大嫌いな人

この世に大嫌いな人がいるということは、なかなかつらいことです。
特にそれが自分の生活圏内にいたりすると、心は穏やかではいられない。

私も、そういう人がかつて1人2人ではなくもうたくさんいて(ムカつくーって)、
今は単なるパターンであることを知っていますが、
当時はなんでこんな人がいるんだ?と、
また、自分はなんて性格が悪いんだろうと、うなだれていました。
パターンであることを知った後も、
はいそうですか、じゃ気にしませんとはならず苦しみは続きました。

自分の中にその人を嫌う答えがある。
と言われても、
自分の内面を見るとか向き合うとかいうのは今までやってきていません。
やり方もわからないし、自分だけを見るなんてとてつもなく勇気がいることで、
それはそれは怖かった。

でも・・・
怖いんだけれど、
そういう大嫌いな人がいるという人生が、それ以上にもっともっと嫌だったんです。
自分の心がそこにいとも簡単に振り回される。
寝ても覚めてもその人のことで頭がいっぱい。
自分の人生をまるで支配されていくかのようで・・・

この苦しみから解放される日がくるのなら、
どんなことだってやってやろうと思うほど、
人が憎くてしかたなかったし、そういう自分も嫌いだった。
(ということで、パターンのケアがはじまった~)

なぜにそんなにイヤなのかは、
自分を観察することで見えてきます。
え、なんで、自分なの?
相手を観察するんじゃないの?
とはじめは思っていましたが、自分をちゃんと観察できないうちは、
他のものを、冷静にジャッジをせずに見れないのです。

だから、自分を見る、自分を知る(パターンを知る)というのは、
本当にその可能性がどこまであるのかと思うくらい、
世の中のいろいろな懐疑や不快感の元を、
根本から解決してくれる道の一つなんだと思う。

そして、自分のことが見えてくると、
ある時、とても冷静に、
相手のことを凝視できるようになっている自分に気づく。
いい時の自分ではなく、
イヤな時の自分が見れるようになってくると、
自分以外のものも、なんでも見れるようになる(見るのと、わかるはまた違うけど)。

その人の中に、自分で自分を認めたくないもの、
自分で自分をゆるせないもの、
また、自分の正しさを否定するものが相手の中に見える、ということがあります。

本当はそんな自分が嫌で嫌でたまらないとか、
百も承知なことを相手の存在がつついてくるとか、
ゆずれない自分の正義を壊しにくるとか。
そういう自分にとって不都合なことばかりがそこにあるんだと思いました。

そんな不都合なこと、絶対にされたくないことから自分を守るために、
大嫌いだと思うことで、相手のせいにしていたんです。
まずは、あの人大っ嫌い!と思えば、
それでいったん心は守られるような気がして。
それを思った瞬間に、全身に鉄の鎧を装着するような感じでした。

不思議なのは、
パターンのケアをしていくと、
まずはこの世に大嫌いな人が今以上にどんどん出てくるということ。
自分でもびっくりするほど、あの人嫌い、この人大嫌いって、
もう嘘はつけなくなってしまうのです。

でも、それは毒出しのようなもので、
自分を大切にしていくために必要なことだったとわかります。
その毒があるから自分のケアをせずにはいられなかった。

かといって、ケアをしたからといって、
嫌いな人はもう一人もいないでーす・・・とはなりません。笑
やっぱりいるんです、人間でいるうちは。
ただそれが、以前のそれとはまったく別ものの捉え方になり、
自分と切り離されたものとなり、
自分のケア次第で心の状態もどうにでもなっていけます。

これが、この学びをしてきて心底良かったって思うことです。
私の学びの目的といってもいいほど、
学ぶきっかけも本当にここ、でした。
これからもそうやって、人を自分を理解していきたいのだと思う。

嫌いな人って、いなくはならないけれど(もしかすれば、一人もいません!という未来もあるかもしんないが)、
いることで、自分の人間としての器もわかるし、何より成長ができる。

大嫌いな人が登場したときは、心がざわざわするけど、
もしかしてこれって、魂的には、はい来ましたよ~って、
違うざわざわ感(期待感?)なのか。


じゃじゃ麵 紅しょうが忘れた!




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