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コンプレックス

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自分のコンプレックスを書き出してみました。 顔、体型、健康に関すること、経済的なこと、見てわかるものから、 他人からは見えないであろう内面的なものまで、 これだけのものを、そうだと決めつけながら生きてきたんだなあと気付かされます。 それはもう、自分大変だなあと。 確かに自らの決めつけや思い込み、 大なり小なり被害妄想のような感じもあるし、 自分だけのこだわりたい部分への執着のようでもあります。 でもコンプレックスだと仕分けされたものを一言でいうと、 黒パターンの理想に反したものたちです。 以前の職場で、 なんでそんなに面白い言葉がぽんぽん出てくるの?っていう、 お話し上手な人がいたことを思い出します。 コミュニケーションの講師経験もある人で、 意外にも、本当は人と関わることが大の苦手で嫌で、 人が嫌いだということを悟られたくない、踏み込まれたくないからコミュニケーションをものすごく研究したんだという話を聞いたことがあります。 本当の自分は見せたくないから・・・話した後はどっと疲れてしまうんだと。 (そう言えるって、正直な人だったのかもしんない) コンプレックスをバネにして? それが嫌だから努力して勉強して研究したら、他人から見れば「得意な人」になった。 もしかしたらそれが、プライドという壁なのかなと今は思います。 プライドをかけてパターンの理想を演じる。 他人からの評価を上げ、パターンはそこそこ満足し、演技も続く。 だとしたらプライドが邪魔をして苦しいだろうし、 本当の自分がわからなくなってしまうだろうなあと思いました。 それがいいとか悪いとかではない。 コンプレックスがあるから頑張ってこれた、という体験も確かに必要。 でも、それをずっとやり続けていくと、もしかしたら違う道が見えてくるものなのかもしれない。 何のパターンなのか?と引っかかった時、 このコンプレックスの中にヒントがありそう。 岩手山近くまで車で行って〜おにぎり食べました

これもまぼろし~

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パターンのケアの前に、こみあげる感情を出し切るかのように、 ノートにパターンが言いたいことをとにかく書きまくることがあります。 決して他人には見せられない秘密のノート(世にも恐ろしい)。 そこから、ちょっと心を落ち着かせ、 パターンのタイトルを決めて、 パターンに代わって「私」が語るべき言葉を探していくのですが・・・ 粗削りのままのパターンのこの言い分って、ほんとすごいと思いました。 ●自分は人より劣っている と信じているパターンの言い分は止まりません(何ページ書くんだ!)。 自分には能力がない、 これといった才能や得意なことがない、 数字苦手、経理でお金が合った試しがない、 PCや機械関係がわからない、 人の名前が覚えられない、要領が悪い、 普通とか常識とか年相応のことがわからない、 時間の逆算が苦手、忘れ物や失くしものが多い、 順序立てて話せない、 他人の話が一回では理解できない・・・ 「劣っている」ことを証明しようとするとまだまだ出てきます。 で、それはなぜか? できないことの理由を挙げて、できない自分だと信じきって、 「だから、仕方ないんです」と言いたいのかもしれません。 だから穏便にみてほしい、大目にみてほしい、助けてほしい、 いいよいいよと言ってほしい、優しくしてほしい、労わってほしい、 劣っているのにこんなに頑張っているんだねと言ってほしい。 そして、どこか褒めてほしいし、 すごいねと言ってほしい・・・のです、パターンは。 うまくいかないことの原因は、始めっからここにあると。 そこを前提にしての自分なんだと。 それなのに頑張ってきたというのは、 「努力の人」「特別な人」だと言いたいのです、パターンは。 でも結局、そこまでだよね自分って。 それも仕方ないのだ・・・だって、そもそも劣っている人間だから・・・ という図式も同時に作っているのだと思いました。 これって自分が全部コツコツ作ってきたものなんだな。 ikkoさんじゃないけど、 まぼろし~~~だったんだと、少しずつ思い始めています。 やっぱりシトロンさんのアップルパイ やさしいお味!

まずは、気づいていこう

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皆、パターンで話している・・・といっても過言ではありません。 自分も間違いなくそうです。 だから逆に、「私」であったのならば、そんな風に話したりしないということも、 少しわかるようになってきた気がします。 前回、師匠のカウンセリングを受けた際に、 「そうやって、いつもパターンで話しているのよ」 と言われた時、自分は確かに衝撃を受け、苛立ち、悲しくなり、 そこがまさしくパターンが引っかかったということになります。 パターンと「私」が分離された瞬間です。 そうなるともうパターンには名前をつけなければいけません。 本日のもので言えば、 ●バカ扱いされたくない ●わかったふりをする自分はダメだ そして、大御所のパターン、 ●自分は人より劣っている これらを、ま、いっかーではなく、 面倒だからいいやではなく、 スルーすることはもう禁止なのです(今の私の場合)。 そして、その後ぐるぐると思考をめぐらすのも禁止(←ろくなことは無い!)。 引っかかった後に、 どんなにいいこと、幸せな気持ちになることがあったとしても、 その引っかかったパターンに対しては、 とにかくスルーしていはいけないのだ。 パターンに気づかないうちは、 いつまで経っても、何も生み出さない気がします。 気づかないということは、自分を知ることも、何にもないのです。 だから、まずは、パターンがあることに気づいていこう。 クレパスで遊ぼう!

1人で過ごす時間

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おとなり秋田県の温泉に泊まりに来ています。 同級生との再会から何がどうなってこうなったのか(半分忘れてしまったー)、 明日2人でイベントをするために私だけ前乗りしております。 友達が考えた企画に乗っかり、何となく楽しそうだからやりたいな・・・と、 普段いろいろ頭を使いがちな自分には、ちょっとアバウトだけどいいかもしれないと思っています。 一ヶ月前、その友達にナビしてもらい奥羽山脈のふもとまで来たのですが、 どこをどう通ったのか全く記憶に自信がありませんでした。 なのに奇跡的に今日は、1人で運転してここに無事来れたことに感動。 もうこれだけで、充分達成感があり〜かなり満足してしまっています。 荷物の中には張り切って、本やノート(語りかけ用)も持参しました。 1人の時間は贅沢です。 温泉に入って大地の恵みをふんだんに浴びさせていただいただけでなく、 山の静けさの中で自分と向き合ったり、 一応に本をパラパラめくってみたり、 ぼーっと空想にふけっては幸せかみしめてみたり(久しぶりに大相撲も観れたし!)。 「同級生あるある」の、一緒にいると一瞬であの頃に戻れるという若返り現象ってありますが、 あの戻れる感じって、あの頃のパターンを思い出すことでもあるのかなとふと思いました。 懐かしいほどに自分の中の変わらないパターンを確認しているような、 あの頃からずっと守られてパターンはそこにいたんだなって、あらためてパターンは無くならないものなんだなと実感しています。 同じ雪国、東北人とはいえ、 岩手とは違う、秋田の方ってシャイだけど大胆で行動力あふれる県民性(という印象)。 人とふれあうことが明日は楽しみです。 この年になって、奥羽山脈の場所がどこだか知った!

練習あるのみ

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どんな一日にするか、ちゃんと決めて過ごす。 今ケアをしているのは、 自分は人より劣っていると思うパターンや、 必要とされたいと思うパターン、 また、注目をされたいと思うパターンなどがあります。 これらを、 「もしかしたら、〇〇だと、もう決めつけなくてもいいのかもしれない」って言い、 そういう一日にしようと決める、 ということをやっています。 朝に決めたことが、途中で忘れそうになったり、 はあ~やっぱりできないかも・・・と思ったりしても、 パターンに黙ってもらうことで、 続きをやっていこう!と、仕切り直しができる。 また、そう思うだけで、 目の前が開けていくような感じがあり・・・ 継続することって案外気持ちがいいものだと、新たな意味付けも感じています。 こんなゆる~い感じで何度もやり直し練習しながら進んでいくことが、 今の自分にはあまり無理がなく確実な道に思える。 決めるというのは、もっと一直線で、断定的だと思っていましたが、 そうではない決めることの奥深さがあると思いました。 よい気持ちやよい感覚的なものに浸るということが、 自分では、それが全てであるかのように思っていて、 この感覚さえあれば、自分はやっていけるのだと、そこで完結されることが多かった。 でも、「良いもの」というのは、 自分にとっても、相手にとっても、地球にとっても、天にとっても良いものなはず。 それを表現するには、自分にだけわかる言葉ではなく、 ちゃんと他の者へもわかることが大切なのだそうです。 だから、そこに自分はどんな言葉を使っていくのか? 自分から発せられる言葉を観察してみると、 普段、自分をよく見せようとする言葉が多いことに気づかされました。 もっともらしいような、さも何かわかっている風な言葉。 そこには、素直さとか、純粋さ、誠実さといった、 清々しい感じのものは見当たらず、 単に使い勝手のいい、使い慣れた言葉を並べているように思いました。 要するに、 黒パターンが口にするような言葉がそれなのかも・・・ そういうところに、自分の詰めの甘さが見え、 大体合っていればいいか~とか、苦手だから~、頭悪いから~とか、 そうやってしっかり言葉で表現していくことから逃げていたのかもしれません。 もっと繊細さを持って、 他を納得させられるように、響くように言葉を紡ぐ。 いろいろな言葉を見いだし使って、 紡...

「決める」と「決めつけない」

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今日は久しぶりに何の予定もない休日だったので、 好きなことだけして過ごそうと決めました。 最近、この「決める」ということを意識してやっています。 そして、誰が決めているのか? というところを感じながらの「決める」です。 好きなことは何かなあ。 何をしたいかなあ。 ここで私は頭を使って考え抜いてしまう癖があるので、 なるべく感じるままに過ごしたいと思いました(←ここも練習中)。 まずは、久しぶりに夫の弁当ならぬ、おにぎりを握りました。 そして、母へ届ける煮物のおかずも一品作りました(楽しい~)。 そして、今上映している映画の予告編を見ながら、これは見たいかなと思う映画があり、 ネット予約がうまくいかなかったので、まあ行ってからでも席は取れるだろうということで、 とりあえず大通りまで行きました。 その途中に気になっていたカフェへ寄ってランチをしたのですが、 なんとここで、履いていたスカートを汚してしまい、 このまま歩いていくのは、ちょっと嫌だなと思い(早く汚れを落としたいしー)、 ということで、結局、映画は断念して家に帰ることに・・・。 家に帰って洗濯機をまわし、窓を開けて部屋に風を入れ、 涼みながらアイスクリームを食べ、録画していたTVを観て、 その後眠くなってお昼寝をしました。 目覚めるまでがっつり2時間。 なんだかすごくすっきりしていたのでした。 振り返れば、なんてことのない一日だったようにも思うのですが、 でも、そのどれもが良かったなあと思いました。 映画のチケットも、ネットで取れなかったからこそ家に帰れたのだし、 チケットを買っていたら気になるスカートのまま行くしかなかったし、 もしかしたらせっかくの映画なのに、寝てしまっていたかもしれない。 そして、絶対観たい映画だったのではなく、 話題の映画を観れば、何だかいい休日を過ごせたような気持ちになれる? そんな感じがあったのかもしれません。 つまり、パターンが描く充実した休日の過ごし方・・・だったのかー。 さわやかな風を感じながらの昼寝ができたことが、 そっちが、私のしたいことだったんだなあ~ ささやかな贅沢であり、幸せ感じました。 好きなことをすると決めていると、予定外のことが起きてもなお、 やはり自分が好きなように一日を過ごそうとする。 そういう何かが働くのかもしれないし、 そう決めているときは、同時にパター...

パターン発見器

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ネガティブな感情が湧いたら、それはパターン。 (ポジティブにもそれはあるが、ここではややこしくなるので割愛)。 ちょっとでも、イラッとしたり、もやもやしたり、 はあ〜なんで〜ってため息や眉間にシワが寄ったら、 はい、今のパターンですよー!ってこと。 何のパターンだ?と探しています。 これを四六時中やってみていると、 一日の中でいろいろなパターンが出てきて、 悲しくなったり悔しくなったり苦しくなったり・・・と、 出てきたパターンへの反応が終わる前にまたかぶせるようにして次のパターンへ、 しっかり反応している自分をみます。 今はパターン発見器のようになって、ひたすらパターンを発見しています。 そしてその中でも、 たまにビックウェーブ(大きなネガティブ感情)が来ることもあって、 そういう時は、 きたきた、でかいな、このパターンは・・・と、 飲みこまれそうになって、 とりあえずぐっと口を閉じて(パターンで余計なことを言いそうになるから) これはパターンだなと意識しながら手を動かしています。 そうやって日に何度でも、 「そうだよね、あなたはそう思っているんだよね」と、 「そう思ったままでそこにいていいよ」と声に出したり心の中で言ったりしています。 この繰り返しを毎日何度も何度もしているうちに、 やっと「私」とパターンの分離感が出てき始めます。 パターンなんだから、そこにいていい。 ああ、ここをずーっと頭でやっていたかもしれない・・・って思いました。 頭でやっているときは、 いつまでも苦しいしつらいし、その苦しさつらさから逃れたいために、 「そんなことないよ、あなたは〇〇だから大丈夫だよ」と、 プライドを登場させていたのかもしれない。 見たくないパターンがあったのだ。 見たくないパターンはすべてにおいての、見ないようにするためのプライドとなって、 すっかり隠れてしまうものなんですね。 そして隠されてしまうと、 元の自分へ戻っていくことがわからなくなってしまう(こんがらがった糸みたいに)。 これをほどいていくのに、 今動いた感情を見るしかない。 東所沢へ寄り道 ケロロ発見!

決め直す

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気づいたら、日記がかなり止まっておりました。 もうGWもとっくに終わったのに~ この感じだと2025年もあっという間に過ぎてしまいそうですので、 気を引き締めて今日から過ごしております。 魂の道場 (茅ヶ崎)では、 まさにそんな気が引き締まる(というより、体が震える)ような思いがしました。 セミナーの最中に出てきた単語、 「能力」「適材適所」「為せば成る」「できる、できない」 そんな言葉にどうしてざわざわするのか? どうして今までこの引っかかりに語らないできたのか? これが、プライドが邪魔をしているっていうこと。 って、言われないと気づけなくなっていた私。 パターンをパターンだと思えないでいたんだな。 これはパターンなんかではなく、 それが自分、それがずっとあたり前だったと、 その思いの通りに、本当に自分はそうなっていったのだと思いました。 (だって、小さい頃から、私ってそうだったんだもん←と信じて疑わない、それもパターン) プライドって、それを持ってして自分を成り立たせようとする隠れ蓑(みの)なのだ。 思考を使っていると、そんな隠れ蓑に全然気づけないのだと思いました。 自分の黒パターンを覆い隠し、 ネガティブな感情が湧いているのに、そっちに目を向けないように仕向ける。 ほんとに長い間気がつくことができず、 今までちゃんとケアができていなかった・・・ もう、自分を決めつけてはいけない。 ネガティブな感情が出たらすぐに、 それを見逃さずにやっていこう。 決めつけというのは、本当にそうなるように人格を作っていくのだと思いました。 人より劣っていると決めつけ、能力がないと決めつけ、自分にはできないと決めつけ、 知らず知らずにそう決めつけた自分で生きていく。 それは、決して謙虚でも何でもなく、 自分の可能性をただただ狭めていることだった。 ここからいろんなパターンへとつながっていたことも、 パズルのピースがはまったかのように、 あーそういうことだったんだと知る。 ・・・だとしたら、やっていくことは一つ。 もうそのパターンで生きる続けること、自分を決めつけるのはやめたい。 また、決め直しをしていきます。 水筒買いました~(お水も入れてもらいました~)

1日分の尊さ

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今年のGWは、TVで見るニュースや自分の周囲を見ていても、 過ごし方がこれまでと違っていたように感じました。 連休=旅行というよりも、近場や自宅で過ごしたり、 買い物やレジャーよりも、自然にふれあうことを満喫したり、 経済的なところもあってか、休日の過ごし方を変えたという方も多かったかもしれません。 世界の動向、政治経済といったものにはうとい自分ですが、 そんな自分ですら、 モノの価値や、食べもの、どこで何を買うか、これからの暮らし等々、 人が(自分が)本当に大事にしたいものは何なんだろう?って、 みな考えるようになっている気がします。 今年も3分の1が過ぎましたが(本当に、時が経つのが早い!)、 実は今年に入ってから自分も働き方を変えました。 週のうちの1日会社勤めを減らしました。 自分の想定では、 その1日があれば、もっと時間的に余裕が生まれ、 母親の介護も多少ゆったりできるようになり、 体力的にも体調的にも自分自身が楽になる。 カウンセリングに関することもライフワークも無理なくやっていける。 そういう時間の流れに変えていきたい。 ・・・と思った年のはじめでした。 それが、母の骨折でその1日は必須の1日となり、 それはそれで私にとっても家族にとってもとても濃い時間になり大いに良かったのです。 でもそことは別に、今自分にとって大事なことって何だろうと、 時間とは関係がない、自分の中で生み出すゆとりが、 この1日分の尊さから感じられるようになった気がします。 自分は予定を入れ過ぎてしまう傾向があり、 今年は密かにそれを止めることをサブテーマとして掲げていました。 詰め込んではこなして、こなせるとまた予定を入れて~(疲れて〜) そうやっていろんな体験をしてこそ自分は成長していけるのだ。という思いこみがあったように思う。 でも本当にこれ、単なる幻想でした。 まだまだ予定がない日を作るのが難しいけれど、 だけど、積極的に「私」にとって大切だと思うことに絞ること、 自分の生活に見合うように、心と体に沿うように丁寧にやっていこうと思います。 お蕎麦屋さんの窓から 散りゆく桜もきれい! 

優しくありたい

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先日、病院の待合室で、認知症なのかな?と思うような方がいて、 家族らしき付き添いの方に何かいろいろ言われながら診察券を出していました。 連休前とあって、患者さんが待合室に入りきれないほどいて、 あきらからにその付き添いの方がイライラしているのがわかりました。 誰だってこの混雑ようを見たら、それは分からなくはない。 けれど、その付き添いの方は、 おそらく自分の親か義理の親なのか? そのおじいちゃんにずーっと何か言って怒っているのです。 ほら、早く早く、早くして!それじゃないでしょう~ 〇〇だって、さっきも言ったでしょう! 〇〇を忘れてきたの?何やってんの、もう~~~ (しかも、結構大きな声で言っている) 横で聞いていて、胸が苦しくなりました。 何も、そんな言い方しなくても・・・ あきらかに、もうそういうことができないんだから。 そのおじいちゃんが、本当に気の毒でかわいそうだと思いました。 あんなに言われても怒鳴られても、 ただただ言われっぱなしで、うつむいて何も言い返しません。 もうそれが日常で、慣れているのか? 言ったら、言ったで、倍返しになるから黙っているのか? お世話になっている身だからと、抵抗しないのか? 言われて当然だと、もうあきらめているのか? それとも、そうなってしまう(怒りたくなる)相手の気持ちが、 理解できるからなのか・・・? 私だけでなく、座っている人たちもそのやり取りを見て、 何か言いたいけれどちょっと様子を見ているような雰囲気が待合室にありました。 この光景を見て、何も感じない人(パターンが騒がない人)って、 いないんじゃないでしょうか。 どこに何を感じるかはそれぞれだと思いますがー、 怒っている人が一人いるだけで、まわりに与える不快感は相当なものだなと思いました。 驚いたのはここからで、 そんなやり取りが、なんと一組ならず、 自分が病院内へいた時間で何組もあったことがびっくりでした。 (脳神経内科ということもあり、たぶん皆、認知症患者さんかなと思う) そういう光景を見て気分が悪くなる自分の心を見ていくと、 お年寄りには優しくするべき、敬意を持つべき、もっと寄り添うべき、 弱い立場の人をそんなふうに接するべきではない等々のパターンが騒いでいるのだと思う。 そんなことがあっての翌日です。 母親から、〇〇を持ってきてほしいという電話がありました。 ...

自分のパイプの中で

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もしも、 他人と比較することがなかったら、 どれだけ自分を客観的に冷静に見れるだろうか・・・ って思いました。 年を取れば、 見た目の美しさ、健康や体力、若さそのものを比べ、 自分はいけてるか、いけてないかを決めています。 仕事をすれば、 遂行する能力、信用度、協調性、リーダシップが取れるか取れないかなど、 いわゆるできる人かできない人かを、 他人を見て自分を位置づけしています。 結婚すればまた、どんな家に住んで車は何にのっているか、 子どもたちはどうか、夫婦仲はどうか等々、 そこに他人がうらやましく思う要素(世間一般的な価値)があるなしで、 幸せをはかっている。 そういうことを、 昔はよくやっていたし(ホントにここに居続けた自分!)、気になってしかたなかった自分がいました。 そうやって比べた結果の自分を、他人はどう思うだろうか? とさらに考える。 二重の苦しみループに入っていたこともあります。 でも苦しさを感じるときは、 大体がパターンで物事を捉えているときでー そういうときは、 誰が、何を比較して、苦しくなっているのかを見ればいいと、 すぐに見る先を変えることが「私」ならできます。 ここへすぐ戻ろうって思えるのは、 ひたすら自分だけを見ていく方法を少なからずも知っていて、 何とか習慣になっているから。 このことが、生きていく上ですごくありがたいことだし、 自分の生きる力、転んでも転んでもまた起き上がる力になっている。 昔の自分を思いだすと、 何とか今日まで生きてこれたこと、そのもの全てのことが、 自分は幸せだったんだなと・・・ 本当に今、そう思います。 他人を自分のパイプに誘導しない。 そして、自分も他人のパイプに入り込まない。 そこは自分の築こうとしている世界ではないのだから、 苦しくなってあたり前なんですよねー 自分の幸せは、自分のパイプの中でしか築けないのだと思いました。 そして、他人を自分の思い通りにしようとする行為も、 すでに他人のパイプに入り込んでいるということ。 土足でずかずか入っていくようなもの。 だから、そもそもしてはいけなかったのだな。 そんなことを思った朝です。 GWの楽しみ…生活クラブ勢ぞろい!わーい!