自分にふさわしい経験

昔むかし、ひどく傷ついたことがありました。
当時、PC関係の仕事がその人は得意で、私はまったくの素人。
教えてもらうたびに、嫌みを言われたり怒られたりしていました。

そして、それだけならまだしも・・・
すっかりその人の前で萎縮してしまう私は、
緊張のあまりうっかりミスが多くなり、
話もなんだか通じないときて、さらに反感をかってしまうのでした。

仕事ができるその人からしてみれば、
私のような人間は本当に苛立つでしょうし、無能な人間に映っていたと思います。

ある日、また何かの失敗をしてしまい、
職場で報告をしていると・・・
突然その人は冗談とも本気ともわからないようなあっけらかんとした声で、
「頼むから、もう死んでくれー」と叫んだのです。

え、え?今なんて言ったの?
その時、周囲には3~4人の人がいたように思いますが、
誰も否定するでもない、笑うでもない、かばうでもない。
気まずい空気の中で、私はさすがにそれには答えず、
その後も黙って仕事をするしかありませんでした。

本当は、泣きたいくらい悲しかった。
でも人前で言われたことの恥ずかしさと、
誰も何も言わない悲しさとで、
傷ついた自分が壊れないようにそこにじーっとしていることが精一杯。
あとからその悲しみは怒りへ、
そして怒りは恨みへと変わり、本当にその人もその職場もイヤでたまりませんでした。

『傷つく』というのは、
相手からされたことで自分が『傷つけられた』と思って疑いません。
あの人のせいで私は傷つけられた。
だからこんなに私は苦しいんだ。
という認識をするので恨みが増すのです。

でも、
時が経ち・・・

今思うのは、自分が傷ついたのは、
相手の言葉に対して、自分がそう思うことを選んだ(傷つくことを選んだ)から。
と、捉えることもできます。
パターンによって自分が自分を傷つけ、
パターンがその痛みを生み出していたのです。
そのとき悲しんでいたパターンと共にいることができなかった。

自分だって大事にされたい、
邪険に扱われたくない、
受け入れてもらいたい、わかってもらいたい等々。
パターンがいつも願っていたことを、
その言葉を言われたことで、はっきりとわかった気がしました。

がんばってもうまくいかないことがあって、
がんばるほどに、自分に矢を向ける人がいる。
その心が自分にはわからないように、
相手も自分の気持ちはわかりません。

その体験で、
他人に自分をわかってもらうというのは、
そもそも違うんだと思いました。
自分の心の奥のその願望(パターン)でやっているから、
それに見合ったことが起きていたのかもしれないと(気づかせるために)。
因果応報のように。

その頃、そんな自分を助けてくれた友人がいました。
私よりもこれからのことを本気で考え、必死で守ろうとしてくれた。
そんな思いがけない友情(愛)の経験ができたことも、
私に死んでくれーと言った人(←これも思いがけない経験)のおかげです。

本当に人生ってわからない・・・

だからいつでも、どんなことでも、
自分にとって大事なこと、ふさわしい経験だけがこの身に起きている。
それだけはわかる気がします。



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