介護のあいまに

父の介護の経験を経て、認知症(アルツハイマー病)がどういうものなのか、
素人ながらにも、かなり知ったつもりわかっているつもりでいました。
それでも母は母で、父とは全く違います。
こんなことが起きるんだ~という思わぬ展開がたくさんあって、
この数週間本当にめまぐるしく、感情が騒ぎ(パターンのケアもし)、知恵をしぼり体を使う日々でした。

育った環境や経験してきたこと、つまりは刷り込まれたパターンが母だってありますし、
元々の性格や気質といったもの、今ある環境など、
「一般的な症状」と言われるものに対しても、母らしさが出るようです。
そして、それらは、そばで暮らすわたしにとって、家族にとって、また遠くで暮らす兄にとっても、
母が認知症にならなければ決して気づくことができなかった、
まさに「変えられるもの」と「変えられないもの」の識別をしながら過ごす日々が与えられたのだと思います。

自分一人では決してできない介護。
ケアマネさん、往診の先生、訪問看護の看護師さん、デイサービスのスタッフさんたち、
訪問薬局の薬剤師さん、見守りお弁当配達のスタッフの方、などなどお世話になっている人がたくさんいます。
遅刻や早退、突然の休暇も自由に取らせてくれる会社にも感謝ですし、
スケジュールに融通がきくこの仕事に就けていることへも感謝です。
本当に多くの方たちに支えられて、自分の日常が成り立っているんだなあ・・・

思えば、こんなにたくさんの方たちと関わって生活しているというのも、そもそも両親のおかげです。
ほぼ毎日誰かしらと電話で何かを相談していますが、
たまに、今日は何も無かった(電話やメールのやり取りがなかった)という日があると、
何だかとても静かな一日だったなと、ほっとしたりします。

でも、この毎日のやり取りが、特訓になっているんだと思うのです。
これを言ったらどう思われるか?ということがだんだん気にならなくなり、
事実をたんたんと話す練習にもなっています。
逆に、思いを隠さず素直に伝えるということを日々やっているような気もします。
それが叶っても叶わなくても、自分はこう思う、ということを伝えることで、
相手も自然に思うことを言ってくれているようです。
一番大きな変化は、
何かを決めるときに、あまり迷わなくなったような気がします。

母のことでお願いする側、相談する側、愚痴る側ではあるのですが、
いつも誰かにお世話になっているため、
いつもいつも、「○○さんありがとうございます」と言ったり、心の中で思ったり、
毎日祈るときに誰かしらの顔が浮かぶのです。
父のときもたくさん感謝していたつもりだったけれど、
さらに深く深く、してもらっていることの尊さを感じずにはいられません。

今日は休みで、忙しい中にも日中うとうとと、うたた寝をしました。
そのときの幸せといったらありません!
ほんの少しの時間でも、本当に充分すぎるほど幸せを感じる気持ちの良いうたた寝だったのです。

そうやって少しの時間でも体を休ませることができたり、
ちょっと顔をあげて青い空を見たり、
ちょっとだけ音楽を聴いたり、ちょっと目をつぶって自分の呼吸を感じたり、
いろいろ五感を使うことに、豊かさを感じ、幸せを感じています。









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