純粋に、やったということ
朝、ゴミ拾いをしながら走っている男性を見かけました。
真っ黒に日焼けしたその方は、
片手にトングを持って、もう一方の手にはビニール袋を持って、
それが何ということもなく(周りの目も気にしていない感じ)、
あたり前のように堂々と走っていました。
え~マジで、すごい、偉いなあ!
って驚いたのと同時に、
だんだんその方を見ていられないような、
こちらが恥ずかしくなっていくような妙な気持ちになりました。
なんで?
なにを自分は恥ずかしがっているのか?
あまりにもいいことをしすぎていて・・・
何もしていない自分がなんだかとても情けなく、
恥ずかしく感じたんだと思いました。
そして、
走りながらのゴミ拾いはできないにせよ、
自分はこの人のように、
自分以外の人に対し、自然に対し、動物に対し、地球に対し、
何か『良いこと』を日々やっているだろうか?
・・・と思いました。
自分の幸せのためではなく、
いい人だと思われたいからではなく、
もちろん、褒められたいとか、気づいてもらいたいとかではない。
やって徳を積みたいとか、
そういうことじゃなくやれる、良いことって・・・
一日一善って言葉がありますが、
一つだけでもいいから、たった一つでいいから誰かのために、何かのために、
自分を捨てて無心でやれることをしたい。
思うだけでなく、やろう!って。
その男性を見た後、
朝の渋滞時、入りたそうにしている車があったら入れてあげようと思いました。
思ったけれど~
こんな簡単なことすら、タイミングが悪くできませんでした。
その後、仕事中も何となくその意識はどこかに残っていたのか・・・
いつもの仕事の一つである、話を聴くということを、
いつもよりも一生懸命やりました。
パターンを横に置きながら、話を聴こう。
ジャッジをせず、何を伝えたいのか、この時に集中して聴こう。
純粋な対話をしよう。
私にできることって、
もしかしたら、こういうことなのかもしれません。
『聴くこと』はどこまでも純粋になれるものでもある。
気の利いた良いことも、見てわかる良いことも、
あえてやろうとすると不器用な自分にはかえって誰かのじゃまになりかねない。
でも話を聴く相手はいつも目の前にいます。
それを真摯にやることは、何だかできそうな気がする・・・
自分が自分を捨てて、そうしたいと思うこと。
まだまだできていないからこそ、そうしていきたいと思っているのかな。
『純粋にそれをやった』ということは、
それも何かしらの良いことなんじゃないかなーって思う。
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