失っても、あるもの
昨日のつづきですがー 失う怖さということで、何が怖いのかというと、 失うことそのものが、というよりも、 それによって、もう安泰(変わらぬ安心)だと思っていたもの、 信頼されていたこと(そう、信じていたもの)、 それによっての優越感や自信となるもの。 それらを失ってしまって、何もなくなってしまう自分が怖い。 ということなんだと思いました。 こうなると、これまでの自分はそれなしでは立てない、 とても小さな存在であることもわかります。 失ってしまっては・・・と思うだけで、縮こまってしまい、 変な見栄も張ってしまうかもしれません。 無理してそう見えないようにするのも、恐怖心からの抵抗。 ただ、その反対に、 本当の「私」としては、そこを明らかに自分自身が認められたことで、 少しだけまた落ち着きを取り戻すような感じがあります。 冷静さを持てる・・・ような気がします。 (ちょっと話が飛びますがー) 冷静と霊性というのは、 「れいせい」という読み方が同じですが、 これって、互いに影響しあう関係性があるのではないかと感じます。 霊性を高めることが、どういうことなのか、 冷静さを持って自分を見ていくことが、 そこへつながる一つの道ではないかと、ふと思ったりしました。 大事な人を失う、 家を失う(今回の山火事で思った)、 自分の生きがいを失う、 仕事を失う、健康を失う。 そういうものの中に、自分が本当に大事にしてきたものは何か? 失ってもなお、今、自分にあるもの、 残っているものはあるのではないだろうか。 心の中にあるもの、 慈悲、愛、優しさ、たくましさ、人間らしさ、神聖さ・・・(まだまだある) といったものは失われることはないのかも。 そこで生きていくことも、一つは意味があって、 何を失っても充分に与えられてあるものに気づけるよう、 「失う」という経験をするのかもしれない。 失ったものがその人にとって大きければ、 そう簡単ではないかもしれないけれど、 命があれば、 きっとまた自分の心にあるものを思い出せるのだと思います。 蛇口をひねると・・・リンゴジュース!