投稿

3月, 2025の投稿を表示しています

失っても、あるもの

イメージ
昨日のつづきですがー 失う怖さということで、何が怖いのかというと、 失うことそのものが、というよりも、 それによって、もう安泰(変わらぬ安心)だと思っていたもの、 信頼されていたこと(そう、信じていたもの)、 それによっての優越感や自信となるもの。 それらを失ってしまって、何もなくなってしまう自分が怖い。 ということなんだと思いました。 こうなると、これまでの自分はそれなしでは立てない、 とても小さな存在であることもわかります。 失ってしまっては・・・と思うだけで、縮こまってしまい、 変な見栄も張ってしまうかもしれません。 無理してそう見えないようにするのも、恐怖心からの抵抗。 ただ、その反対に、 本当の「私」としては、そこを明らかに自分自身が認められたことで、 少しだけまた落ち着きを取り戻すような感じがあります。 冷静さを持てる・・・ような気がします。 (ちょっと話が飛びますがー) 冷静と霊性というのは、 「れいせい」という読み方が同じですが、 これって、互いに影響しあう関係性があるのではないかと感じます。 霊性を高めることが、どういうことなのか、 冷静さを持って自分を見ていくことが、 そこへつながる一つの道ではないかと、ふと思ったりしました。 大事な人を失う、 家を失う(今回の山火事で思った)、 自分の生きがいを失う、 仕事を失う、健康を失う。 そういうものの中に、自分が本当に大事にしてきたものは何か? 失ってもなお、今、自分にあるもの、 残っているものはあるのではないだろうか。 心の中にあるもの、 慈悲、愛、優しさ、たくましさ、人間らしさ、神聖さ・・・(まだまだある) といったものは失われることはないのかも。 そこで生きていくことも、一つは意味があって、 何を失っても充分に与えられてあるものに気づけるよう、 「失う」という経験をするのかもしれない。 失ったものがその人にとって大きければ、 そう簡単ではないかもしれないけれど、 命があれば、 きっとまた自分の心にあるものを思い出せるのだと思います。 蛇口をひねると・・・リンゴジュース!

得たものを失う怖さ

イメージ
何かを得ると、それは自分の能力や努力がもたらしたもの、 だと思っていることがあります(それもあり、だけど)。 同時に得られたことで、今度は自分が何かの誰かの役に立つよう、 それを使っていこう(それに相応しい自分になっていこう)・・・ ということを意識するようにも思います、はじめは。 そうなったことにも感謝しているし、 自分一人の力ではないことなど、全くもって分かっている。 はずなのに・・・です。 その謙虚さも感謝の気持ちも、向上心も、 得たことへの慣れというかで、だんだん小さくなっていくんだな、これが・・・。 しかも、順調に、思い通りになっていけばいくほどに、 自分が人より優れているような気がしてきて、 自分が良ければそれ以上は気付かない、傲慢な部分が出てきます。 そんな風に変わってはいないと、 どんなに自分を律して振る舞ったとしても、 心の中では、自分をちゃんと見ることができなくなっています。 自分が得たものがプライドとなって盾となり、 他人を認めることはできず、 だんだん大事なものが見えなくなってしまうのだと思いました。 そうやって、やっと自分のしたことへの違和感を感じ、 何か違っているとやっと気づきはじめ・・・ 今度は、その得たものを失う怖さも感じはじめます。 でも、この失う怖さに気づいたら、 ここで自己観察をすればいいのだと思いました。 他人ではなく自分を見ようと決心すると、 もう向かう先が変わっていくのがわかります。 真実(現実)が見えていって、 自分のしていることがわかり、 それを受け入れることから、心が開かれていくように思いました。 自分の良心に背く動機、考え、行動を認める。 賞賛や共感、評価や承認など、 自分のためだけのもので囲もうとしていたことを認める。 得たものを失うことが怖い。 そう感じたときは、なぜ怖いのか不安なのかを見た方がいい(と言い聞かせる)。 やってしまった・・・と思ってもすぐに軌道修正して、 自分の向かう先を確認していこうと思いました。 ネガティブな感情は、 こうして自分自身へ進むべき道を教えてくれるんですね。 自分の行きたい先はそこで良かったのか? 失う怖さを感じられたら、 手放せない何か(しがみつきたい何か)があるということ。 何を捨てていけばいいいのか、考えてみよう。 それがプライドだったら、 プライドではないものを使って、自...

すべては心の決めたままに

イメージ
今年は昭和100年だそうです。 100年前は私の祖父や祖母たちが生きていた時代で、 その方々が出会っていなければ今の自分は生まれていなかったわけで、 いろいろあったことでしょうが、よくぞ一緒になってくれましたと思いました。 父方の家系はちょっと複雑で、 何代か婿取りが続いたそうですが、その婿養子に入った祖父の前妻さんが亡くなって、 父は後妻さんの長男(戸籍では7番目の子)として生まれてきました。 祖母は6人も子どもがいる家に嫁いできて、その子どもたちを育てながら自分も6人産んで、 カイコを育てたり漆を売ったり金物を売ったり、いろんな商売を手伝っていたそう。 良くも悪くも祖父がお人好し過ぎて、いろいろ大変だったという話も多々あり、 言いしれぬ苦労をした人ではないかと想像します。 父も小さい頃、親戚の家に預けられたり、小さい子たちの面倒を見たりしながら学校へ行き、 昼は働き夜は高校、通信制の大学へと進み、 勉強がしたくてしたくて、本が読みたくて読みたくて、 といった話をよく聞きました。 (兄の勉強好き、私の学び好きは父の遺伝だな) 母方の祖父母は、父の生家から歩いてすぐのところで床屋を営んでいました。 小さな村のさらに山奥もそのまた奥の出身で(方言で「ざい」と言いますが)、 そこから二人はなんと、かけおちをして村(「ざい」から見れば町!)にやってきたのでした。 当時のかけおちって命懸けに匹敵するのではないかと思います。 母に聞くと、祖父母たちの実家へ小さい頃遊びに行ったという記憶はなく、親戚にも会ったことがなく、 そうか、かけおちってそういうことなんだと子どもの私もちょっと寂しく思ったのを覚えています。 祖母は体が弱かったのですがとても社交的で、 店には朝から晩まで、髪を切るわけでもなくいつも人が集っていたそうです。 言われてみれば、私も小さい頃、何で帰らないんだこのおじさん、って思いながら一緒に店のテレビを見ていた記憶があります。 そして父と母は、祖母同士が友人だったこともありお見合いし、 村唯一の旅館で結婚式をあげたそうです。 そんな祖父母たちの遺伝子と気質を受け継ぎ、今日まで生きてこれた私。 どうして今、急に回想しているのかわかりませんがー 昭和100年ということで大好きな昭和歌謡をテレビでやっていて、 大御所のサブちゃんが久しぶりに出ていて、 何かあの時代が懐か...

課題に向き合いなさい

イメージ
昨日は月一回のクラスの勉強会でした。 仲間が悩んでいることについて、 自分も同じようなパターンを持っていたりします。 でも、なぜそう思ったのかの理由を細かく聞いていくと、 やはり当然ながら、全部が全部同じところで引っかかっているとは限らず、 そこにその人の課題の特性が現れるように思いました。 パターンも自分自身が育ててきたものですから、 感情がさわぐことによって、 課題に向き合いなさいよ~って言われている気になってきます。 自分の分身にも思えてくる。 パターンは、長い年月を得て心の中で成長し続け、 経験や環境によってもその中身が変化しています。 だからケアの仕方もそれに合わせ、 同じパターンだと思っていても、語りかけの言葉も変わってくるし、 パターンの選び変えも、より今の自分だったらそれを選べるかも、 って思えるものが出てくるように思います。 そして、その感覚こそが、「私」が成長したがゆえの選択肢なんだと思いました。 私はきっと、パターンに居てもらわなければ、 そしてそれに気づかせてもらわなければ、 何をどう努力すればいいのか、分からなかったのではないかと思うのです。 とにかく知識を詰め込み、分かった気になって、 でも本質は全く変わらないことに気づかずに、表面的なものを得ては、 何かが違う・・・けれど分からない・・・ ってもんもんとした日々を今でも送っていたのではないかと思う。 そう、魂は何をもって修行したがっているのか? これも自分の解釈にすぎませんが、これを学びたいと思うものがあって、 本当に幸せだと感じました。 なんだか、 すごい勉強会やっているか、のように聞こえてしまったかもしんないけどー いや、すごいことっていうか、 楽しいからやっているのだと思います。 たまたま見たTVで、 自分の気持ちを知り、その気持ちを言葉にしていくというのが、 一番人間が苦手とすることだ・・・と言っていた方がいました。 (河合隼雄さんだったような) 今自分はどんな気持ちになっているのか? それを認め、受け入れられているか?声にしているか? この難しいところをやっていこうという仲間の意志と、 その環境があることに感謝です。 私の 依存先 のみなさん(笑)、いつもありがとうございます。 温泉入ってきました~

ヤキモチをやくパターン

イメージ
最近お世話になっている鍼灸院があります。 自分が施術を受けて寝ている間、 お彼岸ということもあってか他のお客さんが先生に、 お墓参りに行った話をしているようでした。 それも親しげに。 そこで・・・見えない世界がどうたらと言っているような?? でも、もしかしたらそういう話ではないような?? 一体、先生とどんな話をしているのか・・・ こういう時、自分にはしないで他のお客さんにはしている、 先生が話す内容が気になります。 どういう会話をしているのか、自分とはできない話なのか、 自分の知らないものすんごい話なのか・・・ 何だか楽しそうで気になって仕方ない自分がいます。 この時のモヤっとするような、そわそわするような感情や感覚って、 えこひいきされた時の不快感のような、ヤキモチにも似ています。 ●自分を特別扱いしてほしい、とか、 ●自分を大事に扱ってほしい、とかいうパターンであるように思いました。 いつも先生との会話は本当に体のことオンリー。 それが普通だと思っていたため、 そうではない会話が他のお客さんとは交わされているんだと知って、 自分は先生にとってただの患者でしかないと知る(そりゃそうだ)。 これは鍼灸の先生だけではなく、 自分の師匠に対しても少なからずこのパターンがあったと思うし、 上司に対してもそうだし、 ちょっと親しくなった人に対しても、 そこから外れようものならば、これらのパターンが騒ぐのです。 自分の感じ方、考え方、捉え方の癖がまさしくここにあり。 それは自分が特別に扱われてきた、 (決してそれほどでもなかったとは思うのだが) そう思いこんで生きてきた幼少期にあるように思います。 親、親戚から可愛がってもらっていただけでなく、 周囲にいる大人たちはみんな自分にとって、温かな目を向けてくれる人。 ちやほやしてくれる人。 それがたとえお世辞や大人同士の社交辞令のようなものだとしても、 それでもいいんですね(子どもだから単純)。 自分を可愛がるのはあたり前だと、 そうしない方がおかしいくらいに思っていた子どもだった。 また、幼稚園の出し物でお姫様役を演じたもんだから、 その思いこみは(やっぱり自分は特別だと)自然だったのかもしれません。 そして、そのパターンの対象となる人は、 先生と言われるような、自分よりも知識や経験があって肩書があって 社長やお金持ちといった世...

認めることの怖さ

イメージ
自分が(パターンが)嫌いだと思っている人、苦手だと思っている人、 そういう人がいると、どうして苦しくなるのか? ここが嫌、ここが苦手というところがたくさんあるのですが、 もっと根源的なところ、理由を1つに絞ってみると、 自分の思い通りにはいかない人だから苦しむのですね。 ああ、こんなにも自分の思い通りじゃないことが嫌なんだと思いました。 思い通りではないということは、 自分へ対する反応全てがそうだし、 こうして欲しいと思うことと違うことをするってことだし、 その人がいることによって、 他のことまでも思い通りにいかなくなってしまうんです。 自分は(パターンは)思い通りにいかないことは、まったく受け入れたくないのだと思う。 受け入れられないし、もう絶対にその人がすることを認められないのだ。 もしも、認めようものなら、 自分には価値がないということになってしまう(ってパターンは思う)。 自分は否定されその人に負けてしまい、 もっと言えば、自分の存在そのものまでもが危うくなり、生きていけなくなってしまうのです。 それがとても怖い。 そうなりたくないから、嫌ったり距離を置いたり考えないようにしたり・・・がんばってきたんだと思う。 パターンへの語りかけをしていると、 その認めることへの怖さがとてもよく理解できるのです。 怖いから攻撃的にもなるし、否定的にもなってしまうのです。 でも、もう・・・そういう自分のままでいていいと、 そういう自分で、もういいんだよ。 そう、もういいんだよ、がんばらなくても。 もういいんだって。 そんなふうに「私」が言ってあげると、 パターンはほっとして泣いてしまいます。 まさかの春雪 この後結構積もった!

私の依存先

イメージ
師匠のブログ がお休みになって気づいたのは、 自分はこのブログをどんだけ毎日楽しんでいたのかがわかりました。 しょっちゅう茅ヶ崎に行けるわけではないですから、 ブログで発信されるお話が、自分にとって単なる楽しみではなく、 生きがいのように、もうなくてはならないものになっていたのだと知ります。 これは、依存しているということでしょうか。 先日TVで障害のある方の自立について、脳性麻痺のDR熊谷普一郎氏が、 人は何かに誰かに依存しながらでないと生きていけない、 という内容のことを言っていました。 一瞬、聞き違えたかなと思ったけれど、 その方が言うには、 自立を目指すならばむしろ依存先を増やさなければならないと。 今の自分を見ていると、 師匠のブログの他にも、毎日チェックしているブログもあって、 SNSはいくつかルーティン化して見ているものもあります。 会社へ行けば、仕事そのものとその仕事に関わる人たちにも依存し、 家に帰れば家族にも依存。 語り合える友達、カウンセリング仲間、飲み友、よく行く(行けばほっとする)お店もある。 昔は、犬もうさぎもハムスターも飼っていて、 動物たちのあのモフモフにも癒されていた。 母親の介護をしていることもそう。 やはり私はお母さんに甘え、子どもの頃と変わらずお母さんが大好き・・・ 介護を盾に依存していない(自立した人間)に見せていただけなのかも。 こうしてみると、 あちこちに依存先があって・・・ そこでのやり取りを楽しんでいる自分がいたのだなあ と気づかされました。 自分は一人も好きだし、とにかくいろいろ単独で行動していることの方が多いのですが、 それは行き先があった(会いに行っていた?)ということかもしれません。 全然一人で生きてはいないと、 自分がこれは!と思うこと、場所、人に、あちこち頼って今日まで生きてきたのだった。 家族を通じてつながっている方々も数えたら、 とんでもなくたくさんの人に日々支えられているんだなー 先生の体調も大事なので、無理してほしくないのですが、 でも良くなったらまたブログ書いてくださいね。 首を長~くして楽しみに待っています。

思考型人間と感覚人間

イメージ
昨日の日記で、「快」と「不快」について触れましたが、 その感情や感覚を、誰が、感じているのか? というところを見ていきたいと思いました。 誰が?・・・って、自分に決まってるじゃん。 と思うのですが、 自分だと思っている自分は、どの自分ですか?というところ。 その自分には、見ている世界が別、領域が別、 または意識が異なる、生きものとして異なる、と表現したら良いのか・・・ そのように存在するものが二つあると仮定します。 ここでは、【パターン】と、本当の【私】に分けています。 【パターン】にはさらに黒と白があって、 その中間のグレーゾーンなるものもあり~ パターンは自分が育てた心の中の生きもの。 常に黒か白かで(たいてい黒が多いけど)変化していることがわかります。 「心の中に、常に二人の自分がいる」と表現されている方もいれば、 陰陽の法則と捉えてイメージするとわかりやすいかもしれません。 【私】にはそういう異なるものはなくて、 この宇宙のように自分にとってただ一つの普遍的な意識になります。 いつも変わらず、魂の成長のために、 のびのびと自分という肉体を使って生き続けているもの。 パターンのように善悪の評価もしなければ、 極端な感情や感覚もなく、自分という【個】をいつも冷静に受け容れ、 愛を持って見守っている大きな存在です。 「快」「不快」を感じている自分とは誰なのか? 【パターン】で生きるのか、【私】で生きるのか? 私たちは常に無意識であっても、日々の経験をこのどれかの自分で選択している。 ということは・・・ 本当の【私】で、生きていきたい。 ここが自分にとってのスタートでした。 そして、どうやったらそうなれるのか?というところを、 なりたいからそう自然になっていくわけではないと、 10数年学んできて、今また新たに実感しているところなのです。 自分って、喜怒哀楽がはっきりした感情豊かな、 感覚人間だと思ってきたけれど、 ウソウソ・・・それはそっちの方が何となくいい人間だと、 自分の価値観として思っていただけでした。 小さい頃から実に、何かにつけていろいろと考えるのが好きで、 不安や心配、悩むことが得意?で、 頭でっかちの思考型人間だったんだと思います。 (考えるのが悪いということではないですよー) 理論的には何一つ話せないのに、 そこに何かしら理由を求める理屈っぽい人間だ...

今、それが嫌~

イメージ
自分を大事にしたい・・・ 今朝、ふと思いました。 語りかけやワークといった一連の自分に対してのケアを、 ゆっくりとじっくりと(いつもより丁寧に~) やってみようと思いました。 今語りかけをしている「〇〇をしたくない」というものに対して、 どうしてそう思うのか? もう一度、パターンの本音をゆっくりじっくり聞いてみると、 実は〇〇をしたくない、 と言い切るにはちょっと違うような、 パターンの言い分としても混乱している感じがしました。 もし、〇〇をしなかったら、ほっとする自分がいるのと同時に、 やはりそれはそれでとても困る自分もいて・・・ これまでの経験上、自分のパターンってこれだなと、 パターンの傾向もわかっているため、 これだなというものに語りかけをしていましたが・・・ちょっと待てよ。 このパターンやある種、言葉から生み出される感情として、 「快」と「不快」ならばどっちなのか? 何だか、その時々で両方あるような感じがします。 でも、引っ張られるパワーとしてはの「不快」の方が強く、 その不快感は目先のことに対してが多いのです。 そしてはっきりしていることは、 やはり、今嫌であれば嫌ーーー!なのだということ。 そうだ、これがパターンというものだったと、 いろいろ思考して、一周回って気づかされました。 この思考するというのも、 何かしらのプライドで邪魔をしていたということなのかもしれませんが、 そこは今はちょっと置いておいて・・・ パターンと向き合うということは、 今の自分を大事にしていく っていうことなのですね。 何だか基本に戻った感じがします。 今、それが嫌!ということに語りかけていこう。 最近、岩手山も顔出してまーす

付き合う相手

イメージ
誰と付き合うかは大事なことで、 なるべく自分のモチベーションを上げてくれる人や、 自分がその人といると自然体でいられたり、 少しでも前向きになれたりする人と一緒にいたい。 でも、そうするように心がけてきたけれど、 今はそこも少し変わってきているのを感じます。 どんな人と付き合うか? も確かにあるけれど、それよりも、 自分はその人とどう付き合うか? 自分側のあり方のほうが大事だったんだと思うようになってきました。 相手の言動は、本来の「私」には関係なく、 自分の捉え方や意味付けは今、どうなっているんだろう? って自分を観察してみると、 単なるパターンが反応しているんだとわかります。 以前は、その反応するパターンを理解してあげられていなかったんだなあと思う。 そんなパターンがあることすら考えたくないし、 いろんな感情といろんな考えに振り回されて、そこで(嫌な気持ちのまま)終わっていた。 「私」を育てていく。 これができるのは、自分(パターン)にとっていい人とだけ付き合っていたのでは、 いつまで経っても苦手な人、関わりたくない人は減りません。 そういう人(だとパターンが思っている人)で練習していかない限り、 ただ、臭い物に蓋をする〜だけなのだ。 こういう人なんだな。 ってその人を前より少し理解し、 それに対して自分のパターンはここが引っかかるんだな、と理解する。 そうだよね、わかっているよ、と言ってあげられる「私」がいつも側にいる。 それができる自分の方が、 相手に関係なく、同じ自分、自然体な自分、 パターンは騒いでOKです。 だって「私」はちゃんと全部わかっているから・・・ そこへの落ちつきを感じられる自分がやっぱりいいなあと思う。 大吟醸まんじゅう、うまーい!

他人事は自分事

イメージ
今年初めての講座を行いました。 お天気もよく、 今回は普段勉強会に使っている会場でしたので、 私としてはちょっといつもより緊張がほぐされたような気がします。 ご参加下さりありがとうございました。 参加された方のお話というのは、 自分だったらどうするのだろうかと、 いつも想像し考えさせられる機会だと感じます。 他人の体験というのは、他人事(ひとごと)ということになるわけで、 言い方はちょっと何ですが、自分には直接関係のないお話になります。 ですが私にすれば、 関係がないとは全く思えない捉え方があります。 自分に起きてはいないけれど、充分に大切な意味があると、 回を重ねるごとに感じるようになったのです。 自分だったらどんな気持ちになって、 どんな状態になるのだろうか・・・と。 もちろん自分に置き換えると言っても、 全てを理解できるものではないし、置き換えられないものかもしれませんが、 いつも帰り道、そういうことを想像してしまうのです。 自分というたった一人の人生では、体験できることなど限られている。 だから自分が体験していないことを聞けるということも、 自分の一部になっていくのだと感じます。 また、想像しただけの自分が、 そういう人生もあるのかもしれないと、 「あり得る人生」に心の準備をし、 そうなってなお自分らしくあるため、 これからできることを改めて考えてみるのでした。 他人事が自分事になる時間は、とても深くて貴重な時間です。 自分が知らないことを、その方が話してくださったことで、 私が多くのことを学んでいるのだと思います。 たくさんお話して下さりありがとうございました。 実家の台所を段差なくカーペット敷き詰め中!