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4月, 2021の投稿を表示しています

パターンのケアの手順

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嫌なことがあって、この気持ちを理解してほしいと、 誰かに共感してもらえたら少し楽になるだろうなあ・・・と思うときがあります。 大多数の人たちがそう思っているという一般論をベースにして、 さも自分のパターンの問題ではないかのように、「普通はこうじゃない?」 って話すときがあります。 パターンでの視点はいつも自分が正しくて、それは一般論で考えると正当化されることが多いように思います。 だから、「そうだよね」「大変だったね」「それはひどいことされたね」等々言ってもらうことで、 パターンはやっぱり自分は悪くないんだと、少しほっとして満たされる感がある。 でも、それは一瞬の快楽といったらいいか・・・ 本当に望んでいるのは、そこじゃないというのもわかっています。 パターンがほっとするその心地良さと、紙一重の心地悪さ、両方がそこにはあります。 その心地悪さを感じられるセンサーがあれば、 相談したことがきっかけで、さあ自分の問題だから自分でケアしていこう!と 他人ではなく自分の内側へ向かっていけるときもあります。 でもこれはちょっと遠回りのケアだな、と最近思うようになりました。 遠回りというより、結果的に複雑にして先延ばししているような感じ。 パターンがさわぐ→パターンがあることを自覚する→自覚しつつ、誰かに話を聞いてもらう(パターンで話す) →パターンが満たされる→満たされた後、やっぱり違うなと実感する→パターンのケアがしたくなる・・・ この一連の手順で、 『パターンだと自覚しつつ、誰かに話を聞いてもらう』というのをちょいちょいやっていたなあと思いました。 せっかくパターンだと自覚したにもかかわらず、またパターンを強化するようなことをやってしまっていたのです。 黒パターンにとことん浸ることが必要なときも、確かにありますが、 黒を選ぶという行為がいまいちぼんやりしているときは、極力やめたいものです。 相談するとき、人に話すときって、 やはりどこか自分のパターンだと認めたくない部分があるからするのかもしれません。 本当に自分はどういうパターンを持っているのか? そこと向き合うために必要な事実を知りたいとか、何か確かめたいことがあるとか、 パターンのケアをより深めていけるためのものにしたいですね。 こうしてみると、 本当に何のパターンがあるのか、しっかり見極めていくことが大事だと思いま...

パターンの防御

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話しがうまくなりたい・・・何度これまで思ったことか。 今日は、本当に冗談や謙遜抜きで、 どうしてこんなに話が下手なんだろうと思いました。 どのように下手かというと、 自分でも何を言いたいのかさっぱりわからないことを言っていました。 しかも早口で、ばーっと・・・。 本当に内容がまとまっていなくて、ひどかった。 でも、これら全部、 ●話しがうまくなりたい、というパターンが思っていること。 そして、どうして話しがうまくなりたいの?と聞くと、 その方がかっこいいし、その方が相手にも通じるし、その方がちゃんと聞いてもらえるし・・・ でもなんだかんだ言って、頭が悪いと思われたくない、というのが話しがうまくなりたい一番の理由です。 うまく話せるようになったら、自分が自分を認められるのに・・・とパターンは思っています。 話せるということは、頭がいいということに加えて、 自分というものをしっかり持っていて、自分らしく生きている人のようにも見えます。 それがパターンの理想でもあるのです。 でも、自分はそういう人間にはなれない、と思ってしまえばパターンは深く傷つきます。 だから、自分が傷つかないようにいろいろ考えをめぐらすこともします。 自分は、まだまだな人間なんです、自分は頭も悪いし、話も下手だしと言っている。 相手からどう思われてしまうかを恐れるあまりに、思われたくない部分の防御に出ることをやります。 そうすれば、パターンとしてダメージを感じないで済むから・・・ 最初に言ったもん勝ちではないですが、 そうやって自分(パターン)を守ろうとしていました。 いまだに、そこは、本当にその通りだということもあって口に出てしまうことはありますが、 「本当にその通り」っていう言葉が誠実に自分に向けて、自分を認めている言葉であったら、 パターンは本当の意味で安心できるのに・・・。 このパターンは結構根深いので大事にみていきたいです。

楽しくやりたかった

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イベントの仕事が2日間ありました。 1日目は、はじめてのことで戸惑いつつも、いろいろ試しながらゆったりと時間が過ぎ、 不思議なくらい疲れませんでした。 2日目は、時間にすれば短かかったのにもかかわらず、 1日目とは比べものにならないくらい、頭も心も体もすべてくたくたに疲れました。 この差は何かというと、 ずばり2日目は完全に、自分がパターンで指示を出しまくっていた・・・ということ。 パターンはこだわりが強く、理想を掲げます。 思い描くシナリオ通りに進みたいと、自分のいる場所をどんどん狭くし、こうじゃないとダメって息がつまるようなことをしてしまいます。 その結果、楽しさとは真逆の方向に進み、 大して動いていないのになんかすごい疲れたあ〜ということが起きるのです。 初日は、予想がつかないので、まずやってみようという感じで心に余裕がありました。 うまくいかないことがあっても、ちょっと失敗だなと思っても、 まあいいっか、で軽く受け止め許せるのです。 でも、初日の反省をふまえての2日目は、 あーそうやるとだめなんだよなあとか、 昨日のメンバーはもっとちゃんとやっていたのになあとか、 比べるものができてしまい、そこと比較してどうかという基準で見ていました。 だから普通に指示を出すべきところでも、 思った通りになっていないイライラを抑えて、話していたと思います。 そう見えないように隠していたつもりでしたが、たぶんばれてますよね(何か圧を感じる)。 動く方は、たぶん自信を持ってできなかっただろうし、 失敗できないって緊張してしまっただろうし、楽しくなかったんじゃないかと思います。 イライラを「私」はしっかと感じているので、 パターンがやっているなと、そのときもわかったはずですが、 それでもパターンを暴走させてしまいました。 1日目と比べまくったパターンとしては、 もっとテキパキと動いて欲しかったし、もっと声を出して欲しかったし、 もっと仲間とコミュニケーションをとって楽しくやって欲しかったんだと思います。 そう「楽しくやって欲しかった」というのは一見いい感情に見えますが、これは押し付け、強要ですね。 パターンで指示を出しておきながら、 楽しいと思ってやってよね!ってどこまでパターンは自分の理想を当てはめようとするのか。 この日一日、自分はイベントを頑張ったんじゃなくて、 自分のパタ...

話題をさける

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気になっていることほど、その話題をさけるということがあります。 自分自身がさけることもあるし、さけられた、ということもある。 自分がさける、という時は、 まだその件に関して充分に自分自身を観察していないとか、 そのことへの向き合い方が中途半端とか(半端だということを自覚している)、 そのために、他人から何か言われることを怖がっている時のように思います。 もう少しでその、気になっていることの正体がわかりそうだし、 いや、本当はわかっているから、ずばり、まだ言わないでほしい、って抵抗している感じ。 気にしていないわけではなくて、 むしろ、すごく気になっているけれど、まだなのよ、まだ・・・って思っている。 何がまだなのか?と思うと、心の準備なのかもしれません。 心の整理とでもいいますか、 気づいて何かをちゃんとしたいと思っている、そのために自分のペースで心を落ち着かせたいと。 それくらい、気になっていることは時間が経つにつれ巨大化していって、 心の準備がないと太刀打ちできないんじゃないかと妄想してしまうように思います。 そして、やっと重い腰をあげるかのように、 パターンの語りかけをしてみたり、 現実的にさっさと何か行動していかなければならないことをやってみたりして、 あ~意外と、深刻に考え過ぎていたかもな、って思うことが多い。 やってみたら(ちゃんと向き合ってみたら)、 大したことではないようなことだった、ということはよくあります。 何をそんなにためらって、(心の)準備をせねばと、大袈裟に考えていたんだろう。 大袈裟に考えているのは、「私」ではなく、パターンがよくやってしまうことなんですね。 だから、気になっていることがあるということを深刻化させないようにしていきたいです。 そして面白いなあと思うのは、他人がそうなっている時は、 その『気になっているのにさけている部分』をつっこみたくなってしまうのです。 どうしてさけているのか、その理由、原因を聞いてみたい・・・ 聞いたら、あ~そういうパターンね、と自分は思うのでしょう。 たぶん、他人のパターンを見て安心したいパターンがあるのだと思いました。 他人のパターンを見て楽しんでいる暇があったら、自分のパターンのケアをするとか、 白で行動するとか、自分を観察するとかいっぱいやることはあるのに・・・ これって、他人の失敗をみて笑って...

桜を見ながら

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桜の花があちこちに咲きはじめ、 いつもの街の風景が、この季節は明るく華やいで見えます。 でも、土日の雨でせっかく咲きかけた花はかなり散ってしまい、 桜の身になってみれば、満開にぱーっと咲きたかったんじゃないかと残念な気持ちになります。 桜のように毎年注目される花もあれば、 誰の目にもとまることなく、終わってしまう花もたくさんあるわけで、 きれいだね、今年も咲いたねって言われることもなくその季節を終える花って、 もし人間だったら、何か寂しい気持ちになってしまわないかと思ってしまいました。 自分がそうなのですが、 褒められたり、何か声をかけてもらったり、自分に関心を示してもらえると、ちょっと嬉しくなります。 そこから自信につながったり、自分の存在をより確認できるようになる、ということはあると思います。 だから、他人から反応してもらえることは、 例えそれが注意とか指摘とかであっても、無視をされたり反応がないよりは何かしら自分を高められるような気がしています。 ただ、そこを求めてしまうようだと、それは自分のパターンということになりますが・・・ 他人とのやり取りがもしも完全に無くなってしまったら、 自分の存在をどれだけ感じられるだろうか。 自分一人ではかなり難しいのではないかと思います。 いろんな人がいて、自分のいろんな感情が動かされ、 そこにパターンがあることを知り、見えない自分を深く知ることができる。 花が誰のためでもなく季節がくればそこで咲いているように、 人も、誰に何を言われても、また言われなくても、 自分の道を進むことになっているような気はします。 その反面、その道を進むための道しるべというか、 導いてくれるものとして、他人からの言葉や存在から教わるものは大きいですので、誰と出会うかも大きいですね。 明日からはまたしばらく晴れの予報みたいなので、もう少し花見を楽しみたいと思います。 写真は、裁判所前の石割桜です。

そこにとどまり続ける

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相手の発する言葉で、ムカッときたとき、 ●バカにされた、否定された、と思うパターンが自分の中にありました。 自分にいろんなパターンがあるように、その相手の人にもあります、パターンが。 その何かしらのパターンが言葉を選び発言し、自分のパターンがそれに反応しています。 その相手の何かしらのパターンって何だろうと考えていました。 本当にわたしをバカだな~と思って言ってるのかもしれないし、 わかってないね~と否定したかったのかもしれない。 また、全くそういうつもりはなくて、 単に自分がちょっとでも優位に立ちたいと、何かひとこと言わずにはいられない人なのかもしれません。 そのあたりは相手側の話なので、考えても分からないのですが・・・。 でも、このやり取りを繰り返しているうちに、 何でこの人は、こんなに変わらないんだろう・・・ と思うようになりました。 話しの内容は毎回違っていても、雰囲気というか響きというか温度というか、言い方がいつも同じ。 何も変わってない。 時が止まったように、 『そこにとどまり続ける人』『変わらずそういう言葉を使い続ける人』なんだと思いました。 それは本人にしたら、あたり前のことかもしれませんし、 だから何?ってことにもなるのかもしれません。 もしかしたら変わるって、 とても怖いことで不安なことで、変わらないのではなく、変われないのかもしれない(だから慣れた場所にとどまっている)。 かく言うわたし自身も、 今までずっと同じ反応をしていたわけですから、 そこにとどまっている人だったんですね。 だからもう自分は、 自分だけは、そこにもう居続けなくてもいいかなと思いました。 相手のパターンに付き合わなくてもいい。 充分今までその黒の世界でやってきたのだから、もう別のところへ向かっていこう、 もっと自由になっていこう。 相手のパターンは変えられないけれど、自分のパターンだから自分で選び変えることができます。

よく眠るために

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春ということもあってか、とても眠たい日が続いています。 昨夜はついに20時前に寝てしまいました。 夕飯を食べて、食後のデザートみたいなものを食べている最中にすでに眠気が出てきて、 それでもまだ19時を過ぎたばかりなので、がんばってTVを見ていたのですが、 ソファに横になったら最後、あーもう~だめ~寝よう。 朝は朝で、スマホの目覚ましが鳴って起きる時間でもまだ寝たりないような感じがあります。 朝風呂に入って、目を覚まして、やっと体が起きる感じ。 どんだけ、寝たら気がすむのだろうか。 若い頃は、一年に1~2回、起きたら夕方だったというくらいの、 とんでもなく眠り続ける時期がありました。 顔には枕の型がくっきりついて、あまり寝返りも打たずに爆睡しているのかなと思います。 こんな自分ですが、一時期は眠ることがとても大変な時期もあって、 睡眠導入剤を飲まないと眠れなかったこともありました(5~6年服用し続けた)。 それを思えば、眠りに関して今はかなり改善された方だと思います。 たまに、寝つけなかったり、何度か夜中に目が覚めたりということがありますが、以前よりは気にならなくなりました。 眠りの質は、体調のバロメーターとしてだけでなく、 心の状態にとても影響していると言われています。 自分が眠れなかった時期というのは、 どちらかといえば、体を横にした途端に(何もすることがなくなった状態になると)、 とめどなく思考があふれてくるような感じがありました。 考えることが数珠つなぎのように止まらなくなってしまうのです。 そして、朝目覚めると、今度は得体の知れない不安に襲われるのでした。 気が狂うほどに思考がぐるぐるして、やっと眠れたかと思ったらすぐに朝が来て、 重苦しい空気の中、気分も悪く、とても不安な気持ちで一日をスタートしていました。 厳密に言えば、カウンセリングを学んでしばらく数年間そうでした。 でも、その不快な状態も、本当の自分が感じているものではない、ということだけが少しずつわかるようになっていき、 眠れないことも、パターンがたくさん言いたいことがあって、頭がぐるぐる鎮まらないのだなとわかります。 でも、ケアをするという実践までがなかなか伴わなかったです。 心のからくりが分かるということと、実際にケアができるということは違います。 むしろ、理解したところで終わってしまう方がよっ...

検査結果を待つあいだ

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先日、喉が痛くて、薬を飲んでも効かずに数日が経ち、 とうとう声を出すこともつらくなり、早退してかかりつけの病院に行きました。 病院に入る前にインターフォンで症状を伝え、駐車場で待ちます。 間もなくテレビで見るような、完全防備の看護士さんと先生が現れ、 「PCR検査を受けた方がいいでしょう」 えーーーーーっ、今もう受けるんですか? 薬をもらったらささっと帰って寝ようと、簡単に思っていましたので、 一気に胸がざわざわしました。 結果が出るまでは約一日半かかります。 もはや自分の苦しい症状などどうでもよくなり、 帰宅後、PCに向かい、2週間をさかのぼっての行動歴と考えられる濃厚接触者をまとめました。 入院となったら、誰かにお願いする仕事内容もついでに整理しました。 看護士さんに言われたように、家の中の消毒もやった方がいいんだろうな・・・ と思うところで力尽き、布団に倒れ込むように寝ました。 こんなときであっても、 というよりこんなときだからこそ、 本当の「私」はどんな結果が出ても大丈夫、と思っているんだろうな・・・ きっと「私」はなんとかやっていかれる、と思っているよね・・・ って何度となく胸に手をあて、確かめようとする自分がいます。 そして、●コロナにかかりたくない、というパターンへの語りかけ。 このパターンへ語ることはできても、 なかなか白パターンとしてしっくりくる言葉が、黒が強烈すぎて見つかりません。 かかったらかかったで仕方ない、と思っていたはずなのに、 じゃあどんな白があるのか、具体的に考えたことがなかったんだなと思いました。 でも、時間が経つに連れ、本当に微妙なところですが、 〇もしかしたら、これから人生が変わっていくのかもしれない この白は、暗闇にひと筋の光がさすような、 少しだけ静かに心が落ち着くような感じがありました。 『変わる』は、『自分が成長していく』という意味。 黒の方ははっきりとした重苦しさがありますので、やはりわずかではあっても希望を感じる白がいい。 「コロナにかかってもいい」は選べなくても、 「自分が成長していくための変化」ならば受け入れることができそう、 そう思えました。 そして最後は、ご先祖様に手を合わせてお願いです。 今の自分に一番必要なことを受け取るだけの勇気をください・・・。 今回のことがあって、 安心したいがために、外から情報を得...

祝・合同勉強会

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昨日は 『魂の道場』 で学ぶ、岩手クラスと茅ヶ崎クラスとの合同勉強会がありました。 今日はしかも沖縄クラスに先生が行かれていますので、 日本列島を思い浮かべ、それぞれの場所で学べることに何だか胸がじーんときてしまいました。 昨夜はオンラインということで、 ITに慣れているMさんにホスト兼進行役もしていただきました。 何から何までためらいなくお願いしてしまった自分・・・ そして、何ということもなく、さくっと引き受けてくれたMさん。 おかげで、2時間を超える長丁場もスムーズに進めていただき本当に感謝感激でした。 初めましての方もいながら、この安心感の中で話ができるって、実はすごいことだなあと思います。 それぞれに課題が違っていて、 そこに自分との違いを感じることがありますが、共通項もあるんだなということを思いました。 また、白黒ワークで何を白に選ぶかというところが、 その人の経験してきたものと感受性と個性と、いろいろな要素が交じって作られるということがとても勉強になりました。 選ぶ白の感覚は、時間がたつと変わっていくものですし、 今はこれを選ぶと安心するという「私」が選んだものがもちろんいいのだけれど、 もしも、これから先、こういう白が選べるようになったらさらに世界が広がっていくかも、という白もあります。 少し遠くを見て、さらに心地良さも感じられた自分がいたら、その想像できた感覚は「私」のもの。 そして、その想像の先を信じることは、 今の自分を信じていくことからはじまるのだなあと感じました。 信じることへ引っかかるパターンがあればそこもみていけばいい。 自分の●責められたくない、のパターンに対しての白選びにも、 まだ他の可能性があったということを知りました。 ○○される、という『される』の部分は自分が勝手に受け止めていることで(パターンだからそうなる)、 それは相手にしてみても同じことが起きているということ。 責められたと思う自分のパターンと、相手のこちらを責めようとするパターンがぶつかり合う。 だから、相手のパターンにもう振り回されなくでもいいんだ、ということも思い出していきたいと思いました。 グループの仲間からさらっと、聞きなれない言葉が飛び出すと、 お~それだ!(または、え、それ?) って視界がぱ~っと開けるように、自分のパターンを理解してあげられることがあるので...

自分に置き換える

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精神疾患のひとつである統合失調症には、とても不思議な現象(症状)があります。 はじめて知った時も、そういう病気なんだねって受け取れず、 その不思議な世界を自分事として「それってどういうこと??」っていろいろ想像をめぐらしました。 調子が悪くなってきて、よく表れるものとして、 誰かがいつも自分を見ている(見張られている、幻覚) 誰かが何かを訴えかけてくる(声が聞こえる、幻聴) そして、今目の前で起きていることが、現実であって現実でないような、 自分であって自分でないような感じ?があるのだそうです。 こう聞くと、統失の方を異様な世界に住んでいるかのように思うかもしれませんが、 これに似たようなことを自分だって体験しているのではないか・・・ と思うことがあります。 実際に、人が見えたり声が聞こえたりということは無いけれど、 心の中で感じていることや、いつも頭で考えていることが、 知られていないはずなのに、分かられているような感覚があったり、 まだそうなっていないのに、そうなるイメージが浮かんだり、嫌な予感が的中したり、 不安や恐れていることが現実になってしまった、というのもそれにあたるような気がします。 自分の中に無いものって、どうやっても出てこないと思うのです。 あるものだから(あるという自覚が無くて出るということもあるだろうが)、 その存在が反応して、表現化されるような気がします。 ずーっと抱え込んできたものが、どこへも表現されることなく長い間静かに生きていて、 とうとう頭の中、心の中だけではおさまりきれず、この現実を創り出してしまったのではないか・・・。 見張っているのは、他の誰でもない、自分自身(パターン)で、 聞こえてくる声の主も自分自身(パターン)ということになるやもしれない。 例えば、●他人からよく思われたい、といつも思い続けてきたのであれば、 どう思われているのかちゃんと意識しなさいよ、とチェックする人が出てくるだろうし、 あ、今のその言い方、誤解されるからやめなさい、と耳元で命令する人もいるでしょう。 これは、パターンがチェックし、パターンが命令しているという状態です。 完全にパターンに支配された世界。 こんなふうに捉えていくと、精神疾患の人も、そうでない人もみんな、 良くも悪くも自分が創った世界にしか住めない。 だったら、前より居心地が悪いなとか、本当...

お昼を食して思う

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今日は、お昼にりんご紅茶と、冷凍たこ焼き10個を食べました。 りんご紅茶は、松本りんご園さんの ミカフェ(mi cafe) のもので、 自宅で手作りして飲む紅茶です。 こちらのりんごジュースと付属の紅茶を鍋に入れて、ふつふつとさせたら、 カップに干しリンゴ(こちらも付いてくる)を入れてその上からりんご紅茶をこして注いで、 はい、出来あがり。 りんごそのものの風味が味わえます。 あ~美味しい・・・(娘が買ってきてくれたものだから、余計に美味しい)・・・至福のひとときです。 冷凍たこ焼きは、その名の通り、レンジでチンして鰹節とソースとマヨネーズをかけて食べました(たこ焼き最高!)。 体にやさしいなあと思うものと、そうでもないものの組み合わせ。 まるで今の自分のようだと思いました。 過去をふりかえり、 自分の食生活の変動ぶりには、そのとき時の生き方が反映されているなあと感じます。  私が20代、血液のガンになるまでは、ご想像の通りジャンクフードをほぼ毎日食べていました。 東京へ出て、仕事も終電で帰って朝も早くから自主練をするような生活(美容師見習いでしたので)。 ファーストフードかラーメンかコンビニ弁当か・・・。 若さもあってか健康を考えたことがなく、時間をかけて手料理する友人に「買ってきた方が早いのに」と思っていた。 病気をしてからは、マクロビオティックの生活にはまり、 それ以外の食事は悪とさえ思っていた徹底ぶりでした(マクロビそのものに、いいとか悪いとかないですよ)。 自然治癒力を高めるといわれるものや自然療法といわれるものをいろいろやって、 食べ物や体の中の、陰と陽も教わって、 それでもそれらを心につなげていくことが、自分にはできませんでした。 心と身体は繋がっているのだから、 正しい食べものさえ食していれば心も整うはずだ・・・ と思っていたんですね(正しい食べものと言い切る自分が、すでにやばい)。 病気が生き方を正してくれる、教えてくれるというのは本当だと思うし、 実際に元気になっていったことも事実ですが、 そこに何かかたくななもの、決めつけ、おごり、固さみたいなものがずっとあったように思います。 その後、結婚すると、その固さが表面化し、あちこちで葛藤するようになりました。 娘のアトピーや、給食をどうするかとか、親としてなっていないとか、 夫の暴飲暴食をど...

今まで読まなかった本

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何人かで仕事の話をしていたときのことです。 ビジネスカタカナ英語?が何個か飛び交い、 ん、それって何?と言葉の意味がわからないまま聞いていました。 しばらく話を聞いているうちに、やっと、何のことかがわかりました。 普段、自分の口からは出ることのない単語って、 意味をしっかり理解しているわけではないので使うことがありません。 何となくそこを避けるかのように、ビジネスカタカナ英語が出てくると、 それ以外の言葉(日本語)で自分は理解しているんだなと思いました。 そして、日本語ですから、親しみがあるというか、口ずさむことに慣れているため、 いつまでたっても新しい言葉が覚えられないんですね(もうすでに新しくはないのかもしれないが)。 そういうことがあると、 さわぐパターンは、●自分は頭が悪い、です。 何でそういうわかりにく言葉を使うんだ、日本語で言ってよ、 というイラッとした気持ちがまずわいてきますが、その後、 ああ、自分ってそんなことも知らないのか、 頭がいい人たちは普通に使っているのに・・・本当に知識も教養もないんだな自分って・・・ついていけない。 と悲しい気持ち、一人取り残されたような気持ちにパターンはなっていきます。 そんなことがあってか、本屋さんで目に飛び込んできたのが、 『頭のよさとは説明力だ』齋藤孝著(詩想社)の本。 こういう知的向上を促すというか、ハウツー本は、考えてみれば手に取ることがなかったです。 頭がいいか悪いかというところを気にしているわりには、 言葉をよく知っていて、トレンドの単語もす~っと自然に出てきて、 相手が聞いていてとてもわかりやすい、説明がうまい人のことをなぜ研究してこなかったんだ?と思いました。 自分には身につけられない、どう頑張っても無理、頑張るだけ無駄と決めつけていると思っていましたが、 そこに向き合いたくなかった、という方が大きかったのかもしれないと思いました。 それで・・・この本を買いました。 いつも偏りがちな本の種類。 いろんな分野の本を読んでいくのもいいかなあと思う自分と、 たぶん読んでもわからないという自分(パターン)がチラッと顔を出したのですが、 今は、知りたいという気持ちが上回り、ちょっと軽い気持ちで読んでみようと思います。