 自分にとってすごく大変だと思っていることも、 その時にそう感じる自分が過去にはいただけで、 今の自分はその時の自分とは違うんだということ。 同じように感じるとは限らないんだなと思いました。 あたり前と言えばそうなんですが~ そうやって、 思いこみでやれなくなっていることって多いんじゃないかと。 特に具合が悪くなったとか、 強烈な苦しいつらい体験などがあったとき、 その自分を自分で刻み、その後の教訓として生きる。 ということをしている気がします。 教訓は、同じ過ちを繰り返さないように、 過去の経験から学ぶということですが、 その学んだところで「止まる」ということではないんだなあと思いました。 そこで完結ではないし、それが全ての答えではない。 そこから学んだことをどう次に生かすのか? というところなんですね。 自分の経験によって得たことを、 さらにその経験をした時とは違う...