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1月, 2025の投稿を表示しています

パフォーマンス

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前回の我慢の話ですがー パターンは何一つ変わらず(主張は持ったまま)、とりあえず口を閉じていただけです。 大人の振る舞い、わかっている人にも見えたかもしんない? いやいや全然中身変わらずにそこにいます。 それを口にしない、黙る、引き下がる、従う、控える、自分が折れる・・・ といった類いのものは、 自分のパターンとしてはかなり苦手意識があるんですね。 口に出す、訴える、前に出る、反論する、出しゃばる、自分を曲げない・・・ こっちを自分のパターンはやりたがるため、 今までも何度となく練習してきているんですが、まだまだ表面的なんだと思った。 表面的だと分かるのは、 心から生まれたものなら気持ちがすーっとしているというか、何の引っ掛かりもないのではないかと思うから。 そこにはあきらかに至ってないから、ぐっと我慢という状態だったんですね。 心がそうなっていないのにそうしようとすると、 それがパフォーマンスにも関わらず、 何かそうできた自分を何度か経験していくうちに、 中身も自然に変わったきたかのような錯覚があるように思いました。 私、だんだんこんな自分になりましたよ〜的な大錯覚。 ここが今、自分の見るべきところなのかも。 語りかけがすごいなと思うところは、 このパフォーマンスが語りかけを前にすると、 泡のように消えてしまうところです。 パターンに寄り添い丁寧にやっていくと、 さっきの我慢という頑ななかたまりがほぐれていくのを感じるんです。 自然にほろほろと・・・崩れ落ちて中身が顔を出すというか。 本当はあなたはこう思っていたんだね。 そうなることが怖かったんだね。 もう見せかけの自分ではなく、丸裸の自分がただただ人間らしくそこにいるんですね。 か弱く、何とも心細気に、怖がっていたパターンが見えました。 表面的なものでも、なりたい姿を演じているうちに、 それが本当の自分であるかのように人格化していくことはあるようです。 でも、そこに純粋なものは感じられない。 やっていることも言っていることも良いことばかりなんだけど、なんかなあ・・・ という違和感を時々感じる人がそれ、かも。笑 今回もこうしてまた、 他人から必要とされたがりの〜大事にされたがりのパターンに語りかけています。 もしかしたら・・・大事にされたいって、もう決めつけなくてもいいのかもしれない・・・ こっちも同時にやってい...

ぐっと我慢する

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とても矛盾しているのだが、 ●自分はダメな人間だ、というパターンがある一方で、 ●自分はちゃんとやっている人間だ、というパターンもあるのです。 正反対のものにも見えるけれど、 これは1つのプライドからきていると思いました。 そう、元は一緒・・・。 私ってダメな人間なんだけど、ダメだからこそ、 その分こうして頑張ってやってきたんです! っていうネガティブなのかポジティブなのか、 変な自負がある。 そのパターンが騒ぎました。 自分をないがしろにされたような気持ちになり、悲しくもあり、悔しくもあり、 ヤバい、このままではパターン全開で言い返してしまいそう。 ここでパターンを選んだまま喋ったら、 どんなにすっきりするだろうか?と考えた(←これもパターンがやっている)。 ううう、言いたい・・・(言ってやりたいと願うパターン) でも、頭ではわかっています(頭では)。 すっきりするのはほんの一瞬で(いや、一瞬よりも短し)、 絶対に言った鼻から後悔するのもわかっている。 それを言って、自分はどうしたいのか?と自分に問う。 言って、相手を負かしたと思いたいのか? 言って、自分の気持ちをわかってもらいたいのか? こんなどうしようもないほどに、パターンをめぐる葛藤があるとき、 静まらない心を力づくで静めるかのようにぐっと我慢をしてみます。 よく言うアンガーマネジメントの6秒間ならぬ、数分間。 それを言って、自分はどうしたいのか? もう一度問いかけました。 そうこうしているうちに、話題は変わり、出来事が変わり、状況も人も変わっていく。 そして自分自身の心もそこから離れ、 本当の「私」を取り戻し、 そ こからやっとパターンへ語りかけることができました。 我慢して乗り切った・・・ という今回の自分ですが、 小さい頃によく言われてきた「我慢強い子だね~」 が、ここで本領発揮するとは・・・ 本来はどっちがいい感覚なのか、「私」が選びたい。 (言うと言わない、どちらが清々しさを感じられるのか?) でも、もしかしたらー そこらへんも「私」が柔軟に選び、やっていたのかな・・・ 今回の我慢は、果たしてありなのかどうか、 もう一度試してみたいです。 大好きな洋服屋さん

半分の方の世界で

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父親の一周忌でした。 あれからもう一年が経ったんだなあと、本当に時が経つのは早いです。 その朝、夢を見たのですが、 どういうセッティングだったのか?内容は忘れてしまいましたが、 父は自転車に乗って元気でいました。 何か私に声をかけて笑顔でさっそうと行ったので、 たぶんあの世でも元気だから心配いらないよと、 伝えたかったのかなと思いました。 ただ、私は前の晩にお腹をこわしてしまい(甘いもの食べすぎた)、 みんなでお寿司を食べに行く予定だったので、 ああ~やってしまった・・・と、なぜ自分でセーブできなかったのか! 反省していました。 結局、お寿司をいただく頃にはお腹は治っていたのですが、 父親に、ちょっと叱られたような気持ちになりました。 目には見えないけれど、 時々、母親のことを守ってくれているのかなとか、 兄のことを応援してくれているのかなとか、 夫に何か頼んでいるのかなとか、 娘にはとにかく愛情を注いでくれているなとか・・・いろいろ感じることがあります。 私の場合は、大抵、体に無理をしていることで叱られているか、 心配されているかのような気がするんですね~。 生前もそうだったので、そう感じているだけかもしれませんがー。 父親が亡くなってからは特に、 ご先祖様から自分が今日までつながって、この体があるんだなあと思うんですね。 だから自分の欲、エゴによって余計に弱体化させないようにしたい。 ちょっと気づくのが遅いんですけど・・・ 疲れないようにほどほどにやっていこうと思います。 父にしたら、もう私(子ども)に対しての未練はないのかもしれないけれど、 私は父を思うと未だに寂しさを感じてしまいます。 それは、愛情をたくさんかけてもらい、 そこに包まれた時の感覚が今もずっとここにあるからなのか、 それとも、もうありがとうって直接言えない寂しさなのか・・・ あの肉厚で温かかった手を握って歩いて、おしゃべりして、笑って、 本当に私って、お父さんのことが今も大好きなんだなー 会えない、見えない、ということがあるのは、 いつか会えるかもしれないと思うし、 会えた時にたくさん話そうと思うから頑張れる気がします。 って言うと、 頑張らなくても大丈夫だって言われそうですが・・・ 見える世界と見えない世界が半々で一つ。 その半分の方の世界で今、やれるところまでやっていこう! でも、もらった...

柔軟にいこう

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途中から見たTV番組ですが、 団子屋さんがお団子がなかなか売れないから、おでんを売り始める。 というのをやっていました。 突然の思いつき?だったのか、それ用の四角い鍋もなく(仕切りとかが無い)、 家にある大きい鍋を使って具材をごちゃっと入れて煮込んでいました。 団子を買いにきたお客さんが、店頭からの湯気に気づき、 「おっ!おでんじゃん・・・」という顔をして買っていきます。 少しずつ、その湯気と美味しそうな匂いにお客さんが来るようになり、 具材の方も、串刺しの白い団子なんかも入っていたり、 餅巾着にあんこ入り団子を入れてみたり、 団子屋さんらしい工夫もして、売り上げがどんどん上がっていきました。 商店街の他のお店も、それに負けじといろいろ呼び込みをして対抗するのですが、 寒いこの季節には、とにかく心も体も満たしてくれるあったかおでんは強いです。 で、思ったのは、 人生ってこういうものかもしれない・・・と。 ちょっとした思いつきと、それをする勇気と努力で、 いかようにも状況が変わるのではないかと。 どうしてそれをやるか?は、あまり関係ないのかもしれません。 立派な理念や、それをやるはっきりとした自信や根拠がなくても、 この団子屋のように、思いつきのちぐはぐ感が出ていたとしても、 そんなの関係ない・・・。 何となくやってみたい! これでいいのかもしれないと思いました。 その団子屋さんは、社長がおでんを仕込み(団子も社長が作る)、 パートのおばちゃん一人が店頭に出て売っています。 そしてなぜか、 そのパートのおばちゃんの息子さんも具材を買いに行ったりして、 手伝ったりしているんですね(バイト代は出ているのか?)。 急におでんを始めたので、 串に刺さった団子とか、牛筋(これも串に刺さっている)とか容器からはみ出るために、 強引にセロテープで止めたりと、売り方もおぼつかない。 見かねたお客さんから、 これじゃあ汁こぼれるから串から外して入れて~と言われて、そうしてみる。 また、売れ筋のものもだんだんわかってきて、仕入れも変える。 鍋もあるものを引っ張り出してきて、増やしていく。 日に日にお客さんから教わっている感じです。 ピンチの時は、自分一人でがんばっている気になっているけれど、 自分一人で何とかしようとしているからピンチにもなるのかもしれません。 また、この団子屋さんが、団...

その振る舞いは?

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他人からこう見られたい・・・ と思ってやっていたことがありました。 この振る舞いをしていればきっと他人からはこう見えているはずだと。 なんて、いちいち考えて行動していたつもりはなかった。 本当にそんなつもりはなかったんだけれどー どうありたいのか?というところが、 いつの間にか、どういう言動をすれば自分に恥じないのか?ではなく、 どう他人から思われたい自分なのか、 にすり替わっていたんだなと気づきました。がーーーーーん。 これって、全然違うものです。 なんで選択してしまっていたんだ・・・ そして、 そういうのがプライドなのかもと思いました。 自分はちゃんとやっている、というプライド。 他人から見られたい、思われたい自分だけでなく、 こうなりたい、こういう自分でいたいと思うとき、 すでに自分はそういう人間なんだという思いこみが始まっている。 本当はすごくも何ともないのに、 そう見える「振る舞い」をしていくうちに、 自分がすごいかのよう思ってしまうのかもしれません。 もう一つ感じたのは、 プライドって一生懸命に外側を変えようとするんですね。 外見ということだけではなく、他人から評価してもらうための外側の言動です。 核となる「私」は大して磨かれていないのに、 あくまでもそう見えるような外側の「振る舞い」を変えていく・・・ 自分がどんな「振る舞い」をするのかが重要で、そう見せることへの熱心さがある。 そこでプライド(=パターン)が満たされたなら、 それが成長だと、内側が変わってきたからだと勘違いしての「いい気分」にもなっていなかっただろうか? (今になって、自分に問いかける) それ、パターンが誇らしげにいい気分でいたのかも。 パターンに語りかけをさせないようにするプライドって、 本当に手ごわい・・・けど、単なるパターンなんだ。 でも、そんなプライドの言い分も、 しっかり聞いていこうと思います。 じゃーん、黄金の加山雄三さん

時間をかけるもの

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帰りの新幹線に乗り、窓からの景色を見ながら、 つくづくこんなに人がたくさんいる中で、出会う人と出会わない人、好きな人嫌いな人、気が合う人うまくいかない人との縁は、 意味がないわけがない・・・と思ってしまいます。 そして、自分にとっての先生との縁はかれこれ14年目に入りました。 おそらく何かを極めた人、芸術、芸能、音楽、スポーツなど、 数ヶ月や数年で完成するものではなく、 何十年もこれをやり続けています、という方いると思うのですが、 そんな長い年月を経てもなお、わからないことや難しいこと、大失敗することはあって、 それだから時間をかけることの大切さを知るのだと思う。 何かを習得するというのは本来終わりがなく(もうこれでよし!がない)、領域が上がれば上がったでまたそこでの奥深さに気づき・・・ そういうものなのだと思います。 今の時代、簡単にできます、習えます、答えがすぐでますと、 時間をかけないことが良しとされるものがあまりに多く、 経験で(自分がやることで)深めることへの抵抗というか、そこに重きを置く価値がなくなっているような気がします。 もちろん、みんながみんなではなく、 その経験を自分自身が体験せずとも体験した人を見るだけで、 また話を聞くだけで分かったような感覚に陥ると言ったらいいか・・・ でも、時間をかけて自ら実践、体験した先には、 新たな領域へと一歩、また一歩とさらに自分が知らない世界を知ることになります。 自分のものになる(その感覚は忘れないもの)。 そこまでやって見える世界があるから、やり続ける人がいるのだなあ。 ・・・ということを、この学びにも感じました。 カウンセリングをするのに、何をそんなに時間をかけて学んでいるのか、 自分を知るのに、そこまでしなきゃわからないものか。 と思うかもしれませんが(私も初め思った)、 でも、どうしても時間がかかることって確かにあるんですね。 そう、かけないとわからないことが・・・ そして、わかったなと思ってからがスタート! 自分をよく理解できて(パターンのケアができて)はじめて、自分はどうありたいのかを問えるような気がしました。 昔のように「楽しい」という意味付けも今は全く違うし、 「大変だなあ」という意味付けも変わってきています。 それだけの濃い時間をかけたからこそ、感じることができたのかも。 その感じたものを大切に...

プライドについて

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昨日から茅ヶ崎クラスに参加しています。 茅ヶ崎は思ったより寒いことは寒いんですがー 雪がどこにも日陰にも見当たらず、 スノーブーツを履いてきた私だけ、がぼっがぼっていう足音が北国から来ました感丸出しです。笑 こっちはみんなスニーカーなんですよ〜びっくり! 道場の学びはやっていることは同じとはいえ、 やはりクラスの個性で、深める内容の箇所は違うように感じます。 今回は、ホーキンズ博士の意識レベルでいうところのプライドがテーマが出てきました。 「プライド」は「勇気」の一つ手前にある意識レベルなんですね。 自分にはあまりそういうのはないかな〜と、やや他人事で話を聞き始めてまもなく、 あーあるある・・・いろんな種類のプライドを見つけました。 あらためて調べてみると、 プライドを手放さない人の視点は、常に「要求」にあると書かれています。 他者からの承認とか称賛されたい欲求があり、そのために努力を惜しまず何かを成し遂げる原動力にさえなっています。 プライドって、自慢、うぬ惚れ、自賛、驕り(おごり)、傲慢さというものですが、 そのミームにいるとちょっとカッコ良く見えるような錯覚をします。 でもよく観察すると、それがなかったら自分を支えられないような弱さやもろさが見えてきました。 誇らしさで堂々として見えるその裏では、 プライド無くして自分は奮い立たせられない、しかも他人からの支えであることになかなか気づかないものだったりします。 そして、学びとして困ることは、 プライドがパターンの存在を否定する、無視をするということ(←これがやっかい)。 例えば、何か落ち込みそうになったとき、 本来ならその落ち込むパターンを見ていきたいところですが、 その直前で、このプライドが自分を見ることを邪魔します。 プライドは完璧な自分でなければいけないので、せっかく出てきたパターンをねじ伏せてしまうのだそうです。 悔しさ、悲しさ、虚しさ、失望、落胆、といったその今ある感情たちを、再び心の奥深くに沈ませ蓋をさせ、 いつまでも自分をカッコ良くできる人だと言い聞かせるために、またプライドで生きる人生を選ぶのです。 そして、私の場合もこれがありました。 自分を卑下したり、いつも周りに合わせている人を見ると、 なんかイライラしちゃうパターンがあるのですが、 これってもしかして・・・? 自分はそういうことなくやれて...

2025年 あらたな気持ちで

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今年も【はじめて講座】あなたにとってのはじめての、 心を知る講座を開催致します→ ★Rowing 心の中の感情が湧く仕組みを、 わかりやすく、そして楽しくお伝えしています。 また、聞くだけではなく、最近いろいろ思うことをお話してみませんか? これってどうなの?と思うモヤモヤから、 本当はかなり気になっている真剣な話まで~何でもOKの体験です。 何でもOK?を自分にゆるしてみると、 何かを思い出す、ひらめく、絶望から希望が見えた・・・などなど、 想定外のことも起きるかもしれません⁉︎ 袖振り合うも他生の縁。 今年も縁ある方へ、 本当の「私」で生きていく、そのきっかけの場でありたいです。 お待ちしておりまーす! ※ 3月は既にご予約済みではありますが、 表記以外の日もお気軽にお問合せください。

別世界に行こう

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昨日はクラスの勉強会でした。 先月、道場で学べなかったところを(超大事なところを)教えてもらいました。 私のパターン群団の中でも、かなり手ごわい、 ●大事にされたい という黒パターン。 その白パターンをどんな感覚を持って声にしていくかですがー 「もしかしたら・・・大事にされたいって、もう・・・決めつけなくても・・・いいのかもしれない・・・(しれない)・・・(しれない)」 これを、マントラのように何度も何度も言って、 ふんわりと宇宙空間に広がっていくような、 優しい優しい口調で、別世界にいるような感覚を身につけてやる・・・ ということを教わりました。 そうか、ちょっと上方の空中をぼーっと見ては、 ぽかんと口を半開きにして脱力し、 夢と現実のはざまにいるような、別世界の住人のように目をキラキラさせて、 「もしかしたら・・・」と言っていいのだなと思いました。 今まで、マントラと言えば、 自分が励まされる言葉であったり、心地よい感じを受ける言葉であったり、 多少なりともそこには力強さもあったように思います。 しっかりと声に出して念じるような、 心をそこに向けて言い聞かせるような感じもありました。 でも、この「もしかしたら・・・」は、完全に力が抜けている。 何なら、ちょっとおかしい人なのか?と、 顔の前で左右に手を振られて、何か見えているんか~い? 大丈夫か~?って意識が飛んでいるくらいに別世界に行ってもいいようです。 白黒はっきりさせるというところではなく、 まだぼんやりとしたものだけれど、 発する度に宇宙へ新しい自分が広がっていくような感じ。 もしかすると、これが案外一番現実っぽいかもしれません。 わりとすぐに白パターンを作ってしまいがちな自分にとって、 マントラとしてたくさんつぶやいていいというのですから、 本当にたくさんつぶやいて行きたいです。 早速、お風呂で湯舟に浮かぶようにして天井見てやってみたら、これもイケました。 きっと温泉のような大浴場で、大の字に浮かんでみるのもいいかも! (あ、想像しないでください・・・) あっという間の勉強会。 こうして、本当に飽きることなく、 自分を知ることばっかしやっている私たち。 でも、それが自分自身のことだけではなく、 他人や家族を理解することにしっかりと繋がっていくのですから、 本当に学ぶってありがたい。 みなさんありがとうご...

親不孝だった

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昨日は母にカレーライスを作り一緒に食べました。 小さい頃から、うちのカレーと言えば、 玉ねぎをよ~く炒めた甘口バーモントカレー。 お肉は豚肉の細切れが入っていて、そのカレーを作りました。 当時、その母が作るカレーが大好きで、 最後に皿までなめつくしていたほどです(お行儀悪すぎ・・・)。 そうやって育ててもらったなあと、 温かい気持ちになりながら、ふと、 自分が昔病気をした頃のことを思い出しました。 19歳で夢を抱いて東京に行って、 美容師見習いだったので一生懸命働いて、朝も夜も練習して、 料理などはろくに作れなかったので、食生活はめちゃくちゃでした。 手荒れがひどく、生活も終電で帰るような毎日でー そして病気になって帰郷するわけですが、 この頃はまさに自分のことしか考えていなかったと思いました。 本当にもう何十年も昔の話で、 今更なんですが、その頃、親がどんな思いで自分を見ていたのか。 退院して家に戻ってからも外へ出て働くような体ではなく、 その間、本当に明るく笑いながら、 そして体調が悪いときは静かに見守りながら、 自分に対して献身的でいつも優しい両親でした。 それなのに・・・あんなにも恵まれていたのに、 その時は、自分がただ家にいて、 ご飯を食べさせてもらい、治療をし(温灸や半身浴などしていた)、 生きている意味があるのか?と考えたこともありました。 いつか普通に、あたり前に世間一般の同年代の人たちがやっているように、 働けるような体に戻れるのかばかりを望んでいた。 そうやって自分のことばかり考え、 親に対しても感謝などしていなかったと思うのです。 いろいろしてもらってあたり前、 だって申し訳ないけど自分は具合が悪いのだから、と。 これが、今となって、 カレーを作って母親が美味しいと言って完食してくれたことに、 猛烈に感謝の気持ちがわくのって、 遅すぎませんか?と。 これからせめて母へ、 または母の代わりの何方かにも(対象はもう誰でも構わない)、 親不孝だった自分の罪滅ぼしで、 自分の時間を使って何かさせてもらいたいなと思う、今日この頃です。 カレーの写真はないけど、この甘酒は別格で美味しかった♪

喜んでお受けします?

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「パターン」は子どもです。 すぐ怒ったり、駄々をこねたり、落ち込んでみたり、泣いてみたり。 かと思えば友だちになだめられたりしたもんなら、 その機嫌もどこへやら~ 自分に都合がよいことさえ与えられれば、また笑っていられる。 ほんとにお調子者で気分が目まぐるしいのです。 その目まぐるしかった自分から、 少しずつ他人に影響されなくなり、 良いことに対して(以前だったら、はしゃいで喜びそうなこと)にも、 ちょっとある意味距離感を持って、落ち着けるようになっている。 それは、簡単に言えば、 大人になったということなのかもしれませんが、 自分の中には以前とは明らかに変わりつつあるものがあります。 それが、 全てが自分の責任だと思うようになったこと。 幸せだなあとか、つらいなあとか感じることも、 どっちも自分の心のしわざであって、 自分が産みだしているんだと知っているから、 自分に現れることは、全て、 自分のこれまでやってきたことの責任(ちょっと重いでしょうか?)。 何事も、時が経てば状況は変わるものだし、 どんな自分であるかも、同じままでいることはないんだなと、最近とても感じます。 なのに、 変わらなくていい(パターンでいようが関係ない)って、 心の深いところで思っていれば、 本当に何も変わらないまま人生を終えそうな気がするのです。 表面的には、出世したとか、結婚したとか、 生活が豊かになったとか、あれもやっているしこれもやっているという、 ちょっと人がうらやむようなことをしていたとしても・・・です。 目に見えるような、他人からわかるような変化ではなくて、 自分にしかわからないもの、 一本軸が通るような確かなものを欲しかったし、探していたのだと思います。 その軸は、柔軟であり愛があり思いやりがあり、 ダメダメな自分も許せるような、 でもちゃんとそこへの努力もしている、そういう心といったらいいか・・・ それは、ずーっと穏やかでいるという聖人君子のような立派なものではないし、 嫌なことやつらいことがあってわめきながらも、 それでも、そこから何を得て学ぼうと努力するのか。 素直に自分の間違いを認めて、 今より、全体をより良くしていこうとする、そういう諦めない感じの軸です(長々と言えば)。 その軸を感じられると、 苦しい時に、苦しいけどなんか良かったなと思うような気がします。 生きて...

胸の中にあるもの

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自分がどうありたいか? と問いかける時の「自分」というのは、 「パターン」ではなく、本当の「私」がどうしたいと思っているのか? ということなんですがー ここがなかなかパターンは巧妙なので、 さも「私」が望んでいるかのようにうっかり反応してしまいます。 そういうとき、一旦リセットして語りかけ以外にも、 いろいろなワークをやってみています。 最近、特にやっているのが、 胸に手をあててつぶやく・・・というもの。 そう、とにかくここに向かっていろいろつぶやいています。 何かざわざわとパターンが騒いでいるなと感じたら、 黙りなさい!とぽんぽんと軽く叩いて、パターンへ言ってみたり、 どうしようか?と考える時は、 私、私、私・・・と、自分の中のパターンではなく「私」に意識を向けます。 また、心に軽さを感じている時は、 それでよし!ということでそのままでいいのかもしれませんがー こういう時も、全てのことに対して、 胸に手をあて、ありがとうございますと感謝の言葉を言います。 年末から語りかけているパターンの一つに、 他人からどう思われているのかを気にするパターンがあるのですが、 こんなふうにいろいろ体に触れながら、 パターンのそばにいるということをしばしやっています。 それで思ったのは、 パターンが出てきてケアをして、落ち着いて・・・ ということの永遠の繰り返しなんだけど、 もう少しじっくりとパターンのそばに居てもいいんだなと思いました。 っていうか、むしろもうちょっと長く居た方がいい。 だって、語りかけで、 これからは「私」があなたのそばにいてあなたを守っていくからね、 と言っているのですから。 本当にもう大丈夫と感じるまで、 心の軽さを持続させながら見守っていこう。 その行為として、 胸に手をあてる、声をかけるのでした。 青春のオサムグッズ

母のこと

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大事に思う人には、いつも元気で笑顔でいてほしい・・・ けれど、自分に置き換えてみれば、 元気が出なくて、あまり笑えない時だって普通にあります。 年越しとお正月は実家で母と一緒に私たち家族も過ごしましたが、 母はいつもの生活とは異なる状況に、 半分嬉しそうにしていたり、半分は無言でいたりと、 あきらかに戸惑っているように見えました。 「みんなで食べると、やっぱり美味しいわね~」 と言う母の気持ちは本当だと思いますが、 耳の遠い母には、私たちの会話はついていけなかったと思うし、 自分が食べたいように、寝たいように、好きなTVを見たりというのもできなかったと思う。 家族みんなで集まって長時間居るこの状況は、 決して嬉しい楽しいだけではない・・・のだろうな。 私と2人だけで過ごすことには慣れているけれど、 普段一人でいる場所に、ちょっと人が増えてしまうと、 母がとても気を遣っていることがわかり、 以前自分は、その気遣いをなんとか和らげたいと、 なんとか笑っていて欲しいと必死になっていたことがありました。 それが大分、みんなでいることの違和感というか、 お互いの不慣れさ、気遣いというものに自分自身が慣れてきていること。 ちょっと良かったなと感じました。 元気に楽しく笑顔で~を基準にしてしまうと、 そういう表情になっていない相手に、 こちらが申し訳なく思ったり、そうなってもらえるように頑張ったりしてしまいます。 みんなが幸せでいてほしい・・・ それはそうなんだけどー 自分がまずは楽しく、ゆったり実家での時間を過ごすことが大事だと思うようになりました。 近所のお宅に、 今度おじいちゃんと一緒に暮らすことになりましたと、 挨拶にいらしたご夫婦がいました。 私も、最近その方の歩く姿がおぼつかないので、 いつまで一人暮らしができるんだろうと心配していたこともあり、 ちょっとほっとしたのです。 でも、親子でもこれから一緒に住むって大変なことだろうなと思った。 お互いの生活が成り立っていての、全く違う生活が始まるわけですから。 一緒に住んでいない私は、 母がマイペースで暮らしているところにバタバタと行っては、やることをやって、 言いたいことを言って(連絡事項とか紙に書きまくり~)、 自分のタイミングで帰る。 それが自分のできる精一杯のことだと思い、今日まで来ているけれど、 そのご夫婦は、そ...

お正月といえば

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明けましておめでとうございます。 2025年も皆さまにとって良い一年でありますように。 穏やかな新年を無事に迎えられたことに感謝です。 今日は箱根駅伝を見ておりました。 お正月といったら、私はこれです! 普通に考えても、箱根の山を走ること自体がも~う超人です(往路の感動ポイント)。 その日の体調や天候が影響しながら、 10人全員でタスキをつなぐところにドラマを感じます。 選手って、 走っているときどんなことを考えているのでしょう。 10キロほどの道はあっという間ではないと思うし、 何も考え無しでは走れないような・・・ 後方の車から監督が選手へ向けていう言葉に、 何かを思い出したかのようにフォームが変わっていく選手がいたり、 前方を走る選手が見えた時は、急に力が出たり。 ただ無心になって自分のペースを守ったり、 常に体を修正しながら走ることもあるのかもしれません。 だけど一番は、その選手が何を感じて何を考えているのかによって、 現れる走りが違うのかなと思いました。 結果ではなく、そこまでの過程が大事ではあるけれど、 その過程をどういう心でやっていくのか? 走り方にこれまでやってきた『気持ち』が出ているようにも思いました。 人ががんばる姿は美しいです。 その舞台に立つまでの道のり、 あきらめたこと、やめたこと、黙って耐えたことなどたくさんあったでしょう。 自分の実力、今ある現実を見なければ、 自分がやるべきことが何なのかがわからないかもしれません。 華やかさの陰にあるものに惹かれます。 今年は、沿道での応援にも目がいきました。 大学の応援団ではなくても、 目の前を走る選手の名前をずーっと呼び続け励ます姿がありました。 こういうのを見てしまうと、ぐっときちゃうのですね・・・ 誰かを応援したり、何かに熱くなるというのが、 自分は好きかもなって感じます。 明日の復路もTVの前で応援しまーす! 今年はじめての、空、きれい!