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10月, 2023の投稿を表示しています

あたたかな気持ち

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先日、お天気がとても良かったので、訪問先へ早めに向かい、 少し遠くの駐車場に車をとめて歩きました。 あっという間に今年は紅葉がきた感じがあります。 山の紅葉を見に行こうと思っていたけれど、 もうとっくに里にも鮮やかな色の木々が目にとまるようになりました。 本当に見るものすべて、陽の光を浴びた自然の色って美しいです! 今年は、ニューヨークタイムズの記者に選ばれた街ということで、 たしかに外国人の方や観光客の方を見かけるようになりましたが、 やっぱり盛岡は盛岡で・・・ いつもの山、いつもの川、いつもの街並みで、 のんびり四季を感じる風景はほっとしますね。 自分が仕事のときに、 ラフな格好で休日の街歩きをしている風の人を見かけると、 「どうぞ、たのしい一日になりますように!」って、願う自分がいます。 そして、 自分が休みのときに働いている人たちを見ると、 「お~、今日もお仕事がんばってね」 とエールを送りたくなってしまいます。 こうして人間ウォッチングをして散歩しながら、 また自分へ意識をもどし、 あたたかい気持ちでいっぱいになっているなあと感じる。 このいい感覚で、 今日もいってみようと思うのでした。

その声は・・・

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昔、ほとんど声が出なかった期間があり、ふとその頃のことを思い出しました。 話すことにとてもエネルギーを使っていたなあ、と。 声がかすれる、呼吸がしずらい、咳がでる等々。 病気の後遺症なのですが、 なかなかあきらめきれないものがありました。 当時は、ナースコールで呼ぶにも看護師さんは私の声が聞き取れず、 一年くらいは、話の途中で何度も休憩をとっていたような調子でした。 そうなる前は、単なる声を出す、話す、というあたり前のことに、 意識を向けることなどなかったと思います。 でも、今は昔とは比べものにならないくらい出るようになりましたが、 人前で話すことがあるときは、 いつもより少し無理がかかるため、 自分の全神経がそこに注がれる感じがあります。 『がんばって声を出すぞ』と、勝手に体が集中するような感じです。 先日、いつも声が小さい方に、 就労支援の場面で指摘しなければならないことがありました。 もっと相手に聞こえるように意識して話さないと、 それは話していないことと同じになってしまうよ・・・と。 自分が声が出なかったときにいやだったことは、 身体的な苦しさや、音としての声質もいやだったですし、 人と意思疎通ができなくなることもつらかったと思います。 聞き取れなかった相手は、 だんだん聞き返すのも面倒になって、 話すことをあきらめてしまうこともあるし、 自分も、ま、いっか・・・であきらめるようになる。 そんなふうに周囲との関係性が悪くなってしまっては、 と思い言ったのですが、 自分がちゃんと声を出したい、相手に話を聞いてほしい、 と本当に思わなければ、それはできないことかもしれないと感じました。 声への指摘って、なぜかしずらかったりしませんか?(自分もたまにある)。 声が小さくて全然聞こえなかった~ って後から聞かされることがありますよね。 自分の耳が遠いだけなのか、 話を折ってはいけないと思うからなのか、 それとも、声は体の一部であるからそこを指摘するのは失礼なように感じるのか? 全部パターンが思っていることです。 また、声が小さい人は、比較的耳がよいというか、 聞こえるという感覚が過敏な人が多いようにも思います。 だから、自分自身も小さな声で十分聞こえていると感じているかもしれません。 どんな声の人であっても、その人の話を聞きたいのかどうか、 自分側の問題なのでしょう...

快から不快に転じるとき

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自分の感情がわからないときに使う、 「快」か「不快」か?という問いかけですが、 これは、対人にも言えることで、 自分にとっていい感じの人なのか、そうではない人なのか? と直観的にざっくり分けられていたりします。 自分にとって「快」と感じていた人が、 一転して「不快」に感じてしまう・・・ということがあるのですが、 それは、ほとんどの場合、相手が(状況が)自分の思い通りにいかなかったときです。 そもそも、人は、 自分の思い通りにいかないことに対して、 怒ったり、悲しんだり、寂しがったり、もやもやしたりしているんだと思います。 かたや思い通りにいかなくても、 まったく気にならないということもあります。 それは、相手に何の期待もしていないとき、しなくてもいいときかもしれません。 人に何かしらこうなってほしい、こうなるだろう、 という思惑はすべて、 そうでないと自分が困るようなことがあるからです。 そして、ひそかにどこか人に対して期待をしているのです。 人間関係を不快なものにしたくないというより、 自分の気分がよいようにしたい(自分を不快にさせたくない)。 だから、自分の思い通りであってほしいのだ。 人がどんなパターンを持ち、どんな選択をしていくのか、 そこにもちゃんと自由意思があります。 その意思を否定し、自分のパターンで、こうあるべきだと、 コントロールしようとしていた自分がいたんだなあと思いました。 これも、感情が動かなければ気づけないことでした。 いくら、その人を理解しているとか、 その人を尊重してきたとか思っていても、 自分のパターンに触れたとたん、感情が暴れだすということは、 ただ単に、今までは、 その人が自分のパターンにたまたま引っかかるようなことをしなかった、 だけなのかもしれません。 感情は正直なので、他人には気づかれなくても「私」はちゃんと冷静に観察しています。 ●自分の思い通りにしたい というのは、黒パターンの王様。 このパターンが、人としての苦しみの根源としてあり、 これがいろいろ、パターンの名前を変え、すがた形を変えて現れるのです。 でも、この王様パターンのとなりには、 〇自分の思い通りでなくても、もういいのかもしれない もあります(相反するものがある)。 もしも、思い通りでなくても自分が大丈夫であるのなら、 そこには自由があり、すがすがしい関係性が...

怖いときこそ

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自分が体験していないことをやるときは、恐怖心が伴います。 その分野が苦手なものであればなおさらです。 どんなものが自分を待ち構えているのか。 想像ができないから怖い、ということもあるけれど、 最悪な結果ばかり想像しているから怖い、というのもあります。 その体験によって、もしかしたら失うものがあると、 先の先まであれこれ考えてしまいます。 これまでのことを振り返ると、 時に、怖いもの知らずのような行動をとることもあったけれど、 苦手なものに対しては、 あの行動力はどこに行ったんだ? と思うほど、怖気付いてしまう自分がいます。 できればしたくない、避けれるものなら避けたい。 でも、やらなきゃならないんだったら、 なんとか、傷つかないように、 失敗体験をもうこれ以上したくない。 (はじめから失敗確定にしている) だからひたすら、準備だけはやっていく・・・ というところで納得するようにしてきたんだなあと思いました。 でも、やっと、やっとです。 怖いから避ける、という選択ではなく、 だからこそやってみよう! を、選べたことは、 自分にとって大きな一歩でした。 それはもう、準備とかの問題ではなく(ある程度はやるけど)、 考え方をスパッと変えられたわけではなく、 ただただひたすら、 自分にとっての『いい感じ』を思い出していく。 その感覚に一日に何度もひたり、 いい感じで仕事をし、 いい感じで家で過ごし、 いい感じで歩き、 いい感じで夜、布団に入る。 やればやるほど心が落ち着き、 どんどん心が軽くなっていくのを「私」が感じていました。 本当に、そこだけに意識を向けていく。 拡大させたいものを、「私」って知っているのかもしれません。 それでも時折、 恐怖心からやってしまいそうなこともあり。 でも・・・やらない。 恐怖心では、もうやらない。 その手には、もう乗らない。 と「私」が決めます。 こうして、いよいよ、 怖いと思っていたことに自分が飛び込んでいくとき、 やはり緊張には緊張でしたが、その感じは、 不快ではなく、楽しもうとする「快」の感覚でした。 怖いもの、苦手なものは、 これからもたくさん出てくるのだと思いますが、 そのたびに、また一歩、新しい世界が開けていく。 こういうことへのおもしろさが、やはり自分は好きかもしれません! 白玉っておいしい

自分だけのパイプ

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AKIRA FUSE LIVE TOUR 2023-2024 ~刹那の夢がたり~ とてもいいコンサートでした。 刹那(仏語)というのは、時間の最小単位だそうで、 ほんの一瞬の時間でも、 どうか幸せをあなたに感じてほしい・・・という思いを込めたタイトルだそうです。 布施明さんは、最近とても気になっていた歌手のお一人で、 みなさんもご存知(って、平成生まれの方は知らないかな)、 ♪君は薔薇より美しい という曲が、私本当に大好きなのです。 50年前と変わらず、同じキーで歌っているという歌唱力は、本物です。 この一曲をどうしても聞きたくて行ってきました。 年齢をまったく感じさせない、声量。 ある意味、人間ってこんなに可能性がある生き物なんだと、 びっくりするくらい鍛えられた美しい声。 魅了されました・・・ 外国の曲なんて、もうオペラ歌手のよう。 とにかく一曲目から、涙が出てしまい感動しっぱなしだったのですが、 でも、もっと感動したことが実はあったのです。 それは、コンサートのさなかに見た、まさかのまさか・・・ 布施さんから天に向けてのびている『天と人をつなぐパイプ』です。 もちろん、幻想ですが、 まっすぐ突き抜け、美しく神々しい光を放ちながら、 天井高くのびる一本のスポットライトは、まさにそれでした。 こんなふうに、まっすぐに、 どこまでもどこまでも続いているんだ・・・そう思わせる光。 私の体からも出ているし、会場の人たちみんなにもあるもの。 そう思うと、今日ここに来れたこと、 歌を聞けたこと、パイプを感じられたこと。 そのすべてが、自分へ用意されたものだったんだと思わずにはいられませんでした。 今、舞台で歌っている一人の歌手のように、 自分も、舞台に立って、 自分にしかできないことを日々やっているのか!と思うと、 そこにはたくさんの、自分を守り導いてくれる者たちがいることを、 感じずにはいられないです。 今回、コンサートに来れたのは娘のおかげです。 チケットを買おうかなと思ったときには、もう残りあと数席だけ。 しかも後ろから3番目の列だけしか空いていませんでした。 自分が聞きたい曲は一曲だけ。 (実際は、全部よかった!) あの曲を聞きたいがために行くのってどうなんだろう・・・ そう迷いはじめた私に娘が、 「いいじゃん!それを聞きに行ったらいいじゃん」 と、なんとも軽い感じ...

今の自分を大事にする

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前回書いた 【白パターンの感覚に浸る】 ですが、 もうちょっとシンプルに再度、書いてみようと思います。 今の自分のままでやってみよう。 というときの、今の自分とはどんな自分であるのか。 自分ができていること、できていないこと、 どちらもあるのだと思いますが、 今の自分とは、 どちらかというと、できていない自分の方が頭に浮かびます。 それは、まだできているとは言えないという謙虚な気持ちとか、 できないことをも受け入れていこうとする気持ちなのかもしれませんが、 よくよく見ていくと、それらの根底には、 完璧を求めようとする頑固なパターンがいたんだと思いました。 今までやってきた自分、という表現にしてみたら、 今までいろいろ頑張ってきたこと、 以前よりは、いい感覚で過ごせる日々が増えたこと、 以前よりは、パターンと「私」を分離させて感じられるようになったこと。 そういう自分がいることを感じます。 そうすると、その自分を信頼してやってみよう!となるんですね。 言葉の後ろにあるものは、 こんなふうにさらに言葉にしてみて、初めて理解できる気がしました。 そして、やはり心が軽くなっていく感覚は自分にとっての真理なんだと思います。 今の自分のままというのは、 だめだめな自分のままではなく(それはパターン)、 ここまでやってきた今の自分、そのままを大事にしてあげたいです。 設計事務所がやってる本屋さん

白パターンの感覚にひたる

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松茸ごはん作りました 今回は・・・いや、今回も、 自分がかなり勘違いのまま突き進んでいたことを発見し、 本当に、いつも、どこかが抜けているんだなと実感しています。 でも、今、間違いに気がついて本当によかったです。 白黒ワークという、 黒から白へパターンを選びかえ、日常で実践していくというものがあります。 このとき、黒からどんな白に選びかえるのか?というのは、 頭でよーく考えて、白パターンにふさわしい言葉をつないで作るのですが、 どちらを選ぶかの判断は、 黒パターンの部屋と、白パターンの部屋に浸ったときの「私」の感覚で決めます。 白パターンの部屋に入ったときの感覚の方が、 とても軽さを感じ、ほっとするような、希望がもてるような、 そういう、あ~こっちに進んでいきたい!という感じのものであれば、 その感覚は自分の選ぶべき道を教えてくれていることでもあり、 迷わず進めるのだと思います。 それでー、この数週間を振り返ると、 確かに言葉としては、とてもいい白を選べているし、 語りかけもやってはいるんですが、 どうしても不安がぬぐい切れていないのです。 ●人前で話すのが怖い、というパターンの白は、 〇今の自分でやってみよう、にしていました。 そこに師匠からの指摘があり・・・ 「今の自分に、もっとできそうな具体的な白を選んでみて」と。 今の自分にできそうな、より具体的な白とは。 でもその前に、今の自分ってどんな自分なのか・・・ 人前で話すのが怖い、自信がないから失敗するだろうと思っている自分。 そういう自分でやっていこうと思っていたのです。 これまでやってきた自分、 がんばってきた自分、 深く理解をしてきた自分、ではなくてです。 怖がっている、失敗するってはじめから思っている自分です。 これ、白パターンはそんなことは思わないので、 黒パターンでワークをしていたんだ!と気づきました。ガーーーン。 つまり、〇今のままの自分でやってみよう、という時の自分は、 失敗してもいいし、緊張して怖がっている自分でいいんだ! という自分だったのです。 これは、不安があってあたり前だなと思いました。 もっと言えば、ちゃんと白の部屋に浸っていなかったのだ。 ちゃんと浸っていたら、軽さが感じられないことに(これは白ではないと)気づいたはずです。 それから、もう一つ大事な気づきがありました。 マイナスな感...

無理をしなくてもいい

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このところ、久しぶり(何年ぶり?)かで会うという方が何人か続きました。 会った感じが以前とはちょっと違うな、と思いました。 相手が変わったのか、自分が変わったのか。 いずれにしても、 一言でいうと、自分は無理をしなくていい・・・と思ったのです。 ということは、 今までは、無理していたこともあったということです。 自分の心に反した言動をとっていたということ。 まったく心にもないことは言ってないし、してもいないつもりではいましたが、 でもなんか、やっぱり、ちょっと無理があった・・・ という表現が合います。 それが、今はない。 というのは、なんて楽なことか!と思いました。 いいも悪いもない、ちょっと感情があまりないような感覚にも近いです。 おだやか、静か、へえ~そうなんだ・・・という自分の反応です。 反対に、無理がある自分というのは、 感情が上がり下がりして、楽しいことももちろんあるけれど、 ちょっとうるさい感じがあって、 別れた後に、妙に静けさを感じるような・・・。 それが悪いわけではありませんが、 そうじゃない関係の方が楽でいられていいなあと思いました。 自分に無理をするというのは、 自分に何かうそをついているような感じです。 それは、相手にも、うそをついていることでもありますし、 極端に言えば、 うそをつかなければ、この人とうまくやれないと思っているんだと思います。 うまく?というのは、相手を不機嫌にさせないとか、 相手が自分をよく思ってくれている関係を壊したくないとか、 そういうたぐいのものです。 考えてみると、これもまた相手に失礼な話でした。 たとえ、相手が不機嫌になったとしても、 自分がもうよく思われなくなったとしても、 それが、そのときの自分の姿であったら、それでいいのかもしれない。 この楽さを思ったら、こっちが断然いいでしょー と思った出来事でした。 ひそかに南部家のベンチ

アウトプット

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昨夜の講座終了致しました。 思いがけずクラスのYさんが来てくださり、 するどい質問(ツッコミ)をもらいながらの、 私の方がとても勉強になった1時間半でした。 ありがとうございました。 チラシを手に取って下さった方も、ブログを読んでいただけたら嬉しいです。 これまでは、アウトプットとインプットでは、 断然インプットの方が多かったと思います。 インプットというのは、大事なことではあるけれど、やはり受け身です。 そして、自分の学び方の姿勢というものがそうだったのかもしれないと思いました。 語りかけやいろいろなワークをするということと、 それを自分の外へ発信するということは違うのだと感じます。 いつも私は、自分が教わる側という意識が強いですし、 何か出来事があれば、そこから学ぼうと思うことが、 そこで終わってしまってしまうことにもなっていたのだと思いました。 また、アウトプットしていくという行為は、 他人に行っているようでいて、 実は自分自身のためにしているものだと思いました。 何となくわかっているけれど、話せないということも、 やはり自分の一部になっていないからだということもわかりました。 話す側に立つと、自分の実践が足りないところがよく見えてくるのですから、 人に話すのが怖いというのは、ここを認識する怖さのことなのかもしれません。 ●完璧でなければ、してはいけない(話していはいけない) という、パターンもあったんだなあと。 こうでなければ、アウトプットしてはいけないとか、 話す資格がまだまだ未熟な自分にはないとか・・・ 自分をきびしく評価するパターンです。 寸分の狂いもなく、人に正しく伝えられるようでなければならないと、 パターンは思っていたんですね。 これからは、完璧ではないからこそアウトプットしながら、 今までしてこなかった経験から学ぶ。 ということが必要になってくるのかもしれません。 自分のためだけにやってきたことが他人のためになり、 他人のためにやってみたことが自分のためになる。 まだまだ、そのバランスはわかりにくいものではありますが、 これも練習していきながら、いつかわかるようになっていくのかなと思います。 小田中耕一さんの型染め かっこいい

自分との関係をきずく

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人間関係がうまくいかない・・・ と思うとき、それは他人との関係ではなく、 自分自身との関係がうまくいっていないということでもあります。 コミュニケーションが苦手、むずかしい、面倒くさい・・・ というときも同様で、 やはり自分自身とコミュニケーションが取れていない、むずかしさを感じている。 そして、自分と向き合うことが面倒だと思っているのかもしれません。 自分にできないものは、やはり他人にはもっとできないんですね。 表面的にはうまくやれても、自分にしてこなかったことは、 どうしても他人にしてあげられないのです。 他人とどうやって信頼関係を築いていくのか? そう悩むときってどうしているだろうか・・・って思い返してみる。 時間をかけて、相手の話を聞いたり、共感したり、 とにかく対話を試みると思うのです。 困っていたら手を差し伸べたいと思うし、 何かしてもらったらありがとうと言い、 申し訳ないと思ったら、ごめんなさいと言ったり。 少なくとも、相手のことを考えます。 そうやって、知っていこう、理解していこうとします。 それは、対象が他人でなくても、 自分自身に対してもまったく同じことが言えるのですね。 それが、パターンへの語りかけ。 パターンは生き物なので、 人と同じだと思って大丈夫。 ひとりぼっちにされていたパターンがしてほしいと思うことは、 理解と謝罪・・・そして愛です。 本当の「私」という存在には、 愛をはじめそれらすべてのものがあるからできるのです。 そういった「私」の資質が使われながら、 「私」自身も大きく成長していくのだと思います。 自分を大事にする。 とてもアバウトな言葉ですが・・・ 自分に語りかけるという一連の行為は、 自分を粗末にせず、愛を持って向き合い対話をすることでもあります。 「そうだよね、あなたは〇〇だって思っているんだね」 と、たったこれだけなのにパターンはほっとします。 このほっとする、軽くなる、光が差し広がっていく感覚。 一人でも多くの方に味わってほしいと思います。 ということで・・・ 今週は こころのケア講座 を開催します。 土曜日の遅い時間になりますが、 まだまだ空きがありますので、どうぞご参加ください。 大きな虹!

55歳に思う

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今月で55歳になりました。 55といえば・・・ カウンセリングの先生が55歳のときに、 それにちなんだ話をブログで書いていたのを思い出します。 そのときは、先生ってもうこの歳なんだ!と驚いたのと、 その数字を見て、カウンセラーって一体何歳までできるんだろう? って思ったのを覚えています。 たぶん、そのときの自分の頭の中には、 もう先生そんな年なら、長いことお仕事できないんじゃないの、 と思ったんです(先生、本当にすいません)。 「この仕事って、年を取れば取るほどいいのよ~」 その言葉が今、とてもよくわかります。 正直言うと、50歳を過ぎたくらいの頃から、 もう自分がいま何歳なのか、よくわからなくなっていました(ホントに)。 同級生の夫に、いつも、今わたしって何歳?と聞く(便利)。 そういう感覚になっているのは、 年齢が気にならないというわけではなく、 たぶん昔よりも少しだけ、 「今」を意識した生活が送れているからかなあ、と思います。 あまり先のことは考えられなくなり、 先のことは、今の延長にあると思うようになり、 過去よりも未来よりも、「今」今日一日をどう過ごそうか? ここだけになってきているように感じます。 この感覚が自然になりました(みんな、そうなるものなのでしょうか?)。 体が衰えていくということを、 老人ではなくても、もうすでに想像ができるようになり、 これからもっと年相応になっていくのでしょう。 それでも、変わらないものもあります。 それが、本当の「私」の精神(魂)だと思うのです。 体が思うようにならなくなったとしても、 自分のありかただけを追求していくことはできるのだ・・・と。 年を取るということがおもしろいって先輩方が言っているのは、 そういうことが叶っていくから・・・ それは、おもしろいはずです。 若いころは、若い方が絶対いいと思っていました。 でも、その若いときには、まったく無かったものが自分の中にあり、 手放せなかったものが、捨てられる。 身軽になっていくのを感じます。 不思議ですが、そうやって、みんな年をとることで、 心身のバランスをとっていくのかもしれません。 得られるものって、目には見えないものばかり・・・ だから、若い時にはわかりにくいのでしょうね。 だけど、目に見えないものの方が、 圧倒的にこの世には多いのだと思う。 いろんな見えないも...

祇陀寺の木

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朝、職場に着くと、 お線香の匂いがしたような気がしました。 気のせいかなと思いましたが、 少し時間が経ってから、 あれ?また、香っているなあと思いました。 午後から外出をし、車を走らせると、 6月に 道場 での合同セミナーをしたとき、 ゲストの方数人でプチ観光と称してまわったお寺の一つ、 祇陀寺(ぎだじ)を思い出しました。 そのお寺に、そのとき自分は別の用事で立ち寄れなかったのですが、 参拝した方たちから、興味深い一本の木のことを聞いたのです。 その木は柳のように(柳ではないと思うが)、 幹のところに立つと、すっぽりと枝葉に包まれるような感じになり、 まるで、「大元と私を結ぶ、パイプの中にいるよう」 という話でした。 大元・・・天と自分をつなぐパイプ。 目には見えませんが、 他人を入れずにただただ自分の内を見つめるとき、 そこには決して一人ではない、 どこか遥か遠くの自分がいた場所(そして、いつか帰る場所) とのつながりを感じてしまうものです。 それが、パイプという表現になり、 そして、それをなんだか思わせるような木が、そのお寺にあると聞いて、 そのときは、え~~見たい。 と思ったのでした。 ・・・で、 その祇陀寺が、次の信号を曲がって行けばあるはず。 幸い早めに会社を出ていたので、 たしかこの辺だったなと、寄ってみることにしました。 行ってみると、確かに、その木はありました。 おそらく夏の間は、 もっと生い茂った緑の葉でおおわれていたと思います。 今は、守られているような感じとはほど遠い、 青い空が丸見えの、スカスカな感じでした。 でも、そんな幹の根本に立ってみて思ったのは、 周囲がスカスカに見えて、 容易に他人のパイプへ行き来しようと思えばできる。 そんな環境を与えられていながらにしても、 他人を入れずに、自分との関係を築いていくことが、 とても大事なことなのではないかと思いました。 他人を自分の人生に入れないということは、 簡単ではないからこそ、 そこに挑戦しにこの世に来ているような、 そんな気持ちになりました。 お寺はとてもこじんまりとしていて、 小さな庭にお花も可憐に咲いて、心地よい場所でした。 そして、 あのお線香の香りがしたのです! (お寺ですから) あの香りは、ここだったんだ・・・ 来て良かったと思ったのと同時に、 本当は、 クラスのみんなと一緒に来...