自分を守る

職場での人間関係にとても悩み、毎日のように傷ついていたことがありました(トイレで泣いていた)。
自分だけに向けられる強い口調、無言の圧力、無理難題を強いられる。
それなのに、はっきりと、
「自分はいじめられている」とは誰にも言えませんでした。

いじめられるというのは、あくまで自分側が受けとる感覚であって、
他人からみればそうは見えなかったり、
当の本人もそんなつもりはなかった(傷つけているとは思っていない)かもしれない、
そう思いたかったのだと思います。
そこを認めてしまうと、
自分はいじめられ、排除されるに値する価値のない人間、みじめでダメな人間なんだと。
仕事ができない人、人間関係が築けない人、かわいそうな人になるのがとても怖かったのです。
つまり、いじめられるというのは(自分がいじめられることに関しては)、
相手が悪いのではなく、自分が悪いからと思っていたのです。

そんなとき、もうこれ以上耐えられない、
という出来事が起こりカウンセリングを受けました。
そのとき言われたことを、今もはっきりと覚えています。

相手に矢を放ちなさい(相手に牙を向けなさい)。
自分を守るためにしなさい。

こんなことを考えたこともなかったので驚きました。
相手を攻撃するなど、そんなことをしたら負けを認めてしまうことではないか、と思う気持ちと、
それができたらどんなにスカッとするだろうか、と思う気持ちとが葛藤しました。

負けを認める、というのは、
意地悪する人なんかに負けてたまるか!ということよりも、
ぼろぼろになっている自分を絶対に見せたくなかった、こっちの理由だったと思います。
こんなに傷ついている、弱っている自分を見せることで、
さらに嫌な言葉、傷つく言葉を投げかけられるのではないか、という恐怖がありました。

でも、その恐怖心というものは、
自分がそこに立ち向かえない、そんなことができるわけがない、
という誰よりも自分自身をさげすむものがあったように思います。

そのときの自分は、矢を放つことはできませんでしたが、
「自分を守る」ってどういうことだろうと毎日考えるようになりました。
今の自分がかろうじてできることは、
反応をしないという抵抗でした(ここに至るには、パターンへの語りかけがもちろんあるのだが・・・)。
無防備だった自分に、今度は分厚い盾をかざすようになったのです。

そうやって、本当に少しずつ少しずつ自分へ向かってくる矢をかわし、
物理的にもその人から離れるように身を置くようにしていきました。
職場の人へもぽつりぽつりと、
「こんなことを言われてつらかった」「悔しかった」
と自分が抱えていた辛さを口に出せるようになっていったのです。
それから何年か経って、
思いもよらないことに、その人は職場を辞め、自分の目の前から去っていきました。

どうしてこんなことを急に思い出したのか・・・

自分を責め続けている人を見ていたときに、
当時の自分のように、
ただただ矢に刺されっぱなしの人、自らを相手に差し出しているかのように見えたのです。
自分を大事にすることって、わかっているようで本当のところはよくわからないもの。
こんなに自覚がなくやってしまうことなんだと、他人がやっていることならばよく見えます。

はっきりと「そう言われるのは嫌です」「傷つきます」「やめてください」
というような言葉を言えるには勇気がいります。
自分を守るということを、今まであまりにもやってこなかったので、勇気がいることなんだと思います。
だからまずは自分を守れる手段を考えて、そこから逃げること。

自分は仕事がとても好きだったので、辞めるという選択は最後の最後の手段として残していたのだと思います。
我慢して仕事をするという選択は、正しくないかもしれませんが、
その時の自分の支え(唯一の誇り)になっていたとは思います。
でも、それは自分にとっての支えなので、
もしも今、とてもとても辛い思いをしながら働いている人がいたら、
「自分を守ること」って何ができるだろうと、具体的に考えてもらいたいのです。
そして、怖がっている自分(その感情があるということ)から目を背けないで、
少しでも今、自分が安心できる方法、大事にする方法を試してもらいたいと願います。













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