安心と執着


安心できる場所があるということは、
いいこと・・・だと、思うのですがー

だんだんとその安心できる場所というものに慣れていくと、
そこ以外では安心できない、という不安も出てきます。
また、それに慣れ過ぎて、
なにか自分を見失っていくような感じもします。

安心というのは、
そういう意味では、とても不確かなものかもしれません。

安心できないと感じるのは、
自分が否定される、傷つけられる、孤立する、非難される、
雑に扱われる、無視される、等々・・・
すべて、他人からなにかされて、自分がどうにかなってしまう、
という恐怖心なのだと思います。
そんなことをされたらどうしようって、
安心が得られないということは、
そんな状態の自分自身が怖いのです。

だけど、自分がそう感じても、
起きていることは、少し違うような気もします。

それは、そうされた(不安になった)と思う時点で、
そうなるにふさわしい自分を、わざわざ演じてしまっていた。
ということがあるからです。 

傷ついた人間として、
その後も、傷ついた人間らしく、行動をとってしまうというものです。
一度、そう自分で決めた(傷つけられたと決めた)ものを、
簡単には変えられない、という流れにのっている。
作りだしているのだと思いました。

それくらい、負(マイナス)の考えや言動って、
その後も続けて負(マイナス)に引っ張られやすいのだと思います。
しかも、簡単に、強力に!

この引っ張られる力は、
正(プラス)のものよりも、強い気がします。

だから、安心を求めてしまうのかもしれませんが、
その安心(例えば、傷つきたくない)というものを求めすぎると、
結局は、不安を広げていくことと同じことをしているような感覚に陥るのです。
自分らしくいられることの安心感が、
自分らしくいられないことへの不安を大きくしているような・・・

何かを求めていくというのは、
そうならないようにしたい!という思いも強くなることでもある。

希望を持っていこうとする間はいいけれど、
そこになんとしてもたどりつきたい、そこに居続けたい、
という感じになってしまうと(←非常に無意識だから気づきにくい)、
何か違うなあ・・・と、
あっという間に執着の世界にいることがあります。

安心と執着って、
まったく別のもののようで、
隣り合わせにあるように感じます。






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