視野が広がる

旅の最終日は、7月に世界文化遺産登録になったばかりの御所野遺跡に行ってきました。
初めてここに来たとき、
本当にタイムスリップってこのことかと思うほど、
縄文時代に遠い遠い祖先たちが暮らしていたことを思い、胸が高鳴りました。
そして、ああ、この場所いいなあって思ったのです。
今回は、それもあったけれど、ちょっと違う感動がありました。

以前、道場で教わった「時空を超える」というワークがあります。
もしも自分が○○時代に生きていて、現代にワープしてしまったとしたら一体何が見える?
というものなのですが(すごいざっくり言えば)、
その逆バージョンで、
自分が生きてきた時代をさかのぼり、
縄文時代という元いた場所へ帰って行けたとしたら・・・と想像。


風が吹き、木々がざわめく音。
風がやみ、肌に感じる暖かな空気。
土間からただよう、火のにおい。
木の実が落ちる音。
鳥たちの鳴く声。

今からおよそ5000年前、人々が暮らしていたといわれる集落。
目を閉じ、耳を澄ますと、
縄文時代に生きていた人たちが感じたものと同じものを、
現代に生きている自分も同じ場所で一緒に感じられたような気がしました。



時空を超えて、いつでもその時代に行ける。
だからこそ、見たこともないものを見たり、住んだことのない場所へ行ったりしても、
どこかに懐かしさや親しみ、そのときの驚きやせつなさ、生きる大変さ、
また喜びや楽しい気持ちまでも感じられるのでしょうね。

ときに縄文の時代、ときに現代、ときに江戸、ときに戦国、ときに・・・
その時代での経験と、いろいろな感情を呼び起こすことができたとしたら、
今の時代だからしょうがない、という時代のせいにする生き方は変わってくるのかもしれません。

いろんな時代を生きた祖先の生き様を想像すれば、
わたしたちはきっと、どんな時代になっても進化していけるのだ。


今回、自分の住む岩手の歴史に触れられたこと、
山に魅せられたことが本当に良かったです。

特に、山の展望台から見える景色は、普段人が見ている現実とは違うということを感じました。
山の視点になると、山と山は意外と近いということ、
町と町にはちょうどいい距離があるということ、
家と家が、人と人のように見えた、ということ。
すべてが生きもののように、すべてが調和し合って存在しているように見えました。


地上からずっと高いところでは、
山同士が天気の話をしているようにも見えました。
また、町というのは、海に沿っていたり、平地にあったり、奥深い山間にあったりと、
それぞれの個性があって、
そこの暮らしを大事にしながらも、
お隣りの町へ、自分たちにしかないもので影響をあたえながら暮らしているように感じます。
そして、小さな家(山からくらべると点のよう)同士は、
もっと小さなそこに住む住人たちの代わりとなって、周囲の家々と会話しているようにも見え・・・
ご近所つきあいをほどよく円滑に、とやっているつもりの人間たちですが、
家(建物)同士でも仲良くやっていけるよう会話をしながら、いろいろ影で支えてくれているのかもしれません。

高いところから今いるところを見渡すと、
地上では見えていないものが見える(想像できる)、ということなのでしょうね。
また、高いところから低いところへ行ってはじめてわかるものもあるでしょうし・・・。

明日からいつもの日常です。
日常に戻っても、
「いつも」の部分を大切にしながら、視野も広げていけたらいいなあと思います。




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