なんとかやれている
いちいち相手の言動に、引っかかっていた自分がいました。
共感するところが見つけられず、
何度となく話すたびに胸がざわざわし、モヤモヤし・・・
頭の中では、うーんそうじゃなくって~、と否定する言葉が駆けめぐる。
こうなると、今のご時世マスクしていて本当に良かったと、
引きつっていた顔、隠れていて助かった~と思うほどです。
そんなことがあって、
またこの時が来たか!とまだ何も起きていない相手と自分の空間に、
つい身構えてしまっていました。
ところが今回は、
あまり心が引っかかることなく、進んで冗談まで言っている自分。
少しだけ緊張感もありながらでしたが、
でも心の中で感じていることと、口から出る言葉のギャップがなかったからなのか、
自然にお話しできて良かったなあと思いました。
こういうことが起きるとき、
相手が変わったなあと感じます。
実際には、それもそうなのですがー、
自分の領域が変わり、もう相手に対して引っかかるものがなくなってきたから、
見ているもの聞こえるもの感じるものが以前とは違う世界に自分がいるから、
だからそうなる、とも言われています。
これは、自分の意識がどこにあるかという、あり方が変わったからかもしれません。
そしてまた、それは二度と変わらない完成されたものではなく、
いつでもその領域は行き来できるようで・・・。
今日は自然体で話ができたけれど、次に会ったときも心穏やかに話せるとはかぎらない。
逆もしかり。
心の波は小さくなり、すっかり関係性は変わったということもある。
そういうことがあるたび、
今の自分の人間関係があるのは、自分を観察する、自分(感情)を大事にする、
本当の「私」がしたい行動へ選び変えていくことの『たまもの』なんだと思いました。
それがあるから、この程度で何とか自分はやっていかれているんだと。
コミュニケーションスキルを発揮して、波風立てずに関係性を保つということもできるけれど、
感情とは正反対の言葉を使い続けていくことにもなり兼ねない。
どんどん自分が分からなくなっていくものだと思う。
本来の本当の「私」から離れ、宙ぶらりんな心(パターン)だけが残ってしまうのです。
人とかかわって生きていくことは、死ぬまで続くのだと思うけれど、
毎日、毎回、かかわる相手は変わっていくので、
うまくいかないことがあっても、この人だからなあ~で済ましたり、
この人じゃなかったら、うまくやれるのに~と思うところで終わっているのだと思う。
だから、たとえ引っかかることがあったとしても、
また人が変われば自分も変われると思っているのかもしれません。
でも、本当は、自分(パターン)は何も変わっていないのです。
この人には良くて、この人にはちょっと心が騒ぐ・・・というのは、
自分の心が騒ぐなにかが置き去りにされていて、
それが何なのかを見ないことには、無くならないどころか、
からまった毛糸玉のように手をつけられずにあるだけなのだ。
そして、不思議なことに、
『会うと心が騒ぐ人』への自分のケアをしていくと、特定のその人だけでなく、
『心が騒ぐ元が同じような人』に対しても、関係性がよくなっていく・・・ということがあります。
それは、その人に引っかかるのではなく、自分の心の中にあるパターンに引っかかっているだけ、だからです。
心が騒ぐ元をあなたは見ていますか?ということ。
好きでやっている自己探求ですが、
本当に助けられています。
だから自分、なんとかやっているんだなあ・・・って思います。
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