投稿

11月, 2024の投稿を表示しています

「責める」の意味付け

イメージ
「責める」について、 中立ワーク(意味付けを考える)をしてみたいと思います。 自分にとってのマイナスの意味付けとしては、 (そう、あくまで世間一般にではなく、自分にとってはどうかです) ⊖ 攻撃している、意地悪くする、その人が悪いと思っているからする、 裁き、問い詰める、威圧感を与える、相手への批判や非難、自分を守りたいからする プラスの意味付けとしては、 ⊕ 明らかになること、責任が明確になる(無責任にならない)、 原因(理由)を知ろうとする行動、相手の非を伝える勇気を使う そして中立には、 ただ一つの体験、絶対ではないもの。があります。 「〇〇さんを責めることになるから、言わなかった」 会話の中に出てきた言葉に、なんだか引っかかりました。 責めるのは良くないから(してはいけないことだから)、しなかったということなんでしょうが~ 責めることって本当に「悪」だけなんでしょうか? 時には責めることで、 相手に何かが伝わるということもあります。 責められてはじめて、その人は何か気づくかもしれないし、 責めることで、一石を投じるような、 悪しき習慣を変えるということもあるかもしれません。 また、責められた人は可哀そう・・・というのもどうでしょう。 誰も責めずに物事が良い方向へ向かうならば、 それに越したことはないけどー 責められたと思われたとしても、言わなければわからないこともある。 大事なことが伝わることで、相手も言ってもらってよかったと、 大分経ってから思うこともあるかもしれない。 以前、「言わない」「黙る」っていうことは、 誰の批判もしていないってことだからいいんじゃないの? って思っていた時がありました。 言わないほうが人を傷つけずに済むと・・・ でも、何も言わない、反応しないということで、 相手が悲しくなったり、傷ついたりすることもあるのです。 無反応、無視、無関心はとても寂しいもの。 だったら、責めることで自分の悲しさを伝えたっていいのではないか・・・ 責めないように、言わないように、聞かないように、 問題としないように、指摘しないように。 自分は何も感じていませんよー誰も責めませんよーって。 あたり障りなくやり過ごすことが悪いことではないけれど、 何だか生きている実感がそれで湧くのだろうか? ぶつかって何か変化があってもいいのではないか。 自分がもしも責めら...

今の若い人って

イメージ
いつの時代も、今の若い人は・・・ とつい言ってしまいますがー (ここで言うのは10代後半~20代前半の若者のこと) その考え方、捉え方、感じ方、創造力といったところに、 年々わたくし、驚きを隠せなくなってきております、はい。 自分たちの若いときとは比べものにならないくらい、 さまざまな情報が簡単に手に入り、 SNSでの発信もあたり前にやっているせいか、 なにか自分を見せることに物怖じしないような感じがあります。 多様性って言葉が何かにつけて出てくるように、 とにかくいろいろな人、いろいろな考え方がある今の時代に、 生まれた時からそうなので「人はみな違う」ということにも慣れているんでしょうね。 人に無関心だとか言われたりしますが、 人が人に影響をあたえるという概念も薄いのかな? 影響をあたえるのは、大量の情報の中から得たものや何かしらの体験。 そこに人は付属のように付いていて、 感情的にドライに見えてしまうのですが、 その距離感や親密度の度合いがまた、よい意味で、 自分の世界に(パイプの中に)他人を入れずに済むことがあるのかもしれません。 どんなに親しくなっても、 自分のパイプを本能的に守ろうとしているような・・・ たまに若い人と話す機会があると、 自分の持っていないものを持っている新鮮さというか、 新たな発見がたくさんあってもっと話が聴きたいなあって思ってしまいます。 自分はいくつになっても未熟だし、 そう思っているわりには、おごってしまうところもあるし、 若い人のとても純粋で素直な目を見ると、 そういうところを見透かされているような気がしたり・・・ そして、その姿から教わるものが多いのだ。 先日は、年が上だというだけで、 何だか自分が偉そうに話していたのではないかと思ったら、 急に恥ずかしくなってしまいました。 ってそんなことすら相手には大した問題じゃないんだろうけど・・・ その一方で、ときどき魂同士が触れ合うような感じもあって、 わくわくしながら自由に話している自分もいました。 人生80年(今は100年?)と考えたら、 これからますます若い人、年下の人たちとの関係づくりが必要になってきますね。 こういう出会いからも学べるのはとてもうれしいです。 久しぶりのケーキ

ふさわしくないもの

イメージ
この頃は、自分の中から積極性とか向上心とか、 何か前向きなものが、薄れているような気がします。 今いるところに立ち止まってみたくなり、 後ろを振り返ったり、 何もせずにいてみたり。 そんな中でも毎日やらなければならないこともありますので、 そういうことはあれこれ考えずにやるんだけど、 こうしたい!っていう意思を持ってやる部分が・・・あんまりないかも。  よく言えば、流れに身を任せているっていえばいいのか~ 成るようになっていけば、まあいいかなと、 自分が考える良い成り方ではなく、 もっと違う大きな視点での良きことであればいいかな~という感じです。 自分の個性(よく言われる性格)として、 積極的だとか、好奇心旺盛だとか、行動力があるとか、 自分でもそこは、良さとして認識していたりしてますが、 全くそうではない自分もいて(白があれば隣りに黒があるように)、 今はそっちの方が自分らしいような気がしています。 昨日の日記にも書きましたがー 自分にはふさわしくないものを、 自分が発揮するべきことと思ってはいないか? 自分にふさわしくないものって何だろうって考えています。 生き生きした自分って、こうだよねって、 自分がこうなると輝くよねって。 その思いこみは、どういうものなのだろうか。 少なくとも、受動的ではなくやっている、 成長したいという向上心の元やっている、 なんだか、このあたりがヒントになっていそう。 そんなに考えてもいないし、積極的にも動いていないのに、 向こうの方からやってくることがあります。 やってくるから、ありがたくそれをしている。 やってきたものは受け入れ、それに集中してやる。 そこにもっと、もっと、というものが生まれると途端に、 ただ、感謝してやっていたものが、何か別ものになってしまう時があるのです。 力を抜いて純粋にやっていたのに・・・ 楽しくやっていたのに・・・ 急に別ものになっていく、この変わりよう。 それ以上何かをしようとしたものなら(←パターンなんだな)、 もうそれとは違ってしまう。 天にとって(全体にとって)良いことが、 自分だけにとって良いこと、 特定の人だけに良いこと、みたいになってしまったからなのか? ここでいろいろ頭で考えていくと、 またちょっと難しくなってしまう気がします。 心地よく、軽く、広く、清々しい落ち着き。 そういう感覚...

本来の自分へと戻っていく

イメージ
今日は岩手クラスの勉強会でした。 後から気づいたのですが、 自己開示というあらたまったものではなくても、 自分が思っていること、相手のお話で気になったことなど、 大分そのまんま話せるようになったと感じます。 (皆さんのおかげ~) 何より、心が軽いです。 お互いが本当に清々しいくらい正直になって話せているのだと思う。 Fさんの近況を聞いていて、 その葛藤は今のFさんだからこそ必要なものなんだろうなあ と、なんだかそういうことが起きて良かったなあと思い聞いていました。 答えはもう決まっているけれど、伝え方をちゃんと納得いくものにしたい。 そういうところが私自身もあるため、何かしらのパターンなのかなと、 自分に置き換えてみて考えました。 こうしてみると、全てが必要なものしか与えられておらず、 なんと、これって幸せなことなんだろうって思った。 わざわざ、私、成長したいです!って思わなくても、 自分に合った成長の題材は次から次へと向こうからやってくるのだから。 『新しい自分へ変わっていくのではなく、 本来の自分へと戻っていく。』 師匠の言葉をあらためて考えました。 戻る? 戻っていくのは後退しているのではなく、本来の自分に戻るということですが、 思い出していく作業だったり、自然体になっていったり素直になっていく作業だと思う。 自分で刷り込んできたたくさんのパターンたちと共に、 それがあることを許し、そのままを認め、 そこでどう自分はありたいのかを考えていく作業もあります。 理解のある自分、じたばたしない自分、 他人に振り回されない(ように見せる)自分でありたいという、 そういうパターンの理想が、『理想のあり方』になってしまっていたりするので、 そこを見極められるようになっていきたい。 パターンの理想は、 きっと本来の自分とは違う自分を思い描いているはず。 ありのままでは、どこかダメだと思っているんだと思う。 また、これも師匠が言った言葉、 『自分にはふさわしくないものを、 自分が発揮するべきことと思ってはいないか?』 これにも、みんなが引っかかり・・・ 自分にふさわしくないものをふさわしいと思っているんじゃないか?と、 想像すると、かなりゾッとする感じもありますし、 実際にそうなっていたとしたら、 それはかなりの苦しさが伴うものじゃないかと・・・ パターンが考える自分にふさわ...

小さな変化

イメージ
いろんなことをストップさせるために、 体って不調になるのだなあと思いました。 いっぱい寝て、ぼんやりと過ごし、スマホもいじらず、 家事も育児も仕事も、約束事も友達付き合いも習い事も、いろんな習慣もみーんなやめたっていい。 とにかく、休めー、病院にも行けー という感じに強制終了してくれる。 今、私も必要最低限のことをしながら、 いろんなことをやめてみては、 今まで無視をしてきて本当にごめんなさい・・・と自分の体へ謝っています。 これ、パターンに語ってきたことと同じなのですが、 不調も一つのパターンの表現なんだと思えてきました。 だから、そうだよねって、 パターンへの語りかけのように、体へ、 それをするよりこっちをした方がいいよね。 そっちよりこっちを食べた方がいいよね。 ちょっとがんばるより、しっかり休んでみた方がいいよね。などなど、 毎日気づいたことを話しかけては過ごしています。 頭を使うこと、考え続けることは、 特にも体にとってやってほしくないことの一つだと感じます。 だから、パターンへの語りかけもできません(人によってはできるのかもしんないが、自分はやれなかった)。 その代わりに、 体の声を聞くように、細胞一つ一つに意識を向けることは何となくやれている気がします。 微かに良くなる兆しも感じたり、抵抗しようとしたり、 いろいろ体って小刻みに心のように反応しているんですね。 これって、まさしく、考えてわかるものではなく感じてわかること。 最近やっと、 ああ、結構怒っていたんだな(パターンは)って、 自分の奥の奥にあった感情を感じ取っています。 すべてにスローなペース。 先のことを考えず、目の前のことだけでいい。 体が教えてくれることを素直に受けとめる。 この小さな変化が明るい気持ちにさせてくれます。

ワークで笑う

イメージ
黒パターンから白パターンへ選び変えようとするとき、 まずは、今まで(黒パターン)とは真逆のものって何?と考えてみます。 今までとは真逆な考え方をするって、ちょっと強引です。 到底今の自分にはできないものではあります。 だって、この人嫌い!ってパターンが思ってイライラしている時に、 真逆な考え方もあるんですよ~って言われても、 この人嫌いじゃないです!とは思えません。 だからこそ、一旦、今あるパターンの真逆って何だろう?と考えるのですが、 そこはとても事務的にやっていました。 ところが・・・ 先日、講座の中でびっくりしたことがー。 ●自分が責められたくない というパターンがあった時、 とりあえず真逆なパターンは何かと考えると、 〇自分が責められてもいい になります。 つまり、自分の心の中にそういう正反対なものがセットで必ずあるんですね・・・ (心の中も陰陽があるから) と説明すると、ふふっと笑いが起きました。 え、ここで笑う? この真逆のパターンを声に出して言ったときの笑い、 この感性とてもいい!って思ったのです。 ワークって、真剣に考える中でも、 おもしろさというか、あ、これだ!っていう発見とか、 素直な驚きを感じることもあります。 ●もうあんな言い方されたくない の真逆は、 〇もうあんな言い方されてもいい! え~、あんな言い方されてもいい~?え~そっか、されてもいいのか~(ふふっ) ●自分にばかり仕事をおしつけないでほしい の真逆は、 〇自分にばかり仕事をおしつけてもいい!  え~、おしつけられてもいいってこと~?自分ばかりに仕事を~?えーーー(アハハハ) こんな感じに、パターンを深刻にするのも、ライトに捉えるのも、 全部自分次第なんだと思いました。 真逆のパターンを考えるって、まだそこに現実味がないから、 意外すぎてウケてしまったということなのかもしれませんが、 その意外性を感じるところから、 自分に合った白パターンにつながっていくように思います。 真逆なパターンを考えただけなのに、 何だか笑えて、何だか救われる・・・ 今自分が深刻になってケアしようとしているパターンは、 実はそんなに重々しいものではなかったのかもしれない、とさえ思えます。 笑い声に教えてもらいました。 今年も、来てますよ~

健やかに穏やかに

イメージ
今日は母と一緒に公民館の紅葉を見てきました。 お天気が良かったので、たくさんの人がそこの庭園を見に来ていて、 真っ赤なモミジが空に広がり圧巻でした。 庭園の中は舗装されていないので、 でこぼこした歩道を転ばないように、 母と手をつなぎゆっくりと一周しました。 途中、七五三の着物を着た可愛い子どもたちともすれ違い、 母は「あら、可愛いね~」と笑顔で声をかけていました。 自分の七五三って全然記憶にはないのですが、写真はあります。 もう着物が窮屈でしかたなく、 早く脱ぎたい!という、すごい不機嫌そうな顔で映っている自分。 若かった両親はさぞかし私をなだめすかして、 何とか写真を撮ったのではないかと思うのです。 そうやって子どもの成長を願ってお参りをしてくれたことに感謝です。 今は、自分が母を健やかに穏やかに老いてほしいなあと願い、 一緒にこうして季節を感じながら散歩ができたことが、 とても嬉しく思いました。 そういえば先日、 自分の年齢を母に教えたら、え~~~、あんたそんな歳になったの? と、ものすごくびっくりされました。 実際よりも15歳くらい若いと思っていたらしく・・・ そのあと、まじまじと私の顔を見て納得したようでした。 最近母は、寝る前に昔のアルバムを開いては、 兄と私の小さかった頃の写真を見て笑っているそうです。 兄が私の手をひいて歩いている・・・というだけで可笑しいようで~ それは私がお年寄りを見ると、 それだけで微笑ましく思う気持ちに似ているなと思いました。 お年寄りってみんな、 可笑しなことをしているに違いないと想像してしまいます。 それは、自分の親が、おもしろくて優しくて愛がいっぱいの存在だったからだと思う。 だから、お年寄りを見ると恩返ししたくなるし、 優しい気持ちになってしまいます。 そして、あともう少しであちらの世界に行くやもしれない、 そんなお別れを思うと(ちょっと勝手に申し訳ないけれど)、 寿命まで、最期の時まで生きるって、 それ自体がもう充分で、成し遂げたということであって、 大往生ではないかと感じます。 時々そういうことを考えては、 今、こうして生きていることを確認するかのような、ありがたい気持ちになる・・・ 不思議だー。 食は細くなっても、別腹は変わらず! 母には、本当に生きてもらっているだけで、 ありがたいです。

がんばり方について

イメージ
完璧主義という言葉がありますがー・・・ 自分は全然そうではないと思っていたのですが、 こうなっていきたいという願望、 思い通りにしたいという気持ちがあったならば、 それは完璧主義みたいなものではないかと思いました。 ~すべき、~した方がいい。 まさに、これ、パターンですね。 自分自身の行動に対してもですが、 それよりも思い通りにしたいのは、他人の行動に対してです。 何をそんなに完璧に近づけたいのかといえば、 結果ではなく、その過程でいかにがんばっているか? これをやっていたんだなあと思いました。 自分はがんばっている、という自負があるときは尚更、 そうしない人(パターンの理想ではない人)を見るとパターンは許せないんですね。 がんばることは私の場合、小さい頃から慣れていることなんだと思う。 もう物心ついた頃から、がんばって偉いね!とか、がんばり屋さんだね! と言われて喜んできた(刷り込まれてきた)歴史があります。 自分を満たすものはそういうものにあったのだ。 気楽に、もっと力を抜いて~ そうなることが下手な自分は、気楽になれるようにさらにがんばっている・・・ また、パターンは気楽な自分を目指そうとすると不安を覚えるような気がします。 気楽じゃだめでしょ、がんばった方がいい結果が得られるよ、気分がすっきりするよ!とささやく。 パターンは一生懸命とか、やりきるとか、 後悔しないようにとか、そういう『がんばり方』が好きかもしれません。 そうする自分を誇りにも思うから。 もっと気楽にやればよかったって、 実はその軽さにこそ、誇りに思える自分はいるのではないか? そう感じられるように最近なってきました。 完璧さはもう要らないし、 思い通りのがんばりでなくてもいいし、 ましてや、他人ががんばっていなくたっていいのかもしれない。 自分がそこそこのんびりと、ゆとりを持って、お気楽に仕事でも何でもやっていると、 かえってその方がいいあんばいで仕事(いい状態)ができていたりする。 がんばらない効用として、 体が健やかさを保てる、頭に血がのぼらない、イライラしない、焦らない。 何より冷静に他人も見れる。 そうなればもう少し自分にも他人にも優しくなっていくような気がしました。 もこもこでかわいい

より良い自分になるために

イメージ
白パターンを作るときに、 「もしかしたら、~~~って決めつけなくても、もう、いいのかもしれない」 ゆっくりと声に出して言っています。 真っ黒だった自分から、 あれっ、もしかして・・・そうなれるのか、自分? と少し良き予感がするような、 これまでとは確かに違う自分であるけれど、そんなに無理をしていない。 でも、とても可能性に満ちている自分がいます。 決めつけていたものが、 決めつけなくてもやっていけるのかもしれない。 そう感じられるって、 穏やかな希望を感じます。 ふわ~っと、自分の体も軽くなって、 何だかやっていけそうな気持ちになるのです。 そう、本当に無理がなく・・・ これってこんなに大事なことだったんだ。 より良い自分に選び変えるためのワークで、 黒ではないけれど白まで行っていない、グラデーションのグレーが、 自分を一歩、また一歩と、理想ではなく現実的な行いへと導いてくれる。 まさに「より良く」なっていくって、 こんな感覚を持つことではないかと思う。 イチョウと青空 この配色いい~!

いつでも幸せがある

イメージ
このところ時間がとても早く感じられていたのに、 今週は長かった・・・やっと週末がきた~という感じです。 少し調子よくなってくると、 少しずつ思考も動き出してきた感じがあります。 そのいろいろな考え(パターンだが)をさらに実現させようと、 この口が言い、この表情がそうなり、しぐさから態度、 そして体が動くと行動へと移されていくのがわかる。 そして、相手がいれば、相手もそれに対してその人のパターンで反応し、 またパターンで言葉をかわし、パターンで行動していくのだ。 そうやって本当に「私」ではないところで動いて、 それが無意識な行動パターンとなっていって人が作られていく。 それが自分だと疑いなく思って生きている。 一旦パターンが心の中で反応したとしても、 それを具体的に実現するすべがなければどうなるのか? 肉体が思うように動かなければ、何も起こらない? と思いきや、自分が見る世界が変わっていく。 パターンで見ている世界の中に自分がいるため、 そこから次につながるものも、思いこみや決めつけで想定し、 体が動くときにもうしっかり準備態勢に入っているのだ。 でも、その準備段階で心のもやもやを察知すれば、 あっという間に思いこみや決めつけがふにゃふにゃとなって、 「私」が意のままにかたちを変えて適応していくように思う。 これを何と表現したらいいのか・・・ 意思があるけれど、それが全てパターンの意思ではなく、 「私」が決めていけるよう、 パターンもなんだか、「これ、俺様の出番じゃないな」と感じてもらっているような感じ。 そうやって本当の「私」だけが自分を作るのではなく、 パターンからヒントをもらったり、不調という肉体的反応で教えてもらったり、 『自分』へ協力してくれていることを感じます。 見えないものたちが支え励まし、そして導き、 ちゃんとやりきっていくように働いてくれているということなんでしょうか。 だとすると、本当に自分は、というかー 人ってどんな時でも(つらいことがあった時でさえ)幸せなんだなと思った! 週末、のんびりできるこの幸せ。 窓際に、犬のぬいぐるみが・・・(ペットの学校でした)

体調が悪いとき

イメージ
先日はじめて、 腰というか背中というか脇腹のあたりに激痛が走り、 何が起きたんだ!という経験をしました。 その数日前から風邪を引いたのか、悪寒や倦怠感、頭痛もひどくって、 何もする気が起きず・・・ とどめを刺されたような感じがしました(もう~動けない)。 ちょうど3連休だったので体を休ませることができましたが、 平日だったらきっと仕事を休み、 休んだことで少し気持ちがへこんでいたかもしれません。 こういう時、普段の健康がなんとありがたいものか・・・身に染みて思います。 そして、具合が悪い~って思いながらもまだ生きていることに、 生かされているって何だか自分の意思とは別のところで動かされているようで、 すごいことなんだなあと手を合わせる。 体力の低下は実感することがあっても、 病気を意識するというのは久しぶりだったと思います。 どうしてこんなに痛いんだろう・・・ 今後の生活を真剣に考え、 静かに自分の中で覚悟する感じがありました。 若い頃のガンの経験もあるので、そういうことも想定したり、 もしどこも何ともなかったとしても、 これからも今まで通りで、生活を何一つ変えないというのはどうなんだろう? ゆったりした時間を今年に入ってから持てなかったこと、 好きでやっていたことでさえも、疲れてしまったということは、 やはり何か違っていたんだなと感じます。 そして、好きなことをしたいというは、 単なるわがまま(エゴ)でもあるし、 誰かのためにしたいというのも、おごりがあったと思うし・・・ 結局は自分にとって良いことではなく、 天にとって良いことをしたいはずだったのに。 いつの間にか、思い通りにいかないことを思い通りにするがごとく、 がんばっていたんだなあ。 体調が悪いときって、 頭が全然回らないので、何も考えられない分、 感じたままにやるしかないという体験ができます。 体がついて行かない時の方が、パターンで仕事をしない・・・ということも何となく感じました。 無心でやっているというか、そこに策略もなく、期待もなく、あきらめも今は普通に受け入れられる。 どういう結果になっても、それを受け入れる覚悟をしているので、 不安もあるようなないような・・・ 痛みで頭が回っていないという体験はまだ続きそうな感じがします。 仕事はよーく考えてやるもの、というのも、 ほとんど考えなくても何とかなって...

パターンの段階いろいろ

イメージ
黒パターンにたくさん喋らせる・・・ これはこれでありなんだと思いました。 あ、これ、パターンが騒いでるじゃん! と気づいてすぐに語りかけることもありますが、 気づいてしばらく黒が言いたいように言わせてー もう出し切ったか? と思ってから、ゆっくり黒パターンの話をまた一から聞いていくと、 今度は黒パターンも少しずつ、 本当に言いたいこと、 本当にわかってもらいたいことを整理して話してくれるように感じます。 なんだかわからずに不満爆発だったものが、 ここが苦しいんだよね、嫌なんだよねって、 まとまった話になっていくような気がします。 それをしているのは、黒パターンなのか? それとも本当の「私」がそれを引き出してくれているのか? 「私」の存在が、黒パターンを変えていくようにも感じました。 だから、まずは腹の内を吐き出していくことも大切なんだと。 パターンで喋っていくと、一旦すっきりしたような気分になります。 ああ~せいせいしたあ! って感じることもある。 そこには、パターンをそのまま受け止め、 何の否定も評価もせず、自由に言いたい放題にしているため、 スカッと感なのです。 でも、本来はそこではなく、 新たな自分になっていきたいので、 スカッとした(やってやったぞーっていう感じではなく) もうそこは選ばないということを練習です。 もっとほんわかしたような軽さでパターンを見ていきたいのだ。 「私」が落ち着きと静けさと明るさをもって、 パターンの話を聴く。堂々と聴く。 パターンも勝手に喋りたいのではなく、 ちゃんと話を聴いてほしいのだ。 東屋の下で昼休み~