うれしい気持ちの落とし穴



他人から感謝されて、すごくうれしかった!というとき、
それを望んでいた自分がいたことに気づきます。

うまくいかなかったらどうしよう、っていう不安が元にあって、
その不安が、『感謝される』ということで解消されて、
相手の方のことより、自分自身にほっとしたのかもしれません。

そしてもう一つ、
自分が普段からいいと思っていること(自分の価値観や正義感)を、
『感謝される』という行為によって、証明されたんだと、
自分がしたことは正しかったんだと思うことで、
そこに存在価値を感じて、喜んでいるのかもしれません。

だとしたら、その喜びは、
本当に「私」が望んでいることなんだろうか・・・

素直にうれしい。
と静かに思うときと、
だよね~、本当にそうだよね~、ってある種の胸の高鳴りが生じているときとは、
まったく別の性質のうれしさのような気がします。
後者は、自分を正統化させたいときに現れるうれしさ。

本当の「私」の純粋な喜びではなく、
自分の中の、そうなってほしい、そうなるべき、そうならないと困る・・・的なパターンが、
自分の(パターンの)思い通りになって胸をなでおろした。
そして、勝ち誇ったようによろこんだ。
というものだったと思います。

そういう(パターンの喜ぶ)うれしさは、
いつまでも、良かった良かった・・・と振り返りながら、
というより引きずりながら(過去の栄光にすがる人のように)、
そして、次も、これからも、こうなりたい!と、
また新たなパターン●感謝されるような自分でなければならない
を強化していくように思いました。

感謝されたというのは、一つの事象に過ぎず、
その一瞬の出来事に自らも感謝の気持ちをもって、次に進めるとき、
それが本来の自分のあり方(そうなっていきたい姿)なんだと思います。

今、自分のやれることをやっていこう。
とだけ思い、進んでいく。

うれしい気持ちというのは、大いに持ちたい感情の一つですが、
いつまでもそこに浸りたくなるようなときは、
自分としては要注意な感情です。







コメント