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7月, 2024の投稿を表示しています

どんな気持ちも全部わかっている

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悲しい、悔しい、すごいみじめ・・・ そう思うパターンの声を聞いています。 パターンの言いたいことは、 相手を責めているけれど、そうなったのは自分がダメな人間だからだと、 自分自身も責め、自信を失っています。 悲しい、悔しい、みじめだという気持ちになったのは、 自分の中にあるパターンが考える期待があったから。 今までの関係性から、これからの展開を予想する期待であるし、 そして同時に、パターンが考える自分自身への期待もあったのかもしれません。 そっか~、 そうなることを望んでいたんだね。 思い通りにいくって思っていたんだね。 「私」がパターンに愛を持って語りますが、 パターンも、 そうだったんだよねって、 自分のしたことを回想している感じがします。 語りかけをしていくと、 パターンが泣き止み、ちょっとずつ落ち着いて、 本当の「私」と一緒に並んで自分のしたことを見ているような感じがあります。 まだ白パターンのことを考えてはいませんが、 そこに黒と隣り合わせで、白があることを知っている「私」。 いつでも準備が整ったらと、スタンバっている白パターン。 あなた(白パターン)がそこにいるというだけで、 それをわかっているから、 黒パターンは「私」に何でも言えるのかもしれません。 まずはこっちの話を先に聴いてくれ!と。 「私」はその通り何でも聴いてあげられるし、 あなたのどんな気持ちもわかっている。 そう、全部わかっているよ。 本当の「私」とパターンの間には、 お母さんに抱かれるようなあったかい安らぎの愛が通っています。 責めない、裁かない、いい悪いもない、そのまんまのあなたでいていい。 そして、その安らぎの中で、 そこから生きる力がふつふつと湧くような、 そばにいて背中を押してくれるような愛もある。 今日もあたらしい一日がはじまります。 いつでもそこに愛があって、 どんな自分でも愛されているのだ。 だから今日も一日、愛を感じてがんばろー そろそろ梅雨明けかな~

普段やらないことをやってみる

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昨日はオガールでの講座でした。 お一人の方と心についてのお話ができて、 じっくり対話ができるこのスタイルが私には合っているなあと思いました。 また、それがいいと思う方が来て下さるようになり、ちょっと嬉しく思います。 ご参加下さりありがとうございました。 さて、帰り道、 雨にぬれた緑いっぱいの田んぼの中を車で走り、 先月から一気に大きく立派になった稲を見て(急に伸びた?)・・・ 自分って成長しているだろうか? と、ふと思いました。 自分が今どうなっているのか。 ちゃんと見れているのかな。 自分を知るほどにいろんな感情があることを知ります。 そしてそこには喜びや感謝があるのだけれど、 反省や後悔、これからあらためたいものも多くあります。 いつもの反応といつもの習慣。 これが自分だという思い込みに気づくことがなかったら、 ずーっと変わらない自分がいただろうなあって思います。 いつもと同じ場所(領域)にいて、 いつもと同じ考え方と言動を取っていては、 自分の意外性、未知なる姿を知ることはなかったでしょう。 多少の年齢から経験してわかることはあっても、純粋な「私」が指揮を取る人生を生きていくのかは、 自己探究がなければわからなかったと思う。 そう、自己探究は、意外性の連続なのだ。 いつもの選びなれた考え方や言動とは真逆なところにあるのが、 実におもしろい(←って福山さんも言ってた)。 今までの自分だったらそうしないなあ~ って思うようなことをあえてやってみるのも、おもしろいです。 いつもなら、こんなふうに自分は話していたけど、 それとは違うものを考えてみるとか、 思いも行動もどちらも一担やめてみるとか。 本来はちゃんと心で浸って、 それでいい感覚の方を選ぶということをしますが、 先に行動や話すことを変えてみるということも最近やっています。 形から入る・・・ような感じですが、 やってみたら、それは無理やりの我慢でもなくて、 意外な自分を発見するような感じもありました。 普段の自分だったらやらない言動。 その体験は、自分の殻を破る疑似体験でもあると思いました。 あ、なんか、こういうことも自分はできるのかもしれないと、 自分の可能性をちょっと先に見せられたような気がします。 そういう心の遊びというかゆとりというか、 決めつけのない、制限のない、いろんな状態を受け入れられることも、 ...

自分が薄く消えていく

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いくつかの大きなイベントの仕事が終わり、ほっとしています。 ホントにホントに、 自分、ご苦労様。よくやった!とねぎらっています。 全部終わってみての安心感は、 結構プレッシャーがあったんだなあ・・・ 周囲の人たちに、 うれしい、感動した、今までにない体験だった、参加してよかった・・・ などなど、ポジティブなものを持って帰ってほしい。 という願いがあったからだと思います。 こういう、他者あってのことって、 どう感じてもらいたいか?なんて考えれば考えるほど、 意識しすぎてうまくいかないことが多いような気がします。 だからまずは、自分自身が楽しみ、味わい、 そこに熱中していくだけでいいと思うのです。 そういう、まず自分、という経験はこれまで何度かやってきているし、 その方がその過程も結果もよいものになる。 ・・・のではありますがー、 今回はそれともまた違う、別な感覚がありました。 他のために動くことと、 自分がそこに心を置くということ。 どちらも自分がありたい姿。 他者の喜びも、自分自身の喜びも、 どちらもとても大切なもの、尊いもの。 でも、どちらも・・・ではなくて、 自分のことは少し以前よりも、薄れているような感覚がありました。 自分の存在が薄~く、消えていく~~~ような感じ。 白黒どちらかにいろいろなことが偏りがちですが、 他者だけでもない、自分だけでもない、 かといって半分半分でもない。 自分の存在が薄れるこの感覚(白でも黒でもないグレー)、 それは、感情があまりわかないような、と表現したらいいか~ 経験は、自分の中に確かなものを育てていくということもあるし、 まだはっきりとわからない感覚を得ていくというのもあります。 こんな経験したのでこうなりました!とは、 まだ何とも言えないようなもの。 わかることは、そこには軽さが感じるということ。 まだこのはっきりとはわからないような不思議な感覚は、 自分にとってとても大切な感じがするので、忘れないように浸ってみようと思います。 この瓶、貴重らしい・・・

グループで学べること

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先日はクラスの仲間との勉強会でした。 一つの出来事に対してそれぞれの解釈が違うのは、 持っているパターンが違うということなんだとは思いますが、 それは取り組む課題も違うから・・・と感じます。 そしてその課題に取り組むのは、 自分自身であることには変わりないのですが、 グループで学んでいる私たちにとって、 あえて、個人ではなく『グループで』っていう意味を考えたい。 一人ではなく、他者のいる中で学ぶというのは、 それぞれの課題で他者を使って練習する必要があるということです。 その一つに自己開示があります。 グループの誰かが言った言葉、態度、あり方に、 自分のパターンが引っかかったことを見逃さずに開示する。 この練習、もうかれこれ何年?挑戦しているんだろう・・・ 私は今回、引っかかったことがなかった・・・わけではないのですがー それがあまりにも小さなものだったので(何を基準に小さいと言っているかは謎)、 とっさに開示しようと思いませんでした。 でも後から、 今日の勉強会を振り返ったとき、 あの言葉ってな~んか変な感じしたな・・・ と思うことがありました。 変な感じ?というのは、 確かに何かしら自分のパターンが引っかかったということです。 でも、何のパターンなのかがすぐには分からず、次の話題へと進んでしまった。 もし、あの時、 「あ、よくわからないけど、なんかその言葉に引っかかるんだよねー」 などと言えたなら、何かが変わったのではないかと思いました。 自分が理解していないままにそれを口にするのは抵抗がある? ●間違ったことを言ってはいけない というパターンっぽいです。 他者に対しては、 間違ったっていいじゃん!と軽く言えるのですが、 自分自身のことになると、そうはならなかった。 ということは、もしかすると本当は他者に対しても、 間違ったっていいとは思っていないこともあるのかもしれません。 それは相手が間違えることで、自分が少しだけ安心するような優位に立てるような、 動機不純からくる「いいじゃん!」もあるのです。 相手にそれを言う、私の動機って何? そこらへんをよーく見たいと思いました。 それをして(言って)、自分は何をしたいのか? 自分の心の中を裁かずに、 相手に対してのパターンがあるということを、自分がわかり、ゆるし認める。 そして、だからこそケアしていくことを宣言し、 ...

人生を終えるという時に思い出すもの

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昨日はアイーナでの【はじめて講座】でした。 毎回、心のカラクリをお伝えしていますが、 参加された方が必ずと言っていいほど、 小さい頃どんなふうな子どもだったか? また、どんなふうに自分が育ったかということを、 自然に話してくださいます。 そういう話をしてくださいとは言っていないのですが、 パターンの話の後に、不思議と、 小学生くらいか、それよりもう少し小さい頃のご自身を、 思い出すような感じがあるように思います。 その子ども時代に、両親や周囲にいた大人たちに言われたこと、育った環境や受けた教育、 つらい体験などから自分自身が繰り返し刷り込んできたものが、パターンと呼ばれるものです。 もしそのパターンが自分だと思い生きてきたなら・・・ 「そういうことだったのか・・・」と その人にしかわからない、腑に落ちる点があるように思う。 みんな何もわからない子どもだった。 一人では生きてこられない、小さくか弱き存在だった。 だからこそ、心の中にパターンを作りながら育ってきたのです。 そうして懸命に生きてきた自分と、 その自分自身をいつも側で見守ってきた本当の「私」という存在もあります。 心のカラクリは、 その2つの存在を感じられる時間でもあるのだと思いました(肉体も入れると3つ)。 TVドラマで、 もうこんなふうにしか生きられないと思いこみ、苦しみ続ける主人公が、 棺桶のような箱に入り、人生を振り返るシーンがありました。 自分が今からもう死ぬという時に何を思うのか、 想像する(確かめていく)のです。 目を閉じ、今からもう自分は人生を終えるんだという時に、 一番自分が大切にしたかったもの(人)を本当に大切にできただろうか、 後悔していることは何なのか、 また、自分はこういう人生を本当に送りたかったんだろうか、と回想します。 そして、 こんな自分じゃ嫌だ。 もっとこんなふうに生きたかったんだ、と目覚める・・・ そうです、まだ生きているからやり直せるのです。 本当の「私」で生きた人生だったんだろうか? この問いができたらもう、 あなたのいる世界は変わりますとドラマでは展開があります。 心のカラクリを知るというのは、 こういうことなんじゃないかって思いました。 今、自分だと思っているのは本当の自分ではない。 だとしたら、今見えている世界でやり尽くして生きていこう。 そのための、自己探求な...

自分にふさわしい経験

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昔むかし、ひどく傷ついたことがありました。 当時、PC関係の仕事がその人は得意で、私はまったくの素人。 教えてもらうたびに、嫌みを言われたり怒られたりしていました。 そして、それだけならまだしも・・・ すっかりその人の前で萎縮してしまう私は、 緊張のあまりうっかりミスが多くなり、 話もなんだか通じないときて、さらに反感をかってしまうのでした。 仕事ができるその人からしてみれば、 私のような人間は本当に苛立つでしょうし、無能な人間に映っていたと思います。 ある日、また何かの失敗をしてしまい、 職場で報告をしていると・・・ 突然その人は冗談とも本気ともわからないようなあっけらかんとした声で、 「頼むから、もう死んでくれー」と叫んだのです。 え、え?今なんて言ったの? その時、周囲には3~4人の人がいたように思いますが、 誰も否定するでもない、笑うでもない、かばうでもない。 気まずい空気の中で、私はさすがにそれには答えず、 その後も黙って仕事をするしかありませんでした。 本当は、泣きたいくらい悲しかった。 でも人前で言われたことの恥ずかしさと、 誰も何も言わない悲しさとで、 傷ついた自分が壊れないようにそこにじーっとしていることが精一杯。 あとからその悲しみは怒りへ、 そして怒りは恨みへと変わり、本当にその人もその職場もイヤでたまりませんでした。 『傷つく』というのは、 相手からされたことで自分が『傷つけられた』と思って疑いません。 あの人のせいで私は傷つけられた。 だからこんなに私は苦しいんだ。 という認識をするので恨みが増すのです。 でも、 時が経ち・・・ 今思うのは、自分が傷ついたのは、 相手の言葉に対して、自分がそう思うことを選んだ(傷つくことを選んだ)から。 と、捉えることもできます。 パターンによって自分が自分を傷つけ、 パターンがその痛みを生み出していたのです。 そのとき悲しんでいたパターンと共にいることができなかった。 自分だって大事にされたい、 邪険に扱われたくない、 受け入れてもらいたい、わかってもらいたい等々。 パターンがいつも願っていたことを、 その言葉を言われたことで、はっきりとわかった気がしました。 がんばってもうまくいかないことがあって、 がんばるほどに、自分に矢を向ける人がいる。 その心が自分にはわからないように、 相手も自分の気持ちはわか...

純粋に、やったということ

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朝、ゴミ拾いをしながら走っている男性を見かけました。 真っ黒に日焼けしたその方は、 片手にトングを持って、もう一方の手にはビニール袋を持って、 それが何ということもなく(周りの目も気にしていない感じ)、 あたり前のように堂々と走っていました。 え~マジで、すごい、偉いなあ! って驚いたのと同時に、 だんだんその方を見ていられないような、 こちらが恥ずかしくなっていくような妙な気持ちになりました。 なんで? なにを自分は恥ずかしがっているのか? あまりにもいいことをしすぎていて・・・ 何もしていない自分がなんだかとても情けなく、 恥ずかしく感じたんだと思いました。 そして、 走りながらのゴミ拾いはできないにせよ、 自分はこの人のように、 自分以外の人に対し、自然に対し、動物に対し、地球に対し、 何か『良いこと』を日々やっているだろうか? ・・・と思いました。 自分の幸せのためではなく、 いい人だと思われたいからではなく、 もちろん、褒められたいとか、気づいてもらいたいとかではない。 やって徳を積みたいとか、 そういうことじゃなくやれる、良いことって・・・ 一日一善って言葉がありますが、 一つだけでもいいから、たった一つでいいから誰かのために、何かのために、 自分を捨てて無心でやれることをしたい。 思うだけでなく、やろう!って。 その男性を見た後、 朝の渋滞時、入りたそうにしている車があったら入れてあげようと思いました。 思ったけれど~ こんな簡単なことすら、タイミングが悪くできませんでした。 その後、仕事中も何となくその意識はどこかに残っていたのか・・・ いつもの仕事の一つである、話を聴くということを、 いつもよりも一生懸命やりました。 パターンを横に置きながら、話を聴こう。 ジャッジをせず、何を伝えたいのか、この時に集中して聴こう。 純粋な対話をしよう。 私にできることって、 もしかしたら、こういうことなのかもしれません。 『聴くこと』はどこまでも純粋になれるものでもある。 気の利いた良いことも、見てわかる良いことも、 あえてやろうとすると不器用な自分にはかえって誰かのじゃまになりかねない。 でも話を聴く相手はいつも目の前にいます。 それを真摯にやることは、何だかできそうな気がする・・・ 自分が自分を捨てて、そうしたいと思うこと。 まだまだできていないからこそ、そう...

夫が家にいても・・・

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3連休で旅行を計画していましたが、 向かう先がずーっと雨予報だったので、 ぎりぎりまで悩み・・・今回は行かないことにしました。 そのおかげで、延び延びになっていた家のことがたくさんできました。 そのほかは、読書をしたり、実家に行ったり、夫と散歩をしたり、買い物したり・・・ いつもとあまり変わらない日常でしたが、 それなりにゆっくり過ごせたので、旅行に無理に行かなくてよかったと思いました。 夫があと数年で定年退職をして、 自分も仕事に出かけるということがなければ、 きっとこんなふうな毎日を過ごすのかな~ まる2日間一緒にいると(しかも、共同作業が多かった)、 3日目はもう、なんか一人で過ごしたくなります。 別に夫が面倒なことを言ってくるわけでもないし、 ご飯も最近は麺類が多いので、 自分でゆでて食べてくれるので手間はさほどかからないし、 夫も常に何かしらやっている人なので、 私は私でやっていればいいんだけど・・・だけどー 昨夜は3連休の最終日にむけて、 あえて、 「明日は、各自、自由時間にしまーす」 って夫に言いました。 まるで、修学旅行に行った先での、 はい、ここからは、自由行動ね〜みたいな感じ。 これを宣言したのは、 今までも宣言があっての1日はちょっと違ったからです。 気持ちの上で、 朝起きる時間もご飯も各自自由、 もちろんどこに出かけるのかも、家で何しているかも自由。 たとえ一緒に同じ空間に居ることがあっても、 『自分の時間』ということ。 ま、そこをそんなに強調しなくても、 はじめから何のしばりもないんですけど・・・(と、夫は思っていると思うが) 肝心なところは、 それくらい、今日1日を好きなように私は過ごそう! と思っていることを口にするという点です。 結局、自分は、 朝にメイクをしたけど、どこにも出かけず、 麺類に合いそうなおかずをちょこっと作り置きし、 録画していた大河ドラマと、ニノが出ているドラマを見て、 一人でチョコモナカジャンボを食べ、 洋服の整理を終わらせました。 すっきりした~ 以前はよく、休日に夫がいると何もできない・・・と思っていたことがあった。 語りかけなんてもちろんできないし、ブログも書けない。 読書も集中しては読めないし、 昼寝しようにもご飯の準備が気になって~ とにかく夫が居ては全てにおいてゆっくりできないと。 でも、もしそんな生活...

自分がいいと思うようにやろう

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穴があいてビリビリに破けていた障子。 気になりながらもう何年も経っていましたが、 やっと張替することができました。 我が家は白い障子ではなく、色付き和紙を貼っています。 色の組み合わせを考えるってホント楽しいですよね~ なんて言っているのははじめだけ・・・ この、色を選び組み合わせるという作業、 一回や二回では、これだ〜できた〜!にはなりません。 一緒に住む夫の意見も一応聞き、 もしうちに来る人が見たら、この配色ってどうなんだとか、 買った紙、無駄なく使わなければとか、 そういうことをぐるぐる考えはじめると、 もーーー、訳分かんなくなってきて作れなくなります。 これよりアレがいい、アレよりこっちだったと、お店にも4往復(疲れたー)。 このままじゃ、連休中ずっと障子貼りで終わることになる・・・ 気分も、頭の中もリセットするために、 一度、頭を空にして休憩です(アイスを食べて生まれ変わろう!)。 休憩後は、 もう、誰かが見たらどうだとか、 せっかく買ったんだからこの色使おうとか、 そういうものはぜ~んぶ無しにして。 自分がいいのがいいんだ!って決めました。 今思う自分の「好き」だけで作ろう。 普段も、何かをしようとするとき、 いいものを作りたいからこそ、悩んで悩んで余計に訳が分からなくなるってあります。 わくわく感が無くなった時点で、 何かしらのパターンで作っていたんだなあと気づいたりします。 よい意味での妥協と軽さを持ちながら、 何度も繰り返しやってみるというのも、それも大事です。 この悩み苦しみ失敗もしながら、ため息と、もやもやと闘いながらも(やってることは障子張るだけなんだがー)、 自分が感じたものを信じて作り続ける。 そう、いろいろやってみての、これだなあと思ったものがいい!ということも、 久しぶりのものづくりで教えてもらった気がします。 簡単にはいかない。 という経験も、それがあって生まれたものは、 それはそれで良いものがあります。 考えているときも、作っているときも、作った後も、自分が楽しむ。 それで良かったのですね。 電気を消すと・・・

言うか言わないか

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言うか言わないかで迷ったことがありました。 相手のできていない部分をできるように教える、ということがあったんですが、 こんなふうにするといいですよー って私から伝えなければならない場面でした。 でも、自分とその人との関係性はできているだろうか・・・ 相手の方が、「教えてもらった」と感じなければ、 それはただのダメ出し、否定、こちらの小言?になりかねないんじゃないかと思いました。 でも、そう思われたとしても、 それが自分の役目であって、 言うことが相手のためになるという考え方と、 相手の様子を見ながら、 今は言わずに見守ろうという考え方があります。 この時、 後者の方がいいなという直感があった・・・ なのにー、 結局相手の話も聞いたうえで、 言う(教える)ことにしたのでした(言わざるをえない状況になった)。 やり取りしている途中で、なにか心がもやもや・・・引っかかります。 相手の話しを聞いているうちに自分のパターンが騒ぎだし、 それを横にいったん置いておいて話す(「私」で話す)、 というところがちゃんとできなくなったのです。 自分がパターンのケアができていなかった。 という話であると同時に、 はじめに言うのをためらった(ダメ出し、否定、小言にならないだろうか?) 頭の中で想像した通りに、 その通りに現実がなったように感じました。 ここで、量子力学的なことが起こっていたのかもしれません。 そう心が思っているから、そっちの方に行こうとする素粒子たちがあった。 中立に、中庸的な視点で物事を見て、 心をケアして白の感覚で話すことができたなら、 その素粒子たちは、 「教えた」「教わった」という単なる事象として動いたのではないかと思いました。 私がちゃんと白の感覚にひたりながら相手の話を聞いた上で、 また、白の感覚にひたりながら教える。 これをしたか、しないのかの違いなんだなあ こういうことって、 日常的によくあることかもしれません。 教えたけど、何か伝わらなかったなあ~ 言わない方が良かったかな~ そう思って終わり。 次にどうするかを考えたとしても、 相手の顔色を見ながらやる、ますます熱く教える、 もう、なるべく言うのをやめる。 表面的なところで自分がパターンを騒がせないように、 いろいろと模索するのだと思う。 でも、そうではないところで見れる力を養いたい。 ・直感を大事にする...

もう、それでいいんじゃないの?

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最近取り組み中の、 ●責任をもって仕事をするべき、というパターン。 まさに、責任をもって仕事をしていたのに、 最後にポカをやってしまった・・・ということがありました。 ポカというのは、 アポの時間を忘れてしまったんです(本当に申し訳ございません!!!) おそらく他人がやったら、 ●責任をもって仕事をするべきだ! というパターンが騒ぎまくること間違いなしです。 もちろん、 今回のポカでこのパターンも騒ぎましたが、 他にも、 ●人に迷惑をかけるな ●完璧に仕事しろ ●約束を忘れるって最低だ 次々とパターンが自分を責めました。 以前から思うことが時々あった、 なぜ、自分は仕事となると厳しく自分を罰したくなるのか? また、他人にも厳しい視点でみていることがあります。 パターンがいう『責任』って、何なんでしょう? スマートにやっているということ、 自分の側に落ち度がないこと、 人間の完成度のように思っていたのか・・・ 人一倍ちゃんとできない自分だったからこそ、 そのための対策も工夫も勉強も、 本当にそこを一生懸命にやってきた。 結果としては、この程度なんですが、他人の何倍もの努力はしてきたと思う! そう思ったら、 もう、それでいいんじゃないの? 厳しくする黒パターンがある反面、 もう、それでいいじゃない、って思い、なんだか力が抜けました。 この力が抜け、軽くなる感覚は白パターンに近いです。 仕事って、 うまくやれるときもあれば、そうじゃないときもある。 一生懸命やっても、だめなときもある。 だめだったなと思っても、結果として良かったこともある。 努力をしてきた自分がいて、 これからもポカしないように努力していく。 そして自分のあり方を全て、仕事に反映させていきたい。 もうそろそろ、 誇りをもった自分で、堂々と生きていってもいいのかもしれない。 黒から白へ、選びかえる時がきたのかもしんない。

謝りたいとき

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謝りたいと思うことがあった時、 すぐに謝れたらいいのですが、 それが叶わないとなると、居ても立っても居られなくなります。 なんてバカなことをやってしまったんだと、 ただただ自分を責めるしかない・・・ でも、こういうとき私は、 胸に手をあてて目を閉じ、その人のことを思い浮かべて、 本当に懺悔の気持ちで心から謝ります。 その人が目の前にいるかのように、 本当にごめんなさいと言い、 いつもありがとうと言い、 これから自分はどうしていきたいのかを伝えます。 これは、いつもそうしています。 会えるまで時間があるとき、 そうやってその人を思い、声に出して謝ります。 本人へその思いが伝わっているかどうかが大事ではなくて(それも大事か?)、 自分がちゃんと誠心誠意、謝れたかどうか。 自分が間違っていたと、悪かったことをしっかり認める。 懺悔をしたいということは、 たぶんですが、 自分が正しいと思っているとき、特にそういうことが起こるような気がします。 正しいと思っていることすら自覚がなく、 その無意識さで思いもよらぬことをしてしまうのだ。 自分が正しいと思って行動していると、自分を完全に見失い、 人の批判をしたり、傷つけたり、信用を失うようなことをやってしまうのです。 自分の正しさとは、 信念でもあり、 その信念を自分の支えとして生きている場合があります。 それほど大事なものだと、パターンだとは思えないんですね。 また、 自分が正しいと思う間は、ネガティブな感情ではなくて、 むしろポジティブで力強さがあります。 なんかちょっと張り切っていたりもするので、さらにパターンだと分かりづらいような気がします。 自分が正しいと信じていることを自分がやっていくのと、 相手にそれが正しいんだとやらせていこうとするのは、 全く別の次元のもの・・・ 謝りたいと思っていた人にちゃんと謝れるというのは、 そのチャンスを与えられた奇跡にも感謝です。 自分の思いと行動が一致することになり、 この一致性があると、 やっと本来の自分に戻れたような気がします。 盛岡城跡公園のみどりもりもり

語りかけで見えること

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自分のパターンが見えてきたら、 そのパターンの気持ちを代弁してみます。 いわゆる『語りかけ』の文章を作るということなのですが、 その工程では自分自身の本音をなるべく出します。 決していい子ぶらないで、ありのままで、 深く深く本当の気持ちだけを見て掘り下げていく。 これが、自分と向き合うという作業になるのですが、 はじめはとても抵抗を感じるかもしれませんし、 一人でやっていると難しさを感じるかもしれません。 語りかけ? それをやって、一体何になるんだろう? パターンに語るって、ちょっとナルシストっぽい。 なんて、半信半疑ではじまったとしても(それでも大丈夫)、 真摯に自分に向き合うという体験は新鮮です。 パターンに、なぜあなたはそう思うの? と聞く。何度も聞く。 そうしてやっと、今まで見えなかったものが言葉になって形を表します。 ●責任をもって仕事をするべきだ このパターンへの語りかけを今やっているんですが、 相手非難の、真っ黒な心の声が出てくる出てくる・・・ そして、それが一通り出たときに、さらになぜそうあなたは思うの? この問いで、 また自分の深い闇への扉が開きました。 パターンの言い分は、 だってーーー、 相手が無責任な仕事をすると、自分に火の粉が飛んでくるし、 代わりに責められるかもしれないし、自分の評価まで落ちたらいやだ・・・ なんと、 自分に対する不安がいっぱい出てきました。 それら、自分が蒔いた種ではないのに、 自分が蒔いたかのようにちょっとでも誤解を受けるのがイヤだったんですね。 また、無責任は悪いことだと、 許されるべきではないとパターンは思っていました。 そういう仕事の仕方をしている人を見るのが、 自分は耐えられないのです。 その態度はやめてほしい、自分をこんなに怒らせないでほしい・・・ と、パターンは思っていたのでした。 これも、相手側の視点ではなく、 あくまで自分がそこに耐えうる力がまだない、という自分側の視点です。 だから、自分が耐えられないことをする相手には、拒否反応だったのだ。 引っかかったときは、まだここまでは見えていませんでしたが、 結局、無責任さを責めるというより、 自分がその事態で被る被害を想定し、それに耐えうる自分ではないから、 怒りの中には不安と恐怖もあったということです。 悔しさと空しさ・・・だけではなく、 そこに自分が耐え...

責任をもって仕事をするべき

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久しぶりに激怒しています。 昨日の日記で、一途に仕事がしたいと思った矢先のこと、 無責任な仕事をしている人を見て、もう~~~腹が立ったのです。 ●責任もって仕事をするべき、べき、べき・・・っていうパターンです。 ただ、それは自分には直接的には関係のないことなので、 怒ってもしょうもないことだと思うのですがー、 そんな思考はここでは通用しません。 だってもう、この気持ちにウソはつけませんから~ 他にどんなパターンが引っかかっているのか観察中です。 (まだ、語りかけもせずにこの日記を書いている) 怒りの感情は二次感情ですので、 その根底には何かしらの他の感情が潜んでいます。 この怒りには、おそらく、 悔しさと空しさがあるような気がしました。 無責任だと自分が非難する理由の中に、 自分が言ったことが全く伝わっていないという、悔しさと空しさがあるんです。 それにしても、どうして自分って、 仕事のこととなると、厳しくなってしまうのでしょう。 そこにもきっと何かしらのパターンがありそうです。  自分が大事にしていることは、 やはり自分だけの価値観であって、 たとえそこに共感があったとしても、その感じる『程度』が違っている。 責任をもつ。と一言で言っても、 他人のそれとは、意味も内容も重要だと思う程度も何もかも違うのだ。 期待があっただけに、怒りも大きいのだな・・・ 期待も何もしてなかったら、きっとここまで感情はわかなかったと思う。 ちゃんと自分の役目をはたしてほしかったと。 そうしないというのは、 こちらの話をちゃんと聞いていなかったんだなって、 ないがしろにされたんだなあってパターンは考え、嘆いているのだと思います。 語りかけはこれからじっくりやっていくとしてー、 ここで思うのは、 それでも自分はどうありたいのか?です。 一途に仕事がしたいと、 他のために、黒子となって動きたいと宣言した私。 そう思う自分ならば、この状況でどうありたいのか? イライラして相手を責めるのか。 関係ないからと、もうそこは見ないふりをするのか。 冷静に声をかけ、自分ができることをその人の黒子となってやるのか。 もう答えは出ているも同然ですが(いや、まだ明日にならないとわかんないかー) パターンへ語り、パターンの気持ちをちゃんと受けとめてから、 それから、それをやっていこう!選ぼう!と思います...

一途に仕事をする

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この頃、仕事をしていて感じるのは、 黒子となって一途に働きたい・・・というもの。 謙遜でも謙虚ぶっているのでも何でもなく、 誰にも知られなくてもいいから、自分だけの達成感で仕事をしたいと心底思うのです。 どうしてそう思うかというと、 それだけ、どう思われるのだろうか?というパターンが、 ちょいちょいその道へ進むことをじゃまし・・・ でも、もうそこでは仕事をしたくないのです。 ということは~、 今私は、そういう働き方をしてないからこそ思うことなのですー。 頭をよぎるのは、亡くなった父の存在です。 自分の持っているものを惜しみなく渡し、教え、 自分の仕事はもちろん、 他のために働こう(助けよう)とする人だったと・・・ 昔一緒に働いていたという方から聞きました。 父は、影で誰かのために何かしているような人だったんだなあと、奇しくも生きている時には、 そういうことを知らずにきた私。 でも・・・そんな話を聞いているうちに、 それが、父にとっての望むあり方だったというのが、 今の自分だからこそ理解できます。 わざわざそれを見せるような人ではなかったから。 それに私とは違って頭がとても良かったので、 余計に人へ教えることが的確で、上手だったのだと思う。 他のためであって、 それが一番自分のための生き方であったということ。 そんな仕事のしかたをしたい。 全神経を黒子としての頭で考え、黒子の体で動き、 相手が自立していけるように、自分が渡せるものは全て渡していく。 しかも正しく、その人の状態に合うように・・・ そういう風に、一途に生きてみたいって思いました。 きっと、 仕事を覚えること、それらを発展させていくこと、 自分の役割を果たすこと、人と支え合うこと、 人間が成長し自立していく姿に、 自分のこと以上に幸せを感じていたのかもしれません。 自分はどの地位にいるのか、どう思われているのか、 どう成長したのか?などには、もしかしたらあまり興味なかったのかも。 ちょっと親だからって、買い被りすぎかもしんないけど・・・ 絶対に目立とうとしなかった父のことを思うと、 その時代で私も仕事を教わりたかったなあって思う。 来世はそうさせてくださーい。 今日一日、自分はどうありたいか?と考えるとき、 そんな父の姿を想像し、 朝、仕事に行くのでした。 夢のようなマフィンの山!