祇陀寺の木

朝、職場に着くと、
お線香の匂いがしたような気がしました。
気のせいかなと思いましたが、
少し時間が経ってから、
あれ?また、香っているなあと思いました。

午後から外出をし、車を走らせると、
6月に道場での合同セミナーをしたとき、
ゲストの方数人でプチ観光と称してまわったお寺の一つ、
祇陀寺(ぎだじ)を思い出しました。

そのお寺に、そのとき自分は別の用事で立ち寄れなかったのですが、
参拝した方たちから、興味深い一本の木のことを聞いたのです。

その木は柳のように(柳ではないと思うが)、
幹のところに立つと、すっぽりと枝葉に包まれるような感じになり、
まるで、「大元と私を結ぶ、パイプの中にいるよう」
という話でした。

大元・・・天と自分をつなぐパイプ。

目には見えませんが、
他人を入れずにただただ自分の内を見つめるとき、
そこには決して一人ではない、
どこか遥か遠くの自分がいた場所(そして、いつか帰る場所)
とのつながりを感じてしまうものです。

それが、パイプという表現になり、
そして、それをなんだか思わせるような木が、そのお寺にあると聞いて、
そのときは、え~~見たい。
と思ったのでした。

・・・で、
その祇陀寺が、次の信号を曲がって行けばあるはず。

幸い早めに会社を出ていたので、
たしかこの辺だったなと、寄ってみることにしました。

行ってみると、確かに、その木はありました。
おそらく夏の間は、
もっと生い茂った緑の葉でおおわれていたと思います。

今は、守られているような感じとはほど遠い、
青い空が丸見えの、スカスカな感じでした。



でも、そんな幹の根本に立ってみて思ったのは、
周囲がスカスカに見えて、
容易に他人のパイプへ行き来しようと思えばできる。
そんな環境を与えられていながらにしても、
他人を入れずに、自分との関係を築いていくことが、
とても大事なことなのではないかと思いました。

他人を自分の人生に入れないということは、
簡単ではないからこそ、
そこに挑戦しにこの世に来ているような、
そんな気持ちになりました。

お寺はとてもこじんまりとしていて、
小さな庭にお花も可憐に咲いて、心地よい場所でした。

そして、
あのお線香の香りがしたのです!
(お寺ですから)



あの香りは、ここだったんだ・・・
来て良かったと思ったのと同時に、
本当は、
クラスのみんなと一緒に来たかったなあと思いました。

セミナーの後、みんなでそのパイプっぽい木を見に行こうね。
と話していたけれど、
結局、自分一人で来てしまった。
もっと早く誘っていればよかった・・・

人、一人一人に与えられているパイプの中で、
自分のことだけ見ていけばいいとわかっていても、
今生では、人と人との関わりなしでは生きていけません。

でも、それが一緒に何かをして、同じ感想をもって、
同じ価値観で、同じように学びたい。
ということではないのです。

自分との関係を築き、
自分自身との信頼関係を深め、
そうやって、そこを目指している友たちがいて、
ただここで私は、こんな木があるね~
ってここからいろんな話をしたかったのだと思いました。

機会はまだあります。
今度みなさん、
よかったら一緒に行きましょう。


曹洞宗 祇陀寺







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