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7月, 2023の投稿を表示しています

実力をだすには

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ある技能競技大会の審査員をしたときのことです。 私が担当したのは、参加者数名という小さい規模の種目でしたが、 それでも選手たちには緊張がみえました。 「良いところもちゃんと見ますので、ミスしても焦らず普段通りにやってくださいね!」 と少しでも実力を発揮してもらいたくて、そうお話しました。 話してすぐに、 それが一番むずかしいことなんだよね、と気づく・・・ はじめはギャラリー客もほとんどいなかったので、 適度に落ち着いた空気の中、順調に競技がすすんでいきました。 そこへ、競技中の選手を撮りたいという方たちがやってきます(写真はOKになっていた)。 少しギャラリーが増えたなあという印象でしたが、 その選手も大きな声であいさつをし、スタート。 そのあと、ギャラリーの変化には気づいていなかったのか、 顔をあげ、選手は自分の進む方向を見て、ハッとしてしまいます。 なんとまあ、さっきの何倍もの観客が集まっているではありませんか!! 観客のすぐそばを通るという場面では、とても緊張したのでしょう、 一回目はできていたことがまったくできなくなってしまい、 大きく減点になってしまいました。 その後もミスが続きます。 こんなにたくさんの人から見られるということは、 選手も予想していなかったのだと思います(私もびっくりした)。 大会なので、人がいてあたりまえなのですが、 普段の生活の中では、 そうそう無いことかもしれません。 実力は、普段通りならば出せるのでしょうが、 そうではなかったときは、もうだせない。 ということなんだろうかと思いました。 自分がたくさんの人から見られるというとき、 緊張が走り、心臓がばくばくして、 今やっていることにもう集中できなくなくなってしまいます。 そうなったときにこそ、チャンスです。 ここからどうやっていくのか?なのだと思いました。 自分を見失うという事態は、よ~~くわかるし、 それでもいいのかもしれません。 でも、競技としては、 ここから立て直していかなければならないです。 日常は、競技ではないけれど、 この感覚は必要かもしれないなあと感じました。 ピンチの場面でも、本来の自分に戻っていけるということを、 こういうときこそ勇気を使ってやってみる。 恥ずかしくて緊張して不安になってはいるけれど、大丈夫だと感じてみる。 まずは、いっぱい深呼吸をして。 ざわざわ...

転職の魔王様

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犬岩! TVドラマ【転職の魔王様】を見ています(まだ第2話)。 転職を希望している人へ、 冷たくも核心をついたことばを投げかける、 成田凌さん演じるキャリアアドバイザー(魔王様)がとてもおもしろいです。 転職したいと言ってくるお客様に、 この人の転職の動機は何か? ドラマのはじめと終わりで、人が働く理由というものが変わっていきます。 いつも嫌なことにぶつかるたびに転職を繰り返す。 今よりもっといい人間関係の中で働きたい。 自分の能力はこんなもんじゃないと、いい会社ないかなと探す。 またはその逆で、 自分には取柄がなにもないから、このくらいの会社が楽だろうと選ぶ。 よく、辞めた理由を聞かれることはありますが、 志望動機とは違う、どんな人生を送りたいのか? という問いを投げかけていく感じです。 会社が、仕事が、人が、 自分自身がいやだから~の転職と、 自分の幸せを真剣に考えての転職では、まったく違う将来があります。 第1話では、 パワハラを受けて転職を決心した主人公に対して、 「今のあなたでは、どこに行っても何も変わりませんよ」と、 「また社畜のように働くだけです」と、きつい言葉を投げかけます。 第2話では、 その主人公が、魔王様の部下(アドバイザー)となります。 入社して毎朝事務所の掃除を率先してやり、 夜中までお客様のためにサービス残業を行い、とにかく一生懸命働くのです。 そんな健気なとも言える主人公に、 「人が喜んでくれることや、望むことをするのではなく、 自分の本音や望みを知ることが、何倍も大事なのじゃないのか」 と、これまでの価値観をばっさり切り捨てます。 本当にそうだなあと思いました。 人のためになること、喜んでもらえること、相手を不快にさせないこと。 自分より相手に機嫌よくいてもらいたいと一生懸命がんばる人もいます。 それが悪いということではなく、 誰のための仕事なのか、誰のための人生なのか。 自分のために何かをするということが、 他人ばかりを見て生きていると、 そこから変わることが怖くなってしまうのかもしれません。 そして、「誰かのため」の方がなんとなくいい人っぽい感じもします。 また、過去は忘れて、新しく生きよう! というのはポジティブに見えますが、 忘れてはいけない、スルーしてはいけないものもあります。 ネガティブな思いをしている自分を取り残して、先...

きっと大丈夫なんじゃないか

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岩手のお酒 南部美人 私は日本酒が好きです。 ビールよりも酎ハイよりもワインよりも。 強くはないですし、あまり量も飲めないのですが、 居酒屋に行けばどんな日本酒があるのか、 メニューを見るのも楽しいです。 でも若い時にこの写真のお酒を飲んだときは、顔をしかめ、 甘口と書いてあるのに、辛~~~いって思い、飲めませんでした。 たしか、親戚の法事ではじめて口にしたと思うのですが、 香りを嗅いだときは飲めそうだと思ったのに、 辛すぎて、酒の味全開で(だって、酒だから)! 日本酒のおいしさというものが、 まったくわからなかったのです。 そんな舌をもつ私が、 あれから、うん十年経って・・・ 日本酒の種類がわかるとか、銘柄をあてるとか、 そういうことはいまだにできませんが、 美味しい日本酒を用意し、おつまみを作り、 月に2~3回程度でしょうか、家飲みをするようになりました。 この時間がとても楽しく、やすらぐのです。 この南部美人というお酒も、 衝撃の初飲みから、今では、 甘口で飲みやすいなあと感想もかなり変化しています。 子どものころ食べれなかったものが、 大人になって食べられるようになることがあります。 以前は苦手だったものが、 いつのまにか、大丈夫になっているどころか、 好きになって楽しめるようにすらなっている。 そういう、その時は思い描けないようなことが、 何年か経って変わるということを体験していると、 今はとても無理だ、と思っていることも、 いつか何かのきっかけで少しずつ変化するかもしれません。 自分がそうなりたいと思っていなくても、なる。 ということが起こるかもしれません。 それが、一見いいことに見えなくても、 きっと大丈夫なんじゃないかと思えてくるのです。 10年後の自分。いえいえ、3年後、1年後だってまったくわかりません。 でも、他人とくらべず、 自分のパイプの中を、せっせと磨いている途中で、 曇って見えなかったものが見えたり、通りがよくなったり、 自分が想像しなかった風景を見れているかもしれないのです。 それがわくわくするものでなくても、 どんなものであっても、 そこに、今より正直になっていられる自分がいるといいなあと思います。 お酒の話から、ぶっ飛んでしまいましたが・・・ 焼き鳥は、塩とタレ両方

「本当は・・・」はいらない

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八ッ場ダムってかっこいい! さらっとちゃんと 言う。 ということを日常の中で意識しています(ただいま、練習中)。 今思ったこと感じたことを、後からではなく、今、言った方がいいなとか、 なんかよくわからなかったから、後じゃなく今、聞こうとか、 少しそこに間がありますが、 自分の本心の言葉を探して、それから気負わずさらっと言う。 それができたとき、 ああ、こういう感じで自分はしゃべりたかったんだなあ。 と、そこで黙ることがなんと不自然なことだったのか、気づかされました。 心の中ではじめに出てきた言葉を、 そのまま使うときもありますが、 黒パターンが言っていることもあるので、 それを察知したときは、間をおき、白パターンに置き換えて言うように注意しています。 後から、あのとき本当はこう言いたかったとか、 本当はここを聞きたかったとか、 『本当は・・・』という部分が(実際に口に出して言わなくても)、 これまでかなり使ってきたように思います。 この、『本当は・・・』という部分、くせものです。 使えば使うほど、 自分への正直さや誠実さが失われていく気がするのです。 本当は、といっている自分が嘘くさいのだ。 今、言えば、聞けば、いいことを、 わざわざ後から、言うべき相手ではない人に言ったり、 聞くべき相手ではない人にたずねているのですから。 たとえ、誰にも言わずとも、 自分自身が、本心に蓋をして感じなかったふりをしていることにもなりかねない。 言いたいことを言えたり、 わからないことを聞けたりしたとき、 それでもやもやが解消されるということもありますが、 それ以上に大事なのは、 そんなふうに行動に移せたということ。 言えた、聞けた、というのが、 これまでとは違う、人との流れをつくるような気がしました。 そして、とても自分自身が身軽になっていくようです。 その場で、一つ一つが消化され、 次に進んでいけるような、道が開けていくような気がしました。 そして、また周囲も、 同じように、思っていることを言ったり聞いたり、 ということが自然発生してくるように思いました。 自分ひとりでも、その場の風通しってよくなるものなんですね。 一人の力は、意外にも大きい!! 自分の(パイプの)通りをまずはよくすることを、 やっていこうと思います。 吸い込まれそう~

みんな守られている

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銚子電鉄の終着駅 無事に家に着いて、 やっぱり家のお布団で寝るのが、一番落ち着くなあと思います。 昨日から仕事もはじまり~、 思ったよりも自然に時間の感覚がもどっています。 (って、海外ではなく日本ですから・・・) それで、あらためて今感じていることは、 毎日の生活でも、旅行でも、どこにいても、 みんなが何かに守られて、そこにいるんだなあということ。 私だけでなく、 夫も、娘も、両親も、友人も・・・みんながみんなです。 天気予報では、連日大雨だったり、真夏日だったり、 出かけるにはあまりいいタイミングではなかったのですがー 車のトラブルにもなんとか持ちこたえ、 お天気にもさほど影響されず、 熱中症にもならず、 多少の筋肉痛があったくらいで(伊香保の階段が効いた~)、 こうしてまた、いつもの日常に戻り過ごせています。 本当にありがたいことだなあと思いました。 旅に行く前の普通の暮らしに、 ちゃんともどれている。 それが、 本当はすごいことではないかと思ったのです!! 守ってくれている方々がいて、 私たちは日々過ごせているのだと思いました。 それが、今回の旅で一番ありがたく、感動で、 心にじわじわと感じられたことのひとつでした。 母親にお土産を届けに行ったときも、 どこに行ってきたの? となんども繰り返し話す様子に、 ああ、いつもの母だと、ほっとするような気持ちになりました。 旅をすることで、 自分にはこれ以上ないほど自分に合った生活が、 ここにあり、そして守られていたことを気づかされました。 非日常を体験することで、 わかるものなのかもしれませんね。

みんな年をとる

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伊香保温泉の階段(365段!!) 宿に泊まったときのことです。 朝食会場はどこですか? と、館内を迷っていたおじさんがいました。 私はすぐに、 あ、この人認知症なんだろうなあと思いました。 聞くと、毎年この温泉で同窓会を開いていて、 仲間に会えるのが本当に楽しい、と言っていました。 朝食会場まで一緒に行くと、 お仲間さんたちはみんな座って待っていました。 私もお盆片手に、どれにしようかな〜と、 バイキングのおかずを時間をかけてまわりました。 夫はその間、席を取って待っていましたが、 ずーっとさっきのおじさんを目で追いながら、気になって仕方ない様子。 バイキングの取り方をスタッフの方に何度も聞いていたり、 会話に入っていけないのか、一人黙って食べていたり・・・ といった諸々のことを観察しては、私に報告してきます。 私も以前は夫のようだったなあと思いました(いや、もっと気になって仕方なかった)。 そういう人を見かけると、父親の姿と重なるのです。 戸惑っていたり、寂しそうにしていたりすると、 居ても立っても居られませんでした。 ちょっとでもそういう人に優しくない人を見かけると、 文句を言ってやりたくなるほど腹が立ったりもしました。 でも、今は少し感じ方が変わっていることに気づきました。 困っていたら助けてあげようという気持ちは変わりませんが、 その人がかわいそうでたまらない! という感じは、薄れているような気がします。 周囲の優しくない反応も、 優しくないわけではないのかもしれないし、 たぶん認知症のことがよくわからないんだろうなあと。 いろんな年の取り方があるのだと思います。 私自身が、認知症の人(その傾向がある人)や、 その人を取り巻く環境にもいろいろ事情があるということに、慣れた。 というのもあるかもしれません。 捉え方が変わると、 抱く感情も変わるのですね。 いつかは、同窓会に出られなくなる日もくるし、 楽しかった思い出も忘れていくかもしれません。 だけどそれが年を取っていく自然の姿なんだろうなあと。 ちょっぴり寂しけど・・・ こうして旅行に来れたことを今は楽しみたいと、しみじみ思いました。 帰りにそのおじさんは、 またしてもどこか迷っていたのか、時間を間違えたのか・・・ 〇〇さーん、みんな待ってたよ! と笑顔で迎えられていました。

この違いはなに?

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車中泊の旅をしています。 初日の目的地に着く前、 なんと、車のエアコンが壊れてしまいました! 自宅を出るときに、 どうぞ無事で帰って来れますように、 そして、エアコン壊れませんように(暑くなりそうだったので)と、 車をなでた私の発言が、 ある意味命中してしまいました。 ああいうことを言うから、車がヘソ曲げたじゃー!と夫。 ディーラーは定休日。 いろいろ電話をかけまくりましたが、 部品が注文になるため、今日中は無理ですよ〜 と同じ返事が続きます。 このままエアコン無しで旅を続行するか、一泊だけして引き返すか(この日は宿を取っていた)・・・ 結局、良心的な車屋さんに助けられました。 ただ、エアコンだけでなく他にも不具合があり、 車がいつ走れなくなってもおかしくない状況だと知り、 明日以降どうしようかと二人で考えました。 ・・・と、ここで思ったのは、 突然のトラブルに、しかも出発して早々、 もう帰ることになるのかあ、という事態に、 自分の中にあるパターンが騒がなかったということ。 帰るのは残念だけど、仕方ないな・・・ これがとても意外でした。 そして、なんとか今こうして爆弾を抱えながら旅を続けているのですがー、 次の感情ポイントがやってきます。 夫が、 あ、この辺なんかおもしろそう! と言った場所(お土産屋さんが連なっているにぎやかな通り)に立ち寄ったときです。 私としては全然おもしろくもなんともない場所。 歩けど歩けど、やっぱりつまらない場所でした。 入りたいと思うお店もなく、わざわざ駐車料金を払って暑い中歩く・・・ これにはパターンが暴れまくります! ●こんなところに時間を使いたくない! というパターンが、 もっと見たいところがあるのに〜と、 一人イライラしてしまいました。 車の故障で旅の続行が危ぶまれた事態と、 つまらない場所を歩くという事態。 何となく、前者の方がパターンが騒ぎそうな気もしますが、 実際は違いました。 そうか、 変えられないものだから、 そのまま受け入れたからパターンが騒がず、 変えられるもの、ここは行きたくないと言えたはずのものに対しては、 変えようとしなかった自分に腹が立ったんだなあ(パターンが騒いだ) と思いました。 変えられないものと、変えられるものの違いが、後からわかった気がしました。

パターンを開示する

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今日は岩手クラスの勉強会でした。 はじまる前に、 仲間の言ったことに対して、自分の何かしらの引っかかるパターンがあったときは、素直に開示する・・・ つまり、何も動揺していませんよ~っていう嘘はつかない。 ということを肝に命じてのぞみました。 しかし・・・ 自分がパターンに引っかかったことを開示する前に、 他の方が、私の言葉に引っかかったと開示される場面がありました。 自分にとってはじめてのことだったので、 ちょっと緊張が走ります(おお、来たか!という感じだった)。 パターンがさわぐというのは、相手の問題ではあるのに、 一瞬、自分がその方の気分を害するようなことを言ってしまったのかなという、 自分の中にある●クラスの人から嫌われたくない というパターンが騒ぎそうになったのを感じとりました。 でもこれは、相手のパターンだから、仕方がないな。 とすぐに切り替えができるというのは、 自分もパターンが騒ぐときは、 ああ、自分への語りかけ(ケア)が足りていなんだな・・・と思うからです。 そして、これも今回はじめてのことだったのですが、 自分自身も、話を聴いている最中に、パターンを開示することができました。 相手が発した言葉の中に、自分の持つあるパターンが騒ぎはじめます。 これを伝えるには話を折ってしまいそうで、タイミングが難しかったのですが、 自分のパターンに、今、引っかかっていること、 相手の方は悪くないこと、 自分がこれからケアしていこうと思っていること、 そして最後は、それらを気づかせてくれたあなたへのありがとうを、 お伝えすることができました。 とても不思議な感覚です。 一般的には、こんなことをいちいち会話の最中にすることってまずありません。 言ってしまったら、 一体私の何が、あなたを不快にさせたっていうの!? とケンカになりかねないからです(または傷つけてしまうかもしれない)。 でも、今は、あえて、 正直にパターンを開示していくこと、自分をさらけ出していくこと、 それらを白で話すこと。 そうやって積極的に関係性を築いていくこと。 そして、まだまだ未熟である自分自身を自覚させてくれた、相手の言動に感謝をするということ。 それら一つ一つをグループで、学びなおしているような感じがします。 本当に、いろいろな学び方があり、 いかに自分が開示をする動機をクリアなものにしていくの...

あじさい

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家のあじさい 梅雨の季節、あちこちであじさいが咲きはじめました。 あじさいって、私のイメージでは、 一般庶民の生活に似合うお花という感じなんですが、 実はたくさん種類があって、 よく見ると、咲く場所によってかなり色合いや形が変わってくるようです。 あちこちどこにでも見かけるわりには、 どんな花が咲いていたかは忘れてしまう、そういう存在。 若いころはなんとも思わなかった、そのどこにでもあるあじさいが、 今年はなぜか視線が向いて、 散歩をしていても立ち止まって見入ってしまいます。 我が家にも一つ、 ホームセンターで買ってきて植えた、ごく普通のあじさいがあります。 本当は、真っ白のもこもこした丸いものか、 鮮やかなピンク系もいいなあと思っていたのですがー 結局、ホームセンターには普通のものしかなくて・・・ 欲しいものとは違った花が今、咲いています。 花より葉っぱの存在感がすごくて、 なんか思う通りの咲き方じゃないけど(ここでも、思い通りにしたいパターン登場) これがまた、とても愛おしく感じます。 空き家で、何年も誰も手をかけていないような家の庭にも、 あじさいが咲いているのをよく見かけます。 今はすっかり寂しそうなその家にも、 かつては家族が暮らしていて、 今年も咲いたなあ、きれいだなあって思ったんだろうなあと想像したりします。 何年でもそこにいるあじさい。 雨にあたってみずみずしさが増していく様子は、 この季節だからこその美しさですね。 空き家に咲いていたあじさい

さらっと、ちゃんと

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自分にとってのいい人は、 自分の思い通りであってくれる人なのだと思います。 多少思い通りではなかったとしても、 自分を不快にさせない人、自分を安心させてくれる人がいい人。 その方の対応の仕方など考えなくとも、自分が自然に話しができる相手であると判断しています。 その逆で、 この人は話しにくい、なんか意地悪だ、気が合わない、 という自分にとって何か不快にさせる、不安にさせるという人は、 自分自身がそこに対応するすべがない、と思っていることが多いです。 うまく話ができなかった、聞いてもらえなかったという経験もあったりして、 自分には無理だと思っているのです(パターンが)。 目指したいのは、 自分にとって思い通りのいい人であってほしいということではなく、 自分の思い通りではなくても、 それが自分にとって平気なことになっていくことです。 自分が傷ついたり、つらくなったり、 不安になったりしたことに対しては、自分でケアをすればいいとしても、 その先、どんな行動を自分がとっていくかは、避けて通れず・・・。 平気でいられるようになるための練習が必要なのです。 しかも、1回だけではなく、 何度も何度も・・・これが現実的に楽になっていく方法といえるかもしれません。 これまで心の中では思っていても、 なるべく言わずにやりすごしてきた、ということありました。 相手が自分の思い通りにはいかない人なので、 対応には勇気がいるのです。 今一度、 勇気を持って、さらっとちゃんと言ってみよう!と思いやっています。 『さらっと』いうところは、具体的には感情を入れずに話し、 『ちゃんと』は、最後まで言おうと思ったことを伝えきる。 これら一連の行動を、まずは小さなことから練習しています。 自分のパターンとしては、 ●自分は好かれていない ●大事にされていない ●必要とされていない と思い込んで、話しにくくなってしまっているのでした。 だからこれ以上話しかけて事態を悪くさせたくないと、パターンは思っている。 でも、こんなふうに関係性を決めつけ、 それに即した行動を多くとってきたのはまぎれもなく自分です。 ずーっとケアしているということは、 白パターンでの行動がやはり足りないのだと感じました。 自分が不快な思いをしたくないのではなく、 そういう思いにも慣れていきたい。 でも、そこに慣れるより今は、 さらっと...

夢占い

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ある TV 番組で、芸能人の夢を占うみたいなことをやっていました。 夢について研究し続け、心理学視点からなぜそのような夢を見るのか、 その人の心理状態をいい当てる先生がいました。 夫とふたりでご飯を食べながら何気なく見ていたら、 たまたまその先生の解答と自分が思ったことが当たりました。 次の芸能人の夢もへんてこりんな夢でしたが、 何となくこうかなとつぶやくと、それも大当たり・・・ え?すごいじゃん!何でわかるの? と、夫が興奮し始め、 じゃあこの人は?と解答をせかすようになりました。 こうなると、だんだん私も躍起となってしまい、 のんびり見ていた TV のはずが、箸を置き、画面を凝視。 夢の内容だけでなく、その方の最近の活躍や今ある外見、雰囲気、 なんとなくの性格などあらゆる角度から分析をして、 もう当てに行くモードで前のめりになっていました。 当てにいくモードになった私の夢占いは、 それ以降は全然当たらなくなりました。 夫は、なーんだ、まぐれかあ。 と普通にご飯を食べ、お互いの変な夢の話題に変わりました。 なんかこれって、 もしかして量子力学っぽい?と思いました。 意識をそこに向けた途端に、そこにあったものが見えなくなってしまう。 パターンで話を聞き、パターンで人を見るとき、 純粋なそこへの観察ができなくなるのだと思いました。 そこには直感というものもなくなります。 思考だけの世界になり、 考えて考えてでつくられた世界は、 作った人のパターンや意識での視点になるのでしょうね。 それと、もしも夢占いや〇〇占いが 当たったとしても ~ 面白いかもしれないけど・・・だから何なんだ?? 昔は占いが好きで、占いで出た答えに、 自分ってこういう人間なんだとわかった気がしていたし、 自分で自分のことは分からないはずだと思い込んでいたので、 他人から見た自分(占い)を信じたかったのかもしれません。 今自分が知りたいのは、 他人から見た、他人が分析した自分ではないんだなあ。 とあらためて思った夢占いでした。